創作エッセイ(14)体験をネタに小説作品化するとは
若い書き手にするアドバイスに、「自分の体験をネタに作品化してみる」ということがある。
自由な想像の物語の中で、のびのびと自分が考えたキャラを動かしたい、というのが願いでではあろう。でも、時々、自分の体験を基にして作品を描いてみることは、キャラクター造形に実に役に立つのだ。
自分の体験を振り返ってみる。学生時代に書いた作品のキャラは、どこかで読んだような作品の拝借が大半で「伊達邦彦みたい」とか「犬神明みたい」になっていた。
新たなキャラを造形しようにも、あまり社交的でもなく、読書が趣味の私には、出会った人間の絶対数が少なかった。深く掘り下げたり、内面を観察できる人間は「自分自身」しかいない。
自分を主人公に自分の体験をネタに、当時の自分の心理を客観的に分析することで、他者の心の動きや揺らぎなどを「~ということなのか」と想像できるようになっていくのだ。
自分の体験を作品化するには、それなりの時間の経過が必要である。
私の「神様の立候補」という作品は仕事の体験を基にしているが、書き上げたのは実際の体験から一年後である。
「自転車の夏」という青春小説は、大学の少林寺拳法部時代を描いたユーモア小説なのだが、作品化できたのは30代の半ばである。
「青空侍58 人生はボンクラ映画」は、53歳で勤務先を中途退社してからの職業遍歴を通しての気づきを描いたユーモア小説だが、書き上げたのは59歳の時である。
時間が経過することで、乾いた作品に出来るのだ。自分史的な作品は、乾いていなければならない。
WEBや地方同人誌で散見する「自分史系」の作品の大半は、この「乾き」が足りない。
具体的には、客観的なスタイルを装いながら、「苦労自慢」「恨み節」「教養自慢」「センス自慢」などで読むに堪えないものが多いのだ。
同じ書き手としてそれを否定はしない。架空の世界の物語であろうとも、結局は根底にあるのは「作家の自分語り」である。だとしたら、「~自慢」や「恨み節」が透けて見えるような書き方はしてはいけない。
自分の心情や気持ちを、徹底的に客観視して、恥ずかしさも超克して描くことで、単なる自分史は文学になる。
私の自分史系の作品がいずれもユーモア小説なのはそのためだ。失敗も苦労も笑い飛ばして描けるようになるためには、それだけの時間が必要なのだ。
折々に、自己の省察を通して自分の体験ネタ作品を書きながら、さらに色々な人間観察を積み上げていくことで、あるとき、自分の想像の物語世界に登場するキャラクター達が、「記号」から「人間」になっていることに気づくだろう。
(2023/09/30追記)
私の体験系の作品は以下のようなものです。
Amazon.co.jp: 薔薇の刺青(タトゥー)/自転車の夏 電子書籍: 栗林 元, murbo: Kindleストア
Amazon.co.jp: 神様の立候補/ヒーローで行こう! 電子書籍: 栗林 元, murbo: Kindleストア
Amazon.co.jp: 人生はボンクラ映画 電子書籍: 西森元: Kindleストア
現在Noteで公開中の「92’ナゴヤ・アンダーグラウンド」は最新の体験ネタ小説である。
92’ナゴヤ・アンダーグラウンド(1)「世界で一番熱い夏」|栗林元 (note.com)