創作エッセイ(22)読みやすい文章にする

読みにくい文章とは?

 小説を書き始めて間がない頃に、まず指摘されることが文体だ。曰く「読みづらい、何が書いてあるのかわからない」など。
 特に若くて読書量の蓄積が足りない場合に多い。私も23才で初めて書いた作品を、「子供っぽい表現が所々にある」という指摘を友人から受けてがっくりした記憶がある。
 最近、読んだWEB投稿作品で感じたのは、回りくどい文章。それっぽい文章で例を挙げるとこんな感じ。

例)
 西城は、那覇市の辻(ちーじ)にほど近い若狭町にある打ちっぱなしのコンクリートが無愛想な三階建てで、二階の窓の下に横書きの第三昇龍会という看板が掲げられているビルの前にバイクを停めた

 この文の読みづらさは、「西城」という主語と、「バイクを停めた」という述語の間に、無理矢理ビルの様子を入れているから。そこで次のように直す。

直しの例)
 西城がバイクを停めたのは、那覇市の辻(ちーじ)にほど近い若狭町にある三階建てのビルの前だった。打ちっぱなしのコンクリートが無愛想だ。二階の窓の下に横書きの第三昇龍会という看板が掲げられている。

 長々しい一文で書いたことを三つの文に分割しただけで、ここまで読みやすくなる。
 最初の文は、作者の頭に浮かんだモノを浮かんだ順番でタイプしているために陥りやすい文。「勢いで何万字書いたぜ」的な方が推敲をおろそかにすると、こういう文を書きがちだ。
「個性なんです」という声も聞こえてきそうだが、「個性だけ」なら必要ない。野坂昭如などは読みづらい個性的な文だったが、それを補ってあまりある力が作品にあったからこそ許されていた感がある。

例外もある。

 ただし、悪文的な個性が許される場合もある。それは地の文が一人称のモノローグ(独白)形式の作品の場合。典型的な例は夏目漱石の「吾輩は猫である」。その個性が、語り手のキャラ描写にもなっているからだ。
例)
 おいおい、いいのかよ、と思ったが、でも「お情けで会社においてもらっているうつ病の高齢社員の俺」には文句なんて言えないよな、そうだよ言えない言えない。とブレーキを掛ける西本の心の声。第一、プロキシーサーバすら理解していない本田に説明することを考えただけで気が萎えた。
 広告会社だから広告イメージである程度「消費者をだます」のもしょうがないかもしれないが、「広告主をだます」のはいけないだろう、なんてことは思っても口に出せません。ええ、私は、「うつ病の年寄り社員で会社の穀潰し、しかもハゲですから」、と西本の心の中で自虐回路がフル回転した。

 これ、くどい文章じゃないか、と思われそうですが、実は語り手視線の主人公が「うつ」真っ最中である、という彼の心理状態の描写でもある。くどいけど、読みにくくはないというさじ加減に注目して欲しい。
 そして物語の後段では、このモノローグがすっきりとした文に変わっていき、主人公の回復をも表現している。

読みやすい文章のこつ

 実は私も、箱書きから書いていくという「シナリオ的手法」をとっているために、最初の文章は箇条書きで順不同な場合が多い。これを読みやすく推敲していくのだが、そのコツは音読である。
 実際に声に出す必要はないが、音読するときの息継ぎのタイミングで、文が終わっていない場合、つまり、主語と述語の間に「息継ぎ」が必要な場合は長過ぎると思っていい。言い換えれば、主語と述語の間に息継ぎを必要としない文を書けってことだろうか。

 作者の語り口や個性も大事だが、読者の読みやすさを犠牲にしてもなお、おつりが来るほどのものではないと思う。エンターテイメント作品なら、なおのことだ。

 例に挙げた文章は、自作の「不死の宴 第三部」(現在執筆中)と「青空侍58~人生はボンクラ映画」(別名義)より引用した。
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