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まえばし心の旅042:旧町名

先日、平和町郵便局で開催されていた「まえばし百年商店資料展示会」を見てきた。私のお付き合いのある方が所蔵する資料を展示する企画だが、展示のメインの一つは、100年前のまちなかのお店の並びを通り毎に再現した資料で、今でも続くお店には印が付けられていた。

もう一つのメインは昔の前橋の資料で、いくつかの古い地図などが展示されていた。その中で特に私の目を引いたのは、「前橋市全図」という地図だ。合併前の市域なので、今と較べるとかなり狭い。北は群馬大学医学部の辺り、南は六供町、東は日吉町や朝日町までで、そして天川の辺りが半島状に飛び出ている。そして西は利根川まで。全体の形は、なんとなく茨城県に似ている。

 その地図には、はっきりとした製作年代が書かれていないが、一中がその後に中央小学校になる場所にあることや、すでに競輪場があることなどから、昭和25年から31年の間と推測できる。
 
 特徴的なのが、今のけやきウオークの場所だ。ぽっかり空白地帯になっているのだ。調べてみたら、そこにダイハツ車体の工場ができたのは昭和35年だというから、中島飛行機の後、何も使っていなかったのだろうか。しかし、ネットで昔の航空写真をみてみると、建物は残っていた様だ。

 そして、やはり私は自然と、まちなかに目がいく。そうすると、旧町名と地番が克明に記されている。さらには、旧町名の境界線がはっきりと記されていて、そのエリアがよくわかる。それを見ると、多くの町が、東西に長いことがわかる。今も「立川町通り」として名前が残る「立川町」は、諏訪橋から妙安寺のあたりまで、横山町はオリオン通りから国道17号まで、そして私が住む紺屋町は、佐藤ビルのあたりからスズランまで。これも、お城に向かう道沿いに町がある名残か。

 これらの町名は、理由があって付いた名前で、例えば紺屋町は、染物の職人が多く住んでいたからだというし、竪町は、南北に縦になっている町だから、また横山町は東西に横になっているからその名が付いたという。

 そしてちょっと郊外に目を移すと、私が育った地域には、清王寺町があった。清王寺の名は、江戸時代の資料にも出てくる歴史ある名前だ。

 今、前橋の旧市内の町名は、ほとんどが後から人工的につけられた名前になってしまった。名残は、「紺屋町会館」「立川町会館」「桑町会館」といった施設か、「清王寺薬局」などのお店などの名前くらいしかない。上電の「一毛町駅」は、ずっとその名前を守っていたが、平成6年に「城東駅」になってしまった。

 昔から続く地名というのは、地形や歴史など、さまざまな背景があって自然発生的にできた名前だろう。その名前には、人の営みや、その土地の自然の特徴が記されている。例えば、水に関係する地名の場所は、地盤が弱いことがある。地名が変わってしまえば、それもわからなくなってしまう。そういった意味からも、昔の地名は、その地の特徴を表しており、変えてしまうのは、時に不便な場合もあると思うし、風情もなくなってしまう。

でも、今更全部元に戻すのはナンセンスだろう。せめて、自分の家に、「紺屋町」にちなんだ名前をつけようかな。

放送日:令和4年2月16日

音声データはこちらからお楽しみ下さい。


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