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「私が書いた日記」 6

 目が覚めてスマホをみると時刻は4:30だった。ベランダの植木に寄ってきている小鳥の声が聞こえてくる。都心のアパートで小鳥の鳴き声で目覚める贅沢な朝となった。すぐに着替えて出勤の準備をしようとしたが、今日は仕事が休みだと気が付いて二度寝をした。出勤日に規則性がなく、休みの日でも途中まで着替えてしまうことがある。逆に、出勤日を休みと勘違いすることはない。それが、労働者魂だ。

 二時間ほど寝て起きて、机に向かった。そして、日記帳を開いた。8月23日と29日の日記を読み返す。この数行の日記は、数年後に姿を消した父親の素行を上手に表現している。いや、これは、父親が家族の前からいなくなる兆しだったのだろう。9歳の夏季の私に、そんな父親の人間性を察する力もなく、父親の行動や言動に落胆したとしても、疑問を抱くほどの人生経験などなかった。

 父親は大手電機メーカーに勤めていた。母親から聞いた話だが、仕事での評価が高くて収入もよかったそうだ。そのうえ、3人の子供と妻が周りにいた。だが父親は、この頃には何かから逃避するような酒の飲み方をしていた。一体何が物足りなかったのだろうか。そして、今でも記憶に残るほどに、父親が家族への約束を破る回数は増えていった。それでも、大人というのはそういう者なのだ、と私は考えていた。

ー12月24日ー
きのう、サンタクロースにプレゼントをおねがいした。お父さんがでんわした。弟と妹もおねがいした。すごく楽しみです。

ー12月25日ー
サンタクロースからプレゼントがきてた。うれしいです。弟と妹にもきていました。お母さんがわらっていた。

 夏休みの楽しい思い出を記すこともなく、日記は一気にクリスマスまで飛んでいる。クリスマス恒例の父親のパフォーマンスはよく覚えている。父親がサンタクロースにプレゼントを電話で発注するという演出だった。そういう遊び心をみせる愛情表現は、私が小学生を卒業するまで続けてくれた。その時まで、私はサンタクロースの存在を信じることができた。そういう巧みな演出は教育ともいえる。今でも、とても感謝している。

 だが、こういう教育は後に、刃となり残酷にも家族に襲いかかることがある。それは、ジリジリと動くプレートがエネルギーを蓄積させ反動で起こす大地震のようなもので、同じ方向にスムーズに動き続けられるか、あるいは反動に耐える方法を知らなければ、いつか悲劇を生む。人生で躓くことはあって当然で、それを乗り越えて子供は成長していく。だが一方で、親の決めた教育方針の理不尽な方向転換は子供に大きな傷をつけてしまうことがある。父親の変貌により、後にクリスマスの思い出は刃となった。

 この日記を書き始めた頃から、父親の飲酒や母親の歪んだ笑顔から、漂う悲しい現実を感じる機会が増えた。同時に、それに耐えることに全力を注ぐ生き方をする様になった。現状という過去の幻影を保つことが正しいことだと考えていた。そして私は、父親がこの頃から借金を重ねていたことを知った。

ー1月10日ー
へんな男の人からでんわがきた。おまえテレビみたことあるか、~♪~♪ってコマーシャルしってるだろ、お父さんお金かりてるんだよ、しってるか?っていっていた。

 この事を記しているということは、父親や家族に脅威が迫っている事を感じていたのだろう。夏休みやクリスマスの思い出に並ぶインパクトを感じとって記したに違いない。実際に今でも、この時のことをよく覚えている。日記には月日しか書かれていないが、これを記したのが1992年の1月だとすれば、この日記は10歳の時の出来事を記したことになる。

 

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