私が書いた日記 7
ー2月3日ー
きのうお父さんが、五月にわさびをとりにいこうと言った。ぼくは、ゆきちゃんに、わさびをたくさんあげると言った。
これは、実現しなかった。不甲斐なさを感じていたのだろう。父親にとって、精一杯の虚勢をはったのだ。翌日、ゆきちゃんが「お父さんに言ったら、ちゃんとお礼を伝えておきなさいと言われた」と、私に言った。ゆきちゃんの父親は、礼儀や常識を大切にされていたのだろう。
五月に近づく頃まで、ゆきちゃんとはワサビの会話で盛り上がった。父親の行動や言動から、子供ながらに、叶わないだろうと察していたのに会話を重ねていた。ゆきちゃんに対する後ろめたさは日に日に膨らむ一方だった。間違いなく割れる風船を、割れないと信じて膨らますような空しい感覚を、私はこの頃すでに知っていた。その感覚に満たされつつ、現実から目を背けることを覚えていった。
ワサビ採りの数日前、父親に「ワサビ採りにいくんだよね」と、催促したが案の定、それはもう少し後にしようと言われたことを記憶している。五月を過ぎてもワサビを渡せなかったことで、ゆきちゃんとの会話にぎこちなさが生じ、次第に会話はなくなった。
うろ覚えだが、この頃には家の電話がよく鳴っていた。座布団をかけて音を消していた父親の姿は何度も見た。それが、何をしているのかわからなかったが、そういうことだったのだろう。きっと、番号が表示されない電話が鳴るだけで、それが借金に関する電話であるとわかっていたのだ。とても、情けない話である。
堪りかねて、母親は何度か電話に出た。「すみません。それはできません」と、その度に頭を下げている母親の姿を、夜の10時ころ、妹と弟と一緒に、薄暗い子供部屋からみていた。
私たち兄弟は、この事が周囲に言ってはいけない普通ではない事であるという認識があった。つまり家族だけの秘密だった。そして次第に、クラスメイトとの会話に羨ましさを感じる感覚、そしてギャップを知ることになった。
この頃から、夜寝る前に母親から勉強を強いられることはなくなった。それまでは、かなり熱心な教育を受けていて、同時に愛情もたくさん受けていた。勉強からの解放に喜びを感じることはできなかった。苦しくてもいいから、ガミガミと勉強を強いてくる母親が、幸せの象徴であるとすら感じた。親から見放された気持ちだったのだろう。
父親はほぼ毎日、かなり酔っ払って帰ってきた。母親が玄関で倒れている父親を布団まで引きずっていく。その大きな音で、子供部屋にいる私たちは目を覚ます。しかし、二人の姿を子供部屋からは見ることができなかった。それが、とても異形な世界を想像させた。声と食器の割れる音は聞こえても、その姿を見ることができないことが怖かった。そして、父親は母親へ暴力を振るうようになっていった。
それでも、父親が素面で帰ってきた時、母親はつくった料理の話を楽しそうに話したりしていた。その二人の会話を聞けた時、私たちは子供部屋でその事を喜んだ。薄暗い子供部屋で、小声で喜びあった。そんな夜はぐっすり眠ることができた。父親の帰宅で目を覚ますことは、私たちの日課となっていた。
ー8月28日ー
おばあちゃん家にきた。お父さんとお母さんとおじいちゃんとおばあちゃんが、わらっていてうれしい。あしたは、おじいちゃんのゲートボールをみにいく。
祖父は、帰省するたびにゲートボールのスティックを嬉しそうに見せてくれた。何本も持っていて、練習用と試合用、そして大会用で使い分けていた。その大会用のスティックを「庭で練習したい」と言った私に、貸してくれたのを覚えている。そのスティックはピカピカで、子供の私でも使うのを遠慮してしまうほどだった。それでも、あの庭で、楽しく遊ばせてくれた。
しかし、祖父との楽しい思い出は、これ以降にはない。後の思い出は、セピア色のフィルターで覆われた様なものしか残っていない。この日記は10歳時かそれに近い夏のものだ。この頃、もう既に父親の借金はかなり膨らんでいた。この夏を境に、私は、子供心や純粋な気持ちの脆さを知っていった。
窓を開けてのんびりと高層ビルを眺めた。空は水色一色で雲が一つもなかった。体からみかんの香りが僅かに漂っている。藤井さんは、ペンキ絵から富士山を眺める臨場感をつかんだ私に、「そういう感性は立派だよ。羨ましい」と、言っていた。しかし、その感性は、自分を欺くことで備わったものでもある。そう思った時、心の中の雲が薄れていくように感じた。