答えは無いということを知る。
先日、高校2年の三女が
「数学の問題を解いた後に、答えの選択肢の中に、自分の出した答えが無かったんだよね。」と言った。
それを聞いた私は、
「面白い!(三女の答えは)既存の答えには当てはまらないってことやね!」って伝えたら、
「そんなわけないやん」
と、一蹴(^^;
そうよね、そう。
数学で、答えが無いってことないよね、しかも、選択肢の中にあるはずって思うよね。
テストだと困るよね。
そう、そうなんだけど、
「答えが無くてもいいやん!」
「あなたの出した答えが答えでいいやん!」
「自分の出した答えに自信持とうよ〜!」
と、思った母なのよ。
とかく、
いいか悪いか、
正しいか間違ってるか、
どれが答えで正解か、
そんな環境の中で育ってきたから、
答えがあることが当たり前、
正解が正しい、
それ以外は間違ってると、やりがちよね。
そこに在る気持ちや想いが置いてけぼりになって、寂しかったり、怒ってみたり、窮屈さを感じてみたり。
移住から半年が過ぎ、
さつま芋の収穫が、残り僅かになり、ひと段落ついて、本格的な焼き芋シーズンを前に、両親の不満が放出してきた。
思い入れのある数々の物を処分される、
残しておきたいの数々の品をリフォームした離れでは狭くて置けない、
ここぞという時に使いたい貴重な物を日常的に使われる、
母家を好き勝手されているように感じる、、、
大事にしてきたものを蔑ろにされているように感じる寂しさ、怒り。
苦労して築いてきた物や事を軽々しく扱われているような悔しさ、悲しさ。
などなど。
不満を聞いて、
(まだ一部だけ聞いただけだけど)
ここにきて、
ようやく本音で話せる関係になってきたんだなぁと、表面的に動揺しつつ、心の底ではホッともしている。
見える形で大事にしているしていないと判断しそうになるけれど、「大事にする」ってどういうことだろう?
それぞれの価値観や状況によって、答えは違う。
使っていない物でも持っていることが大事にすることだと考える両親、
使っていない物や捨てられる物を工夫して使ったり、手離すことも大事にしていることと考える私と旦那さん。
その「答え」と思っていることも、観方を変えると答えかどうかは怪しくなる。
何が良いとか悪いとか、
正しいとか間違ってるとか、
そうジャッジしたくなる想いもひっくるめて、
「全部」が
「そうだと知る」機会であり、
自分の価値観を知る機会でもあり、
何が答えかは分からなくても、
「答え」だと思うことを探求していくことが大切なんだと感じる。
ただただ、心の道標が示す方向に進みながら。
両親とは、
「お互いの思っていることを話す時間と場が必要」ということで合致していることに希望がある。
そして、
お互いの心からの願いは、
「お互いが穏やかに幸せに暮らす」
ということも一致している。
そのための価値観や手段が、今は、食い違ったり、知らなかったり、知っていても、受け入れられないだけ。
ここでの里山暮らしを自分が楽しみながら、地元の人も訪れる人も交流して、それぞれの才能をかけ合わせて、再び活気のある村にしたい!
そう願い、希望に溢れて移住した旦那さん。
旦那さんの願いが叶うことが私の希望。
自然と人と物と場が生き生き生きる、持続可能な村になるにはどうししたらいいか?
日々問いかけながら、この半年余りを過ごしてきた。
地元住民代表で、一番応援して欲しい両親との出来事ひとつひとつが必然な気がする。
どうであっても、
幸せに生きる希望を持って、
今日今を生きているという事実が在る。