【レポート】Go Beyond My Comfort Vol.1アフリカ・ウガンダ共和国のまちづくり視察〜はじまり商店街 共同代表くまがいけんすけの「忘れていた感情を呼び起こす旅」〜
2022年9月17日から10月2日にかけて、はじまり商店街の共同代表・くまがいけんすけはアフリカ・ウガンダ共和国を訪れた。大学時代の東南アジアの旅や20代の自転車での世界1/4周(アメリカのアラスカ → メキシコのバハカリフォルニア南端まで)など様々な旅を経験してきたくまがいが、初めて降り立ったアフリカの地で感じたものとは?くまがいの視点で追う。
足を踏み入れたことのないアフリカの地へ
アフリカへの旅のきっかけとなったのは、「天地の宮(あわのみや)」代表の高須多明との出会いだった。共通の知人を介して出会った高須氏は、アフリカ・ウガンダにあるミュータンダ湖(Lake Mutanda)のほとり・ガヒザ村に魅せられ、湖畔にエコビレッジを創るプロジェクトを行っていると言う。その天地の宮プロジェクトの一環で、ミュータンダ湖の畔に水タンクを設置しに行くから一緒に来ないかと誘われた。
いつかアフリカへ行きたいという漠然とした思いはあった。20代の頃、石田ゆうすけ氏の『行かずに死ねるか!』という本をきっかけに、自転車での世界一周に挑戦したことがある。旅のきっかけをくれた石田氏とお会いした際に「1番良かった国はどこですか?」と尋ねたら、彼はケニアで見た夕日の話をしてくれた。夕日を見ていたら、知らず知らずのうちに涙が出てきた、と。
自分の人生に影響を与えてくれた人がそんな風に言う国は、一体どんな場所なのだろう。様々な国を旅してきたけれど、自分がまだ足を踏み入れたことのないケニア、ひいてはアフリカという場所に、興味を持った瞬間だった。
それから10年近くの時が流れ、不意にアフリカ行きのチャンスが巡ってきた。迷いもあったが、この機会を逃せばもうアフリカへ行くことはない気がする。そう思い、天地の宮が行うまちづくりプロジェクトをリサーチするという形で、ウガンダへ旅立つことを決めた。
いざ、ウガンダへ
成田空港を発った飛行機は、韓国の仁川空港を経由し、エチオピアのアディスアベバ・ボレ空港へ。16時間ほどのフライトを終えアディスアベバで飛行機を降りると、今まで嗅いだことのない独特な匂いに包まれた。「これがアフリカの匂いか」と感じたことを覚えている。
アディスアベバ・ボレ空港で飛行機を乗り継ぎ、ウガンダのエンテべ空港へ。到着してまず初めに、スマートフォンのSIMカードを入れ替える。20年近く前、大学生の頃は『地球の歩き方』を手に旅をしていたが、今は旅先でもスマートフォンを手に日本とも気軽に連絡が取れるし、現地のことも調べられる。「旅」というのも大きく変わったなと思った。
空港を出ると、高須さんの現地パートナーの1人であるジョージが迎えに来てくれた。この旅では2人のジョージと出会うことになるが、彼は1人目のジョージである。先に到着していたメンバーと合流し、6人でジョージが運転するハイエースに乗り込んだ。
エンテべ空港から首都のカンパラへ。そこからさらに12時間ほど車に揺られて、ガヒザ村があるキソロ県へと向かう。途中観光客向けの飲食店で、アボカドが添えられたライスとカレーのようなものを食べた。僕も他のメンバーもこの時は当たり障りのないメニューを選んだので、この時はまだウガンダらしい料理は食べていない。そこからいくつか街を抜け、この日はキソロ県の高級なホテルに宿泊した。ここでも当たり障りのない夕食を食べて眠りについた。
「アフリカらしさ」の洗練
翌日、はじめてアフリカで迎えた朝は、日本とは何もかもが違っていた。外の空気、動物の鳴き声、鳥の翼の色、そびえ立つ4000m級の山々—。はじめて全身でアフリカを感じ、「あぁ、随分遠くまで来たんだな」と思った。アフリカの空気に誘われるように、1人ホテルの近くを散歩すると、村人からの視線を感じる。これまでも様々な国を旅してきたが、この時ほど現地の人の視線を感じたことはないかもしれない。それは決して悪意のあるまなざしではなく、首都から10時間以上かかる田舎町を1人歩く外国人が物珍しかったのだろう。
ホテルから再びハイエースに揺られ、40~50分ほどでミュータンダ湖の東の湖畔へ到着した。ここからは舟でガヒザ村を目指すのだが、この舟がなんとも頼りない。僕たちが乗る前から入っていた水をすくっては、湖へ戻しながらの旅となった。その体験に妙に「アフリカらしさ」を感じた僕は、かなり気分が高まっていた。
そんな「アフリカらしい」舟旅を経てようやくたどり着いた西の湖畔は、想像以上の歓迎ムードだった。出迎えてくれたガヒザ村の人々が、僕たちの荷物を頭に乗せて、村へ繋がる急こう配の丘を登っていく。荷物は頭に乗せたほうが運びやすいのかと思い彼らの真似をしてみたが、ただただ頭と背中が痛かった。
ソウルフルに踊りまくるガヒザ村の子どもたち
村に到着するとさらなる歓迎ムードに包まれ、子どもたちが歓迎のダンスを踊ってくれた。今回の旅で僕が最も衝撃を受けたのが、このダンスである。僕自身もダンス経験者であるが、ガヒザ村の子どもたち以上にソウルフルに踊る人々には出会ったことがない。誰かから教わったわけでも、決して技術が突出しているわけでもない彼らだが、一人一人が自分のグルーブ感を持っていて、音の取り方、音に対する関わり方に圧倒された。彼らにとっては、きっと踊るということが自分のアイデンティティを表現する手段なのだろう。当たり前のように自分を表現するダンスに目を奪われていると、彼らの情熱が伝播してくるようだった。初めての感覚に涙が出そうになった。
僕はいつも、一歩引いたところから自分を客観視している節がある。それは処世術でもあるけれど、どこかで自分にブレーキをかけてしまい、自分が一皮剥けない一因でもあると感じている。もちろん「はじまり商店街のくまがいけんすけ」として目の前のことに全力で取り組んではいるが、100%の情熱を持って没頭している人には敵わない。そういう生き方に憧れがあるし、自分の感情をすべて注げるような何かを探している感覚がずっとある。ガヒザ村の子どもたちの情熱を間近で感じ、自分も内から湧き出る情熱をもっと表現できる人間になりたいと改めて思った。
この手でひとつの生命を終わらせた
歓迎ムードの中、夕食で食べる子ヤギの屠殺を体験しないかと村の方が提案してくれた。共にガヒザ村へ来たメンバーの中に料理人がいたので、彼女と一緒に屠殺に挑むことになった。村の大人たちがヤギの足を捕まえて抑え込むなか、首元に刃物を入れる。首元に刃が入っていく時の反応はシビれるものがあったけれど、目を背けてはいけないと思い、しっかりとヤギを見つめた。
抑え込まれていても漏れ聞こえるヤギの鳴き声に、彼女はそれ以上続けることができなくなってしまった。僕は1人で刃物を強く握った。刃を進めていくと、ヤギは徐々に動かなくなり、生命が終わりへと向かっていることが伝わってくる。そして、自分の刃が生命の途切れるきっかけを作った瞬間が、はっきりと分かった。「食べる」ために、続いていくはずだった生命をこの手で途切れさせたのだ。
昨今の日本は「死」というものへの距離が遠いように思う。家族の死を家で看取ることが一般的だった時代は、日常と「死」はそう遠いものではなかったはずだ。自分は「死」と距離ができてしまった現代の日本においても、「メメント・モリ」の感覚は忘れずに生きていきたい。そう考えてはいたけれど、頭で考えることと実際に「死」を体感するのは全くの別物だった。目の前で一つの生命が終わったという悲しみと共に、月並みな言葉ではあるが生命をいただくということ、自分が生かされているということ、生命が循環しているということを身を持って感じることができた。なかなかシビれる体験だった。
その日の夜、ウガンダのソウルフード「マトケ」と対面することになる。マッシュした甘くないバナナにジーナッツ(ピーナッツに近い味の紫色の豆)のソースがかかったウガンダの国民食で、これを米と共に食べる。絶妙に食欲をそそられない薄い紫色をしていて、なんとも言えない薄味である。そしてこれをてんこ盛りで出してくれる。自分が屠殺したヤギのお肉と、湖でとれた魚を使ったマッドフィッシュのスープ(出汁が効いていて美味しい!)と共にマトケもしっかりと完食した。
初日の夜はガヒザ村にテントを貼って野外泊をした。目を覚ますと左には湖、右には雲海があり、まるで絵に描いたような景色が広がっていた。
湖から丘の上へ
ガヒザ村で過ごす2日目は、天地の宮がまちづくりを行う集落の一つである「トレードセンター」へ向かった。1時間ほどトレッキングをしてたどり着くトレードセンターは、ガヒザ村から最も近い交易拠点である。この日の昼食は、高須氏の現地パートナーであるケドレスの家で、例にもれずマトケをいただいた。
天地の宮が水タンクの設置を行うのは、集落と集落の間にある教会の近くだ。いよいよ水タンクの設置に向けて動き出すわけだが、水タンクの設置に必要な道具は、まずは僕たちが舟に乗った東の湖畔へと納品される。長い道のりの始まりである。
※(左)FUNKYレディーのケドレス/(右)自分をアフリカに招いてくれたMr.高須
東の湖畔へそれらを受け取りに行くと、1000ℓと500ℓの水タンクに加えて、タンクを支えるためのとてつもなく重たい鉄柱と発電機が僕たちを待っていた。水タンクを設置するのは、ガヒザ村同様、急な丘の上である。この鉄柱を持ってあの急こう配を登れるのだろうか。一目見て不安になった。この日はキソロでテント泊をし、翌日タンクと共に再び湖を西へ渡る。
水タンクを設置する丘の近くに舟を停めると、地元の青年が丘の下まで荷物を運んでくれた。問題はここからだ。このとてつもなく重たい鉄柱をあの丘の上に運ぶことなんてできるのか。4,5人で円形になってなんとか持ち上げて運ぶのにも無理があるのではないか。そう思っていたら、地元の子どもたちがやってきて、鉄柱やタンクを横にして大玉転がしのようにコロコロと転がし始めたのだ。そのまま鉄柱とタンクは丘の上まで転がっていき、無事に設置場所へと到着した。あぁ、そういうのありなんだ。自分って常識に囚われてるな。転がり上がっていくタンクを見ながらそんなことを思っていた。
その後は5日間かけて、エンジニアの方が溶接や塗装をしたり、僕たちもできる作業を手伝いながら、タンクの設置を行った。水タンク設置の1番の難関はホースだった。ポンプの強さが足りず、5,60m下にある湖から水を吸い上げるのに苦労したが、試行錯誤しながらなんとか上手く設置することができた。エンジニアをはじめ、現地の方にも仕事を依頼していたのだが、彼らはリクエストした通りに仕事が進んでいなくても「What’s Up!」とにこやかに話しかけてくる。「俺らの仕事完璧でしょ?」と言わんばかりの彼らの態度に、この自信が仕事に繋がる部分もあるんだろうなと妙に感心してしまった。
この期間は東の湖畔と西の湖畔を行ったり来たりしていて、設置場所の近くにある学校の歌って踊るノリノリな帰りの会に感動したり、薬草を煎じているおじさんにマトケを振る舞ってもらったり、養蜂をしている方に生はちみつを食べさせてもらったり、2人目のジョージの実家にお邪魔したり、村で偶然行われていた結婚式に混ぜてもらったりと、とにかく濃い毎日を過ごしていた。設置作業が完了した後は、日本語から英語、英語から現地の言葉へ訳してくれる2人の通訳を介して村長と会談をした。すべての作業が完了した日に高須氏と共に眺めた夕日は、今も心に残っている。
ガヒザ村とはじまり商店街
ガヒザ村を訪れた一番の学びは、「発展途上」とも呼べないようなアフリカの未開の村と、日本、ひいてははじまり商店街が抱えている課題が同じだということだ。ガヒザ村の子どもたちは、お菓子などのモノを与えるとすごく喜んでくれた。けれど「先進国」、「発展途上国」という考え方自体を疑う必要があって、先進国が発展途上国に「モノを与える」という構造は我々のエゴではないのか。
水タンクも同じだ。僕らが村に水タンクを設置することで、彼らの生活は物質的には豊かになるかもしれないが、果たして幸福度は上がるのだろうか。もしかすると水タンクなんてなくても、あんな風にダンスで自分を表現できるガヒザ村の子どもたちは、すでに十分「豊か」ではないのか。モノを与えることは、彼らの主体性を奪うことに繋がるのではないのか。「物がない」という課題を「物を与えられる」という方法で解決すると、彼らには主体性がなくなってしまう。そこから先の彼らは、いかにして自分たちを発展させるかというところにシフトしなければならないのだ。
この主体性の問題が、日本社会が抱える課題と重なって見える。現在の日本は情報が溢れかえり、主体的に思考する能力が弱くなっているように感じるのだ。構造は異なるかもしれないが、いかに主体性を持って自分の生きる選択肢を作るのかという課題感は、日本社会にも当てはまるだろう。
そしてこれは、はじまり商店街が提供するサービスにおいても同じことが言えると思う。「はじまりを、はじめる」をビジョンに、「分かち合うコミュニティの再創造」をミッションに掲げるはじまり商店街は、自分の意思で自分の人生を選択できる「主体性」を生み出すイベントやサービスを作ってきた。だからこそ「主体性」を生み出すはじまり商店街のサービスは、日本国内だけではなく海外に展開することもできるのではないか。ガヒザ村を訪れてそんな可能性の萌芽を感じた。
見知らぬ街の夜道が、忘れていた感覚を呼び起こす
引き続きガヒザ村での活動がある高須さんと別れ、キソロの街で残りの3日間を過ごした。キソロへ戻ってきたのは夜で、バスターミナルからボダボダというバイクタクシーに揺られてホテルのあるエリアへ向かう。荷物を抱えながら人が多い見知らぬ土地を歩くのは少し怖かったが、このドキドキ感にどこか懐かしさを覚える自分もいた。
あれは自転車での世界一周に挑んで帰国した時。自分が「ビビっている」ことに飛び込み、それを越えていく大切さを感じたことを思い出した。生きていると大変なことももちろんあるけれど、YADOKARIのCEOであるさわだいっせいの言葉を借りれば、「コンフォートゾーンを越えた」経験があれば、「あの時に比べたら楽だよね」とその経験を糧に進んでいくことができる。だから僕はもっと、もっと攻めた生き方をしたい。見知らぬ土地で夜道を歩くドキドキ感が、忘れていた感覚を呼び起こしてくれた。
キソロの夜道だけではない。思い返せばこの旅は、忘れていた感情や感覚を呼び起こす毎日だったように思う。僕にとって旅は、喜怒哀楽を鮮明に感じるための装置である。僕は日本にいると、喜怒哀楽を感じる機会はエンターテインメントの中に閉じこめられてしまう。けれどスマートフォンを手に「作られた世界」を眺めている時に感じる喜怒哀楽は、現実味がなくどこか味気ない。スクリーン越しでは決して味わうことのできない根源的な感情に出会い続けた今回の旅は、これからの自分が進むべき道を改めて示してくれた。
文/橋本彩香