人種差別概説
ユダヤ人
何年か前から、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作が世間を賑わしている。どうも胡散臭いと思っていたが、彼はユダヤ人だそうで、なるほどユダヤの駄法螺かと合点がいった。ユダヤ人は何千年も前から法螺ばかり吹いているので、彼らの言うことはあまり真に受けないほうがよい。
こういうことを言うと差別的だと批判されるので、誰も表立って言おうとしないが、ある程度論文や研究書などを読んできた人ならば、その著者の思考のパターンのようなものが読み取れるはずである。中でもユダヤ人の思考は独特であり、ある種のユダヤ臭さというものが存在する。もちろん、そういうものが存在する、と言うこと自体が差別的だと言われかねないが、あるものはある。
私が特に問題視しているのはアインシュタインであり、彼にもたしかにユダヤ的なところがある。ユダヤの特徴は思い込みの強さであって、彼の場合は原子の存在を信じ込んでいた。彼の原子論への信仰が、後世の物理学に与えた影響は非常に大きい。
たとえばボーアの相補性原理は、率直に考えれば、原子が存在しないことを意味している。原子が粒子と波の両方の性質を持っているということは、物質を構成する微粒子としての原子は存在しない、ということである。だが現代の物理学者は、相補性原理と原子論は両立すると思い込んでしまっている。その原因を作ったのがアインシュタインである。彼がボーアとの間に論争を展開することで、争点を原子論からそらせてしまった。ボーアもアインシュタインもどちらも原子論を信じており、彼らが実在の意味について議論する間に、原子論そのものの当否は閑却されてしまったのである。
ユダヤ人は常に単純な答えを求める。アインシュタインの場合、それは原子論だった。彼は後年、統一場理論を追求する中で、原子を場の特異点として処理しようとしたが、それは本末転倒である。アインシュタインを天才だと言う人もいるが、むしろ非常にユニークな馬鹿と言ったほうが適切だと思う。彼は物事を単純化するのが得意で、それが科学に進歩をもたらすこともあれば、探求を袋小路に導いてしまうこともあった。ユダヤ的思考の功罪両面を併せ持つ人だったと言えるだろう。
人種とは何か
ここで、ユダヤ人と人種差別の問題について改めて考えておきたい。日本には人種差別は存在しない、と言う人もいるが、それはたぶん事実である。というか、そもそも日本人には人種という概念が理解できていない。人種という観念そのものが非常に特殊なものであって、日本には本来存在しない思想である。
もちろん、文明人と野蛮人、我々と彼ら、のような区別は存在しており、それを差別ということもできる。たとえば大和人は、蝦夷のことを人間だとは思っていなかったようであるし、中国のことになるが、殷の時代には、異民族を家畜のように犠牲に奉げていたこともあった。だが、そこに人種という観念があったかというと、それは甚だ疑問である。
たとえば、蝦夷の子孫は何代先でも未来永劫ずっと蝦夷である、というような、不変の実体として人種が存在する、という考えは日本にはなかったように思う。もちろん、探せばそういう思想も出てくるかもしれないが、一般的には、蝦夷と大和人との間には明快な境界線などなく、両者の間は一種のグラデーションのように観念されていたのではないか。
このような、永遠不変の実体として人種というものが存在し、ある民族の子孫は必ずその民族に属することになる、という人種観は、ヨーロッパ世界に特有のものであり、さらに追究すれば、それはユダヤ民族との関わりの中で育まれた思想だと言える。ユダヤの選民思想の本質は、ユダヤという民族が存在する、ということである。つまり、彼らは人種という概念を発明したのである。
そうしたユダヤの人種観に触れることで、ヨーロッパにおいても人種観念が発達したと考えられる。誰も口に出しては言おうとしないが、ヨーロッパには非常に明確な人種の階層が存在する。簡単に言えば、西に行くほど高級な人種で、東に行くほど低級な人種になる。一番高級なのはアングロサクソンで、最低はスラブ人であり、ゲルマン人は中間くらいである。このような暗黙の人種の序列が存在し、これを理解していないと、ヨーロッパの歴史は分からない。
たとえばヒトラーは、ゲルマン人が至高の民族だと主張したが、彼も心の底ではアングロサクソンが最も優れていると考えていたのであり、ゲルマン至上主義は一種の強がりであったとも考えられる。
ナチスのソ連への侵攻も、このような人種観に基づくもので、下等な民族であるスラブ人はゲルマン人に征服されねばならなかった。そもそもナチスの出発点はヴェルサイユ体制からの脱却であり、その原則に照らせば彼らの真の敵はイギリスである。そして本当にイギリスを打倒したいのであれば、彼らはソ連と手を結ぶべきであった。だが実際には、ナチスはソ連に侵攻した。
この点が、人種という観念に馴染みのない日本人には分かりづらい。人種の観念は政治的な目的に優越する。これがヨーロッパ政治の原則である。
アメリカの人種差別
日本人には外人を馬鹿にするようなところがあるが、それは自民族中心主義の現れであり、簡単に言えば手前味噌である。自分たちが最も優れている、という思い込みは誰にでもあるもので、それが人種差別と同じものかといえば、違うと言わざるをえない。人種差別には必ず人種という観念が伴っており、それが欠けている場合には別の社会現象となる。
では、人種差別を解決するために何が必要かといえば、まず人種という観念が虚妄であることを自覚する必要がある。日本人には人種観念が希薄なので特に何もする必要はないが、ヨーロッパ人、特にアメリカ人はこの点によく注意するべきである。
アメリカにはもう一つ問題があって、それは合衆国憲法である。アメリカにおける人種差別とは、基本的に黒人に対する差別であり、その起源は往時の奴隷制に遡る。その奴隷制が憲法本文の中でどのように規定されているかというと、何の記述もないのである。奴隷という単語すら出てこない。しかし、奴隷に関する記述が皆無だというわけではない。この憲法において奴隷は「労働に服する義務がある者」と表現されている。
これは非常に曖昧な表現である。たとえば日本国憲法においては、日本国民には労働の義務がある、と規定されている。ゆえに、合衆国憲法に照らせば日本国民はみな奴隷だということになってしまう。そんなおかしな話はない。
ここに、アメリカにおける黒人差別の起源がある。奴隷の問題はごまかしてもよい、という信念が、建国以来脈々とアメリカ人の中に受け継がれてきたのである。人種差別に正面から向き合うのではなく、言葉巧みにその問題を回避しようとする、そういう傾向を合衆国憲法そのものが作り出してきた。ゆえに、アメリカにおける人種差別問題を解決するためには、合衆国憲法を放棄するのが最もよいと言える。インディアンの問題と向き合うためにも、それは是非とも必要である。
およそ人種差別について言うべきことは以上である。