見出し画像

くつろぎ君はコーヒーがキライじゃない!(1)【お仕事小説】

「失敗する大人が見て~~」というノリで、潰れかけた喫茶店にバイトに来たインテリチャラ男大学生(ゲイ)と、何かあるとすぐに「ぶわっ!」と泣いてしまう喫茶店のマスターの、喫茶店立て直しの半年間の物語。
斜に構えたツンデレ大学生(21)が、要領の悪い泣き虫な喫茶店のマスター(27)にドップリ落っこちるまで。

あらすじ

プロローグ:くつろぎ君のうそ


 失敗する大人が見たかった。
 取り返しのつかない失敗をした大人が、人生に絶望する横顔を、隣で見てみたかった。

 バカで、本質を何も理解していない愚かな大人が派手に倒れる様を、興味深く、他人事として観察したかった。

 だって、俺は失敗しないから。
 だから、一度くらい失敗してみたくなった。

 でも、そんな事を言われたって実際に失敗するのは嫌だ。
 そりゃあそうだ。それに、俺には何を選べば失敗するのか分かってしまう。失敗すると分かっていて、その選択肢を選ぶなんて無理だ。

 だから、思った。
 失敗する人間が見たい、と。

 失敗する人間の真横で、他人事に少しの臨場感を足したような視点で。
 あたかも自分が失敗したかのような立ち位置で。

 そんな時だった。

 〝あの店〟を見つけたのは。

4月:マスターの気苦労

 青葉溢れる五月半ば。
喫茶【金平亭(こんぺいてい)】の店内は、今日も満員御礼だった。爽やかなコーヒーの香りが立ち込める、築五十年以上の古い店内。

 ここは、俺のお城だ。俺が俺らしく自由に生きる為の大事な場所だ。

「マスター」
「ん?」

 春風みたいに軽やかな〝彼〟の声に、俺はふと顔を上げた。

「オーダーです。ブレンドとアメリカン。それにガトーショコラが入りました」
「了解」
「あ、これは八番さんのオーダーですね。俺、持って行きます」
「ありがとう。じゃあ、お願い」

 彼は透き通る紅茶のような明るいオレンジ色の髪をフワリと揺らすと、首を傾げてコーヒーを注ぐ俺の手元へと視線を落とす。そして、まるで香りを楽しむように一瞬だけ目を閉じた。あぁ、なんて優雅な姿なんだろう。

「良い香りですね」
「ふふ。新しい豆を取り寄せたんだ。休憩時間になったら、淹れてあげるよ」
「……ありがとうございます」

 店にはひっきりなしに客が来て忙しいのに、何故か彼の周囲だけは時間がゆったりと流れているようで不思議な空気感が漂っている。ただ、だからと言ってのんびりしているワケではない。動きの全てが洗練されていて無駄が無く、判断も早い。

「でも、これが終わったら先にマスターが休憩に入ってくださいね。朝から全然休んでないでしょう?」
「でも、まだお客さんが……」
「大丈夫、必要な時は呼びますから」

 そして、周囲への気配りも最高だった。こんなバイトの子、どこを探したって早々見つかりはしないだろう。

「ありがとう、寛木(くつろぎ)君」

 頷いた瞬間、それまで見ないフリをしていたはずの疲労感がズシリと肩に乗って来た気がした。そんな俺を見透かすように寛木君は微笑むと、客へのオーダーを手に軽やかに店内へと踊り出た。

 カラン。

 来客を知らせるベルの音と共に、五月の颯爽とした風が手元のコーヒーの香りを揺らす。その瞬間、「マスター」と俺を呼ぶ寛木君の声が聞こえた。顔を上げる。
 すると、こちらを振り返った寛木君とパチリと目が合った。次いで、オレンジ色の柔らかい髪が微かに風に靡く。

「マスター。店を閉めた後、お話をする時間を頂いていいですか?」
「へ?」
「出来れば、二人っきりで」

 彼にしては珍しく俯き加減で口にされる言葉に、俺はハタと気付いた。寛木君の頬は、微かに赤い。もう五月なのに、桜の花びらみたいな柔らかい色だった。

「い、いいよ。田尻さんが帰った後、二人で話そうか?」
「……ありがとうございます」

 ペコと、会釈をして今度こそ店内へと迷いなく向かって行った彼の後ろ姿に、俺は少しだけ浮わついた気持ちになる。胸の奥がこそばゆい。あぁ、顔が熱い。

「ど、どうしよう……」

 寛木 優雅(くつろぎ ゆうが)君。二十一歳。大学四年生。
 先月からこの店でバイトとして働いてくれている、凄く良い子。イケメンで性格も良くて、礼儀もなっている。そして、何より、

--------マスターのコーヒーは本当に美味しい。俺、大好きです。

 俺のコーヒーを美味しいと言ってくれる。
 ただ、コーヒーを飲みながら微笑む彼の顔は、いつも微かに赤らんでいた。それに、「好きです」と口にする彼の目は、いつもコーヒーではなく〝俺〟に向けられていた。だから、俺はどこかで確信していたのだ。

「こ、告白されたら、なんて答えよう……」

 きっと、寛木君は俺の事が好きに違いないって。口にした瞬間、熱かった顔に更に熱が籠った。

「まてまて。俺、店長だし。寛木君はバイトの子だし。っていうか、寛木君は男の子だし!あぁ、でも今の時代はそういうのは関係ないよな……」

 いや、俺なんて特に何の特徴も、決して顔が整ったヤツなワケでもないけど……ほら、人を好きになるって顔だけじゃないだろ。性別だって関係ないし!
 なんて事を、俺の浮かれきった頭は本気で考えていた。そう、俺はこの時、完全に浮かれていた。浮かれ散らかしていたのだ。

「えーっと、『ごめんね、寛木君ならもっと素敵な子に出会えるよ』なんてどうかな。いや、これじゃ無責任過ぎる?」

 脳内で告白された時のシミュレーションなんかして。はたまた、ちょっとだけ良い感じになってしまった妄想なんかもしながら。
 だって、寛木君は、俺の事が好――

「あぁ、もう。我慢できねーから言うけどさぁ。この店、半年以内に百パー潰れるわ。これケッテー事項ねぇ」
「へ?」
「あと俺、コーヒーじゃなくて。紅茶の方が好きなんだぁ。覚えといてぇ」

 あれ?あれれれ?
 店が潰れる?紅茶?っていうか、

「……あれ、告白は?」

 思わず口から漏れた戸惑いに、俺の淹れた〝とっておきの珈琲〟を前に彼は激しく吹き出した。

「ぶはっ!マスター、マジで俺がゲイだって言った事信じてたんだっ!マジでウケるっ!最高過ぎ!」
「……え?」
「っくくくく!マスター、俺に好かれてると思ってたんだぁ!しかも、ノンケの癖にちょっと嬉しそうだしっ!あはははっ!とんだ勘違い野郎じゃん!こりゃ、店も潰れるわ!」

 最早、呼吸困難な程に腹を抱えて爆笑する〝彼〟に、俺は思った。
 今、俺の目の前に居る〝彼〟は、一体誰だ?と。


一カ月前。

 あれ?これは一体どういう事だ?

「ますたー!アメリカン2、あとホットサンド、ガトーショコラですー!」
「伝票そこに置いといて!」

 目まぐるしい、目まぐるしい。
 俺はその日も、懸命に自分の店で働いていた。昼どきの店内は、全席が客でごった返している。

 このご時世、本当にありがたい事だ。しかし――。

「ちょっと!私が頼んだのは紅茶じゃないわよ!コーヒー!お茶一杯に一体どれだけ待たせるのよ!」
「っす、すみません!」

 騒がしい店内から、後を引くような耳障りのする甲高い怒声が聞こえてきた。手元に並べられた伝票にチラと目をやる。同時に、俺は眉間に指をかけて小さく息を吐くと、すぐに側に準備していたホットコーヒーを手に店内へと飛び出した。

「お待たせしました。ホットのアメリカンです」

 突然背後から現れた俺に、場の視線が一斉に集まる。

「……」
「どうされました?」
「……私は、アイスってお願いしたはずだけど」
「え?」

 その言葉に、俺はヒクリと眉を顰めた。隣では、どうして良いか分からずオロオロとモタつく女子高生バイトの田尻さん。

「……申し訳ございません。すぐに作り直します」

 頭を下げる俺に、数名で共に店を訪れていた中年の女性達が一斉に何か騒ぎ始めた。この店内のざわめきの半分はこのババァ共によるものだ。そして、最悪な事にこの店の常連でもある。

「ねー?私はアイスってお願いしてたわよねぇ!?」
「してた、してた」
「今日は暑いからアイスにしようかって言ってたわ!」

 あぁっ、やかましい!黙れ、このクソババァ共が!
 俺は絶対に覚えている。確かに注文の時は「ホットコーヒー」と注文していたはずだ。なにせ、「ブレンドですか?アメリカンですか?」と尋ねた時、「どっちでもいいわよ!」と一蹴されたのだから!クソッ!ブレンドとアメリカンは全然違うだろうがっ!

「……」
「ま、ますたぁ」

 隣から田尻さんがポニーテールを揺らしながら首を振る。その目は完全に「この人達、うそつきですよぉ」と訴えかけている。あぁ、分かっているよ。田尻さん。
 大方、ベラベラ喋っている間に喉が渇いて、これ幸いとこちらのミスとして注文を変更する気だろう。そう、分かっているのだが……

「……申し訳ございません。すぐにお持ちしますね」
「早くしてよね!」

 俺は笑顔で頭を下げた。
 お客様を神様だとは一切思っていない。けれど、これ以上この客に時間など使ってはいられない。なにせ、とにもかくにも店は大盛況で忙しいのだ。俺は次のメニューの準備に移らなければならない。

「ますたー」
「大丈夫。ほら、行くよ。田尻さん」
「でも」

 眉間に皺を寄せ、納得いかないといった表情を向けてくるバイトの彼女は、まだ高校三年生だ。二年前の店のオープン時からずっと働いてくれているが、どうも思った事がそのまま顔に出てしまう節がある。接客業としては少し問題だ。

「この後、休憩に行ってきていいから」
「でも、お客さんたくさんだし」
「いいよ。少し休んでおいで」
「……はい」

 まぁ、仕方ないだろう。だって、まだ彼女は十七歳なんだから。俺が高校生の頃は、バイトなんてした事すらなかった。バイトの無断欠勤なんてよく聞く話なのに、この子は一度もバイトを休んだ事はない。むしろ、殆ど毎日入ってくれている。良い子だ。

 そう、俯く彼女に再び「行こうか」とコッソリ声をかけた時だった。

「ねぇ、あの二人。絶対にデキてるわよね」
「そうね。まだ女の方は若いし、お金欲しさに色仕掛けでもしたんでしょ。一体いくら貰ってるのかしら」

 背後から聞こえてきた下卑た会話に、隣に立って居た田尻さんのポニーテールがユラリと揺れた。

「あぁ、ヤダヤダ。職場で女を売るなんて。あのマスターもまだ若いし、コロッと騙されてんのよ。やぁね。いやらしい」

 チラと田尻さんへ視線を向ける。ヤバイ、完全に目がブチ切れてる。早いところ彼女を店の奥に引っ込めねば。田尻さんは普段こそ「ますたー」と、どこか抜けたような話し方をしているが、キレると手が付けられないのだ。

「でも、あのマスターでいいのかしら。顔も全然パッとしないし。趣味が悪いわよねぇ」

 カラカラとした笑い声が、下品極まりない会話の合間に店を揺らす。いや、揺れているのは田尻さんのポニーテールか。それとも俺の視界か。ムカつき過ぎて、眩暈がする。

「金さえ持ってりゃ何だっていいのよ!顔なんて嫌なら見なきゃいいんだから!」
「それもそうねぇ!」

 締め上げるぞ、クソババァ共が!俺に金なんかねぇよ!この店がどれだけ赤字だと思ってんだ!

 その笑い声に、俺は怒りを落ち着けようと深く息を吸った。しかし、沸騰しきった頭は一切冷却されたりはしない。隣に居る田尻さんは、どうしているだろう。だが、気にしてあげられる余裕は一切ない。

 あれ、つーか。なんでこんなに客が居て……この店は赤字なんだ?
 そう俺がザワつく店内を、どこか遠くに感じた時だった。

カラン

 店のベルが鳴った。
 また客が来たようだ。開いた扉を通じて、四月にしては肌寒いくらいの風が外からフワリと入り込んできた。その風に、沸騰しきっていた頭が、少しだけ落ち着く。

「い、いらっしゃいませ」

 とっさに振り返る前に口にしていた。条件反射だ。あのベルの音を聞くと、もう反射でそう口にしてしまう。
 しかし生憎、席は全部埋まってしまっている。もう新しい客を対応するのは無理だ。本来ならこのベルの音は嬉しい音のはずだったのに。今ではウンザリしてしまう。そんな自分が、嫌で堪らない。

「すみません。満席で」そう、口にしようと振り返った時だ。俺は言葉が喉の奥で詰まるのを感じた。驚き過ぎて声が出ない。
 なにせ、そこに立って居た男の子が、とてつもなく――

「あ。もしかして、満席ですか?」
「っぁ」

 優しい色をしていたからだ。
 首元にまで掛かる髪の毛はフワリと空気を含んで柔らかく、まるで紅茶のアールグレイが光に透けたような明るいオレンジ色をしていた。目に沁みる程の鮮やかな色彩が、そこには立って居た。そう、彼はどこからどう見ても〝春〟だった。

「あっ、えっと……」

 思わず口ごもる俺に対し、その彼は小首を傾げる。ふと、細められた瞳は気遣うような色を含み、口元に引かれた唇は程よく色付き、いやらしさのない色気を醸し出していた。一言で言おう。品の良いイケメンが、そこには立って居たのである。

「イケメンやぁ」

 隣から聞こえてきたのは、安穏とした感想を漏らす田尻さんの声。どうやら、イケメンの登場に先程までの怒りはすっかり納まったらしい。助かった。「くたばれ!」と叫びながら客に殴りかかろうとする彼女を後ろから羽交い絞めせずに済んだ。

 同時に店内から一組の客が立ち上がる音がした。どうやら、もう出るらしい。

「あっ、ますたー。私がお会計してきまーす」
「あ、お願い」
「はーい!」

 客の動きにイチ早く気付いた田尻さんが、ひょことその場から駆け出していった。

「お客様、席を片付けますので少々お待ちください」
「はい、ありがとうございます」

 俺が声をかけると、春を背負ったようなそのイケメンは屈託なく細めた目で嬉しそうにこちらに会釈した。なんて良いお客さんなんだ。
 テーブルを片付けなければ。そう、俺が空いたテーブルへと向かおうとした時、会計を終えた二人の客からポソリと声が漏れた。

「落ち着いたお店だと思ったのにね」
「うん、なんか全然落ち着かなかったね」

 台拭きを手にテーブルをゆっくりと拭う。ツキリと痛む胸。きっと、この人達は二度と来てくれないだろう。

「……お客様、こちらへどうぞ」

 けれど、表情には出さない。今、目の前に居るお客さんに集中しなくては。そうでなければ、この場所は守れない。
 この店【喫茶 金平亭】は俺の大事なお城なのだから。


「ひゃーー、今日も疲れたぁ」
「今日は一際お客さんが多かったもんね。はい、どうぞ」

 客も捌けて閉店した店内。
 カウンター席に上半身を預け、グッタリとする田尻さんの前に、俺は準備していたホットサンドとコーヒーを置いた。その瞬間、それまで力無く折れていた体が、ピシャリと持ちあがる。

「っはぁ!ますたーのごはんとコーヒー!」
「今日はよく我慢したねー。偉かったよ、田尻さん」
「あははー、あのイケメンのお客さんが来なかったら、ひゃくぱーぶっ飛ばしてました」
「……」

 やっぱりか。
 彼女特有の、あっけらかんとした物騒な言葉を聞きながら、俺は汚れたカップを手早く洗っていく。まだまだシンクには洗い物が数多く残っている状態だ。あと、在庫のチェックに明日の準備、レジ締めに、収支の計算。
 あぁ、一体今日も何時に帰れる事になるのやら。

「はー。私、ますたーのコーヒーだけは、ブラックで飲めるんです。おいしーから」
「ふふ、それは良かった」

 彼女は素直だ。客に対しても、店長である俺に対しても。この子の辞書に「お世辞」なんて言葉は載って無い。きっと、最初のページにくるのは「くたばれ」ではないだろうか。

「最近、すぐお客さんでいっぱいになりますねー」
「田尻さんにお店のSNSの更新を任せて正解だったなぁ。ありがとね」
「ふふー!だって、この金平亭は見た目がレトロー?だから!こういうお店は女の子はみーんな好きです」
「へぇ、そうなんだ。ふーん、レトロねぇ」
「こういう古クサい感じが、レトロー?なんだと思います!」
「古臭い……」

この店の店主である俺を前にあっけらかんと言う彼女の言葉には、歯に絹を着せるなんて行為は存在しない。彼女はウソがつけないので、彼女の歯はいつも剥き出しだ。
 まぁ、いつもの事なので気にしない。気にしても仕方がない。

「あーぁ。でも、ちょーっと、最近は忙し過ぎるかなぁ」
「……確かにねぇ」

 カウンターに両肘を突きながらチラとこちらを見てくる田尻さん。いや、キミの言いたい事は痛いほどよくわかる。

「ごめんね。今、求人を出してるんだけど……中々人が来なくて」
「ココ、時給やーっすいですもんねー」
「っぐ」

 ほんとにこの子は素直だ。
 それに、時給が安いのは事実だ。確かに、最低賃金に毛の生えたような時給じゃ、飲食店なんて誰も応募してくれないだろう。
 分かっている。分かっているのだが!ない袖は振れないじゃないか!だいたい、新しいバイトを入れるのも、本当ならギリギリ無理なラインなのに。

「時給安くて、ごめんねぇっ!」
「へ?何でますたーがあやまるんですか?高校生の私を雇ってくれたのは、コンビニ以外じゃここだけでした。私はありがとうって思ってますよ!」

 そして、コンビニは二日でクビになったんだもんな。お客さんに「くたばれ!」って叫んだせいで。そして、例に漏れずうちでも三日目に「くたばれ!」を発動したもんね!あの時はどうしようかと思ったよ。

「もう一回、求人を掲載してもらおうかな……」

 いや、無理だ。
 求人広告費なんて最早、欠片も捻出できそうもない。店をやり始めて初めて分かった事。それは「求人」が最も金とリスクを伴う金食い虫だったって事だ。

「でも、私もあと一年しかここには居れないから、ますたーも次のバイトを探さなきゃですね」
「田尻さんも、もう高校三年生だもんねぇ。早いなぁ」

 かくいう、俺も仕事を辞めて気付けば二十七の年を迎えている。ここまで本当にあっという間だった。そう、汚れた皿を洗う手を止める事なく感慨にふけっていると、「あのぉ」とカウンターから気づかわしげな田尻さんの声が聞こえてきた。

「こーじーさんと仲直りして、戻って来てもらったらダメですか?」
「……田尻さん、空いたお皿貰おうか?」

 こーじーさん。
 田尻さんの口から出てきた名前に、俺はその一切を無視して空いた皿に手を伸ばした。そんな俺に田尻さんは「ごめんなさい」と俯きながら皿を差し出してくる。いけない、大人気なかった。彼女に悪気なんて一切ないのに。

「った、田尻さん。コーヒーのお替りは」

 いる?
 そう、俺が口にしようとした時だ。カランと店のベルが鳴った。おかしい、入口には「クローズド」の立て看板をかけたはずなのに。そう、俺が暗くなった店の入り口へと目をやった時だった。

 夜なのに、なんだか視界の先が明るくなった気がした。

「あの、こんな時間にすみません」
「あ、キミは」

 そこに立っていたのは昼間の客だった。鮮やかで優雅な、あの

「イケメンやぁ」
「田尻さん、お客様だよ」
「へ?そうなんですか?お店は終わりましたよ?」

 店が閉まったらお客様じゃないじゃないですか。と、事もなげに言ってみせる彼女に、俺は苦笑せざるを得なかった。
 客かどうかはおいといて、殆ど初対面の人間を相手に「イケメンやぁ」はないだろう。いや、まぁ彼女にとって「イケメン」は純粋な褒め言葉だから仕方がないのかもしれない。

「どうされました?忘れ物ですか?」
「あ、いえ。そうじゃなくて……表にあった張り紙を見て」

 彼の癖なのだろう。昼間に店に来た時同様、微かに首を傾げながら目を細める彼の仕草は、やはり愛嬌があった。その立ち姿はスラリとしていて、俺より身長も随分高い。そんな、小柄とは言い難い体躯をしているのに、苦も無く「愛嬌がある」と思わせるだけのモノを彼は持っていた。

「張り紙……あ、もしかして」
「バイト募集って書いてあるヤツです。もしかして、もう募集締め切りました?」

 彼からの予想外の言葉に、俺と田尻さんは大いに目を見開いて目を瞬かせた。

「っし、締め切ってません!」

 俺は手についていた泡を急いで洗い流すと、エプロンの裾で乱暴に拭った。まさか、丁度求人について話していたタイミングでアルバイト希望者が来るとは。

「あっ、あっ。どうしよ。今から面接してもいいですか?」
「え、あっ。はい、もちろんです。でも、履歴書とか……まだ無くて」
「それ、後でいいから!あっ!こっ、コーヒー淹れるね!」
「あの、客ではないのでお構いなく」
「す、すぐ淹れるから。好きな席に座って待っててください!」

 お構いなくと言われても、もう嬉し過ぎて構ってしまう。こんな素敵な男の子がアルバイトの募集に名乗りを上げてくれるなんて。

「イケメンさん。マスターのコーヒー美味しいので飲んだ方がいいです!」
「あ、それは昼間に飲ませて頂いたので、分かります。凄く美味しかったです」

 いつの間にか、コーヒーカップを持った田尻さんが、イケメンの彼を席まで案内していた。しかも案内するだけじゃなく、一緒に隣に座ってニコニコと話し始めている。おい、店長を差し置いて何やってる。

「ここで働くとですね、このおいしーコーヒーが毎日飲めます。それがこの店の良いトコです!」
「へぇ、そうなんですね」
「そう!でも、ここの時給めーっちゃ安いです!大丈夫ですか?」
「あ、それはチラシを見たので……」
「でも、オニーサン、大学生ですよね?なのに、あのお給料で良いですか!?イケメンだし、もっと他にいーっぱいバイト先あると思うのに!何でここをバイト先に選んだんですか!」

 おいおいおーい!何を勝手にバイトがバイトの面接を始めてるーー?
 いや、まぁ彼女の事だ。面接をしている気なんてサラサラないに違いない。しかし、質問の内容が完全に面接のソレと丸被りしてるじゃないか!

 そう、俺が悪気なくにこにことお喋りを続ける彼女に、制止の声をかけようとした時だ。

「今日、ここで飲んだコーヒーが……凄く美味しかったので」
「っ!」

 そう、ほんのりと頬を染めながら答えた彼の視線は、迷いなく〝俺〟へと向けられていた。俺のコーヒーが美味しかったから。そう、彼は確かに言った。俺のコーヒーが、美味しかったからって……!

「採用します!」

 脳から指示が出る前に、俺の口は勢いよく言葉を放っていた。

「えっ、もう?面接はいいんですか?」
「はい!」
「わー!初めてバイト仲間が出来たー!うれしー!」

 戸惑った表情を浮かべる彼に、俺は急いでカップに注ぎ終わったコーヒーを手に駆け出した。俺のコーヒーを美味しいと言ってくれた彼に、すぐにでも俺のコーヒーを届けたかった。

「はい。これ飲んで!」
「あっ、ありがとうございます」

 優雅で品の良い彼の前へと腰かけた。遠目に見てもイケメンだったが、こうして目の前にすると更にイケメン具合が増した。

「格好良いなぁ」
「は?」
「いや、何でもないです……」

 凄い。重箱の隅を突けないか試してみたが、無理だった。彼の〝格好良い〟には一切隙がない。そのせいで思わず、田尻さんのように口から本音が漏れ出てしまった。いけない、俺はもう大人なのに。

「俺はこの店の店長をしてます青山霧(あおやま きり)です。これからよろしくお願いします」
「私は田尻(たじり)ミハルです!高校三年生です。よろしくおねがいしまーす」
「あっ、俺は寛木優雅(くつろぎ ゆうが)です。大学四年です。どうぞよろしくお願いします」

 四月中旬。
 こうして俺のお城【金平亭(こんぺいてい)】に、もう一人アルバイトの男の子が入った。

 それは、五月の〝あの日〟から、ちょうど一カ月前の出来事だった。



 次の日から、さっそく寛木君はバイトのシフトに入ってくれた。
 大学四年で単位も殆ど取り終えたからと、俺のお願いするタイミングにはいつでも合わせられると言ってくれたのだ。

「これからよろしくお願いします。マスター」

 そう言って頭を下げた彼、寛木君は本当に、ほんっとうに掛け値なしの〝良い子〟だった。
 さて、どのくらい良い子かというと――

「俺、この店の事好きですよ。コーヒーの良い香りで凄く癒されますから」
「マスターの淹れてくれるコーヒーは本当に美味しいですね。俺、大好きです」
「あれは……またあのお客さんですね。大丈夫です。俺が行きますので。マスターは商品の準備を」
「マスター、実は俺ゲイなんです。あ、あの、気持ち悪いですよね。すみません。店をクビにして頂いてもけっこうですので……え?そんな事しない?今まで辛かっただろう?マスターは優し過ぎますよ」

 最高に良い子だ!

 イケメンで性格も良い、仕事も出来て、礼儀もなっている。
 彼のお陰で、あれほど酷かったクレームが少しだけ減った。特にあのクレームババァ集団は大分と大人しくなった。やはりイケメンには見苦しい所は見せたくないらしい。

 まったく、今まで色々と苦労もあっただろうに、彼は愚痴一つ零さない。彼の口から誰かの悪口なんて聞いた事は、ただの一度もなかった。俺が大学の頃は、こんなに立派じゃなかった。

 本当に、寛木君は良い子〝だった〟。
 そう、つい〝先程〟までは。

「っはぁぁ、もう!マスター。……アンタ、マジでウケるんだけど」

 あれ?これは一体どういう事だ?

「へ?あれ?」

 誰も居なくなった店内で、俺の淹れたコーヒーを前に向かい合わせのソファ席で偉そうに片足を膝の上に置き、背もたれにドサリと体重をかける彼。

 あれ、あれれーー?
 良い子だった……はずだよな?

「あぁ、もう。我慢できねーから言うけどさぁ。この店、今年中に百パー潰れるわ。これケッテー事項だからぁ」
「え?」

 イケメンで性格も良くて、仕事も出来て、礼儀もなっていた……はずだったよな?

「理由は経営者がバカだからぁ!コレ一択っしょ!最初は隣で見てて笑い堪えるのに必死だったけど、もームリぃ!面白いの通りこして、最近ずっとイライラしてきたもんねぇ!俺にとってはクレーマーよりアンタのが完全にストレスだったわ!」
「え?え?」

 色々と苦労もあっただろうに、愚痴一つ零さない。彼の口から誰かの悪口なんて聞いた事は、ただの一度もなかった……よな?
 あれ、寛木君ってこんなダラッとした喋り方だったっけ?

「いっちばん、ウケるのが俺に告白されると思ってたってヤツ!ナイナイ!マスターだけはあり得ねぇわ!っていうか、俺がゲイってのも嘘だからーー!マスターってほんと何でも信じ過ぎ!そーゆーとこだよぉ?ほんと、アンタってカモがネギ背負って歩いてる感じだよねぇ」

 いつの間にか足を下ろし、両肘をテーブルに付いていた彼は、やはり酷く絵になっていた。でも、どうしてだろう。いつもと全然違う。喋り方も、態度も、浮かべる笑顔も。

 ちょっ、ねぇコレなに、新キャラ?
 新キャラ登場?俺、新しい人雇った?

「マスターはさぁ、多分こう思ってるよねー?良いモノを真心こめてお客様に提供してさえいれば絶対に商売は上手くいくって。っはー!オメデトウ!オメデタイ人!」
「え、え?ちょっ!く、寛木君!?」

 ここに来て、やっと声を発するに至った俺に、寛木君はコテリとその首を傾げて見せた。あ、これは普段からよく見てた仕草だ。

「あ、あの……君は」
「ん?ドシタの?マスター?……俺が誰に見えますか?」

 そう言って、一瞬だけいつもの礼儀正しい喋り方に戻った彼に、俺は思わず素直に答えてしまった。

「寛木 優雅(くつろぎ ゆうが)君」
「ぶはっ!素直か!……そうですよ?俺は先月この店の求人広告を見てバイトに応募した〝良い子〟の寛木優雅クンです」

 寛木君は言いたい事だけ言うと、腰かけていたソファからスクリと立ち上がった。その拍子に、耳にかかっていたオレンジ色の髪がスルリと落ちた。ずっと思っていた。この髪色、紅茶のアールグレイみたいな色だって。

「はぁっ、スッキリした事だし。帰ります。今日も忙しかったですからね」
「あ、うん」

 先程までの事など、まるで無かったかのように〝いつもの姿〟に戻る彼。あぁ、確かに今日も店は満員御礼だった。ありがたい事に。しかし、

「マスター。お願いですからクビにはしないで下さいね?俺、潰れる店が見たくてこの店のバイトになったんですから」
「えっ、え?ちょっ、ソレはどういう……」

 またしても衝撃的な言葉を口にする彼に、俺は混乱の境地に達していた。

「じゃ、明日からもまたよろしくお願いします。今日も商売繁盛の赤字経営お疲れ様でした。あ、ちなみに」
「あ、はい」

 俺は、最早彼の放つ波になすがまま打ち上げられる海辺のゴミのような気分だった。俺の意思は一切問われていない。もう、混乱しながらも頷く事だけで精一杯。

「俺、コーヒーより紅茶派なんです。よろしければ、明日からの賄は〝紅茶〟でお願いします」
「……」

 最後にコテリと小首をかしげて背を向ける寛木君を俺は何も言えずに見送る事しか出来なかった。名は体を表す。寛木君はいつも優雅だ。そんな彼の後ろ姿を、瞬きすら忘れて目で追う。

 カランと店の入口のベルが鳴った。残されたのはシンと静まり返る、客の捌けた薄暗い店内。そして、この店。喫茶、金平亭の店主である俺。

 青山 霧(あおやま きり)

 鼻から息を静かに吸い込む。
 すると、そこからは俺の好きなコーヒーの香りが一気に鼻孔を擽った。コーヒーの香りにはストレスを軽減する効果がある。うん。お陰で少し落ち着いてきた気がする。そして、最後に寛木君が口にした言葉に、俺は思わず声を漏らしていた。

「……なんで、寛木君。ウチが赤字って、知ってるんだ?」

 その問いに答えてくれる相手は、もう居ない。


 良い子だと思っていた寛木君の正体は、とんでもないインテリチャラ男モンスターだった。

「ますたー、全然気づかなかったですねー」
「ミハルちゃんは、けっこーすぐ気付いてくれたのにねぇ」
「はい!ゆうが君は、おどろくほど演技がヘタでした」
「……ミハルちゃん、さーすがぁ」

「……」

 今日も今日とて、金平亭は忙しかった。というか、毎日忙しい。それなのに、五月の収支も安定して赤字。
 そんなワケで、六月もこの店は火の車の状態でクラウチングスタートを切った。

「はい、寛木君!」

 ドンと俺が乱暴に彼の前に差し出したのは、コーヒーではなく紅茶だった。しかもティーバッグのお徳用のヤツ。バカな俺は、寛木君の「マスターのコーヒーは最高です」という言葉にまんまと騙され、毎日毎日腕によりをかけてコーヒーを淹れていたのである。

 彼はコーヒーより紅茶が好きなのに!まったく、俺のコーヒーの方が絶対美味しいだろうが!
 ……いや、俺は一体何に腹を立てているんだ。

「ハーイ、マスター。やっすい紅茶をあんがとー」
「文句言うな。紅茶は専門外なんだよ」
「ダイジョーブ。大企業様の作った大量生産された商品は、再現性高くバカでもサルでもある一定のレベルで美味しく淹れられるようになってっから。……マスターみたいに〝唯一無二〟を目指して、拗らせてませんからね?」
「……くぅぅっ」

 コテリと小首を傾げながら、嫌味なくらい良い笑顔で言われた。最後だけ、〝良い子の寛木君〟になっているのがまた嫌味ったらしい。
 〝あの〟衝撃の本性を暴露されてから、寛木君は店が開いている時以外は、完全に本性を現すようになった。

 そう、この寛木君の目的は「俺の店が潰れるのを見届ける事」なのだ。
 いや、マジで最低なヤツだ。それを俺は、寛木君が俺の淹れるコーヒーどころか、俺自身を好きだなんて勘違いして。

「はぁっ」

 あの時の俺は完全に黒歴史だ。好かれていると勘違いして浮足立って、断り方をシミュレーションしたりなんかして。最早、恥ずかしいを通り越して悲しくなってくる。
 本当はこんな事を言ってくる子と仕事をするなんて……と思ったのが、如何せん彼は仕事の時は非常に真面目で……やっぱり良い子なのだ。

『マスター、少し休憩に入ったらぁ?この辺の片付け、全部俺がやっとくから』
『……ありがと』

 それに、必修単位を取り終えている彼は、田尻さんが学校で居ない平日の昼間もガッツリシフトに入ってくれる。正直、性格云々など言ってられない程、寛木君には助けられているのである。
 俺が残ったコーヒーをカップに注ぎながら溜息を吐いていると、カウンターに座る二人がとんでもない事を話し始めた。

「ねぇ、ミハルちゃん。もうこの店、今年の十二月までに潰れると思うんだけど次のバイト先を探さなくてダイジョーブ?」
「ひえっ、そうなんですか!?困ります困ります!私、来年の四月から東京のダンススクールに入るつもりでいるのに。せめて来年の三月まで頑張って欲しいです!そーゆう計算で貯金してるんですから!」
「だってぇ、マスター?」

 そう、紅茶のカップを片手にニヤリと嫌な笑みを浮かべてくる寛木君は、完全に身も心も優雅の極みだった。

「この店は……潰れないし!」

 大丈夫、そう。まだ大丈夫だ。
 赤字と言ってもお客さんは毎日沢山来てるのだ。どこかのタイミングで収支も必ず黒字になるだろう。店は、客さえ来てれば潰れたりしないんだから。

「はぁ、よかったー。ゆうが君、マスターがお店は大丈夫だって」
「ふーん?」
「それに、こんなにお客さんもいっぱいで人気のお店なんだから、絶対に潰れたりしませんよ!私のSNS広告のお陰です!」

 田尻さんが、俺と同じ意見でこちらに向かって真昼間みたいな明るい笑顔を向けてくる。

 あれ?何でだろう。田尻さんと全く同じ意見で「大丈夫」だと思っていると考えると、急に不安になってくる。
 まるで、高級なカニと、スーパーのカニカマを食べ比べて「コッチ!が高級カニ!」と思ったら田尻さんと同じ意見だった。そんな気分だ。

「ま、俺的にも就職するまでの暇つぶしはほしーから、三月まではもってくれると有難いかなー……ま、無理だろうけど」

 そう、最低な事を呟きながらお徳用の紅茶をカップですする彼は、悔しいけれど本当に優雅だった。

 午後八時。店を完全に閉めた俺は田尻さんを見送って店内の最終チェックに入っていた。ついでに、明日の開店に向けて在庫のチェックもしなければならない。

「ねぇ、マスター」
「何だよ」

 もう帰っていいって言っているのに、寛木君はいつも最後の戸締りまで一緒に居る。在庫のチェックをしつつ、軽く意識だけレジ締めをしてくれている寛木君へと向ける。

「俺用の紅茶、もう数少なくなってんじゃない?追加で買っといてねぇ」
「……え?あ、ほんとだ」

 俺用の紅茶。
 それは休憩中に寛木君に淹れてあげる紅茶のティーバッグの事だ。あれだけ沢山入っていたモノが、あと残り僅かになってしまっている。

「あのさ、寛木君。飲み過ぎじゃない?」
「そう?」
「そうだよ。一日何杯飲んでるんだよ、まったく」

 だいたい、これは俺の厚意で買ってあげている紅茶であって、絶対買わないといけないモノでもないのに。コッチはずっと経営は赤字なんだぞ。

「今日は十五杯くらいは捌けたかなぁ」
「はぁっ!?飲み過ぎ……っていうか、そんなに飲む時間ないだろ!あ、もしかして、家に持って帰ってる?」
「そんな貧乏クサい事、誰がするかっての」
「でも!」

 想像よりも遥かに数の多い数字に、俺は在庫のチェックの手を止め、レジを締める寛木君へと体を向けた。すると、そこには既にレジ締めを終えた寛木君が、カウンターの内側にある紅茶の茶葉が入った容器の中身を確認し始めた。

「マスターさぁ、紅茶は専門外なんだよね?」
「……そうだけど」
「じゃ、何でわざわざ茶葉から淹れてんの?コレも、なんかわざわざ海外から取り寄せてるヤツでしょ」

 コテリと小首を傾げながらこちらを見てくる寛木君は、やっぱり愛嬌があった。その目は、先程までのようなバカにしたような色はない。ただ、純粋な疑問を投げかけている。そんな感じだ。

「……だって、せっかくお店に来てくれてるんだから。少しくらい美味しくて特別なヤツを飲んで欲しいと思って」
「ふーん。でも、誰も味の違いには気付いてなかったよー?」
「へ?」

 寛木君の言っている意味が分からず、俺は目を瞬かせて彼を見た。すると、いつの間にか俺のすぐ傍まで寛木君が歩いて来ていた。なんでこうもこの子は動作の一つ一つが丁寧なのに、素早いのだろう。

「あのいつものやかましいオバさん集団居るじゃん?あと、よく見かける常連客っぽい人達に今日ソッチのティーバッグの方の紅茶出したけど、誰も何も言ってなかったよ?」
「はぁっ!?」

 寛木君の口から放たれた、あまりにも予想外な言葉に俺は思わず声を上げた。は?何だって?

「ちょっ!何勝手な事してるんだよ!お客さんは不満があるからってわざわざ言いに来たりしないんだ!変だな、美味しくないなって思ってたら明日から来てくれなくなるかもしれないだろ!?」
「ごめんねぇ」
「いやいや、ごめんじゃなくてっ」

 一切悪びれる様子のない寛木君に、さすがの俺も拳を握りしめて叫んでいると、いつの間にか寛木君の手が俺の頬スルリと撫でていた。寛木君の顔も物凄く至近距離にある。
 へ?なに、この状況。

「一週間前」
「っ」

 その仕草があまりにも絵になっているせいで、俺は何を言おうとしてたのか一瞬にして頭から飛んだ。顔が、物凄く熱い。

「一週間前からだよ」
「は?」
「だーかーら」

 そう思った瞬間。優しく撫でられていた頬から寛木君の手がスルリと顎に移動し、グイと俺の顔を上へと向けた。そのせいで、俺の視界は春みたいな寛木君の鮮やかな色でいっぱいになる。

 なになに、なに!一体何だよ!この状況は!?

「一週間前から、マスターが休憩入りしてる時の紅茶は全部そのティーバッグで客に出してたって言ってんの」
「は、え?」
「でも、誰も何も言わないし。なんなら、毎日来てる客は、やっぱり毎日ここに来てるよね。客足減ってた?どう」

 頭が混乱し過ぎて、寛木君から問いかけられた内容の事しか考えられない。客足?いや、全然変わってない。いつも通りだ。

「……へって、ない」
「ね?だーれも、マスターが海外から取り寄せてるこだわりの淹れたて紅茶と、大企業様が大量生産しているティーバッグのお茶の味の差になんて気付いてないってコトー」

 コテリと、いつものように小首を傾げる寛木君は愛嬌があって可愛いのに、完全に上から俺を見下ろしていた。物理的にも、精神的にも。

 え?あれ?俺が色々拘って選んでた茶葉は意味がなかったって事?
 寛木君の言葉が、ジワジワと俺の中へと染みわたってくる。その間も、寛木君の言葉は止まない。

「そうだろうとは思ってたけどさぁ。ほんっとに、思った通りの典型的な潰れる店コースを全速力で走りまくってんね」
「な、なにがだよ」

 俺の問いに、寛木君は「っは。ほらね、全然分かってない」と鼻で笑って見せた。

「マスターは、自分が淹れるこだわりの紅茶とコーヒーのお陰でお客さんが来てるって勘違いをしてるから、店が赤字でも何も対策を練ろうとしないんだね。うん、うん。よーくわかったぁ。こりゃ、やっぱ店の余命も半年以内ってトコかなぁ」
「……よめい?」
「そ、この店の残された時間。色々収支を見てないからハッキリとは言えないけど、見なくても分かるわ。潰れる店の典型だからね」

 余命、残された時間。
 まるで人間の寿命みたいな言い方に、俺は寛木君の手に顎を掴まれたまま、視線だけで店内を見渡した。

 俺の大事な店の余命が、あと半年?
 するとその瞬間、無意識なのか何なのか、俺の顎を掴んでいた寛木君の手が俺の顎の下を撫でた。さっきまで痛いほど強いちからで掴まれていたのに、今は背筋がゾワゾワする程優しく撫でられている。まるで、ペットの犬や猫を撫でるみたいに。

「つぶれないし。だって、お客さん……たくさん来てる」
「うんうん。そうだね。お客さんがいっぱい来てるから、変に勘違いしちゃうよねぇ。どうせなら閑古鳥が鳴いててくれた方が、まだ早めに気付けるのに。お陰で、マスターがまた勘違いしちゃったじゃんねぇ?」

--------自分のコーヒーが皆に好かれてるって。

「っ」

 スルスル、スルスル。
 言葉は厳しいのに、寛木君の手はどこまでも優しい。俺を見下ろす目も優しい。もしかしたら、寛木君は俺の事が好きなのかも……なんて、もう思えるワケがない。
 だって、寛木君の目が優しいのは、俺を対等な人間なんて欠片も思っちゃいないからだ。その辺の犬とか猫を撫でてるような、そんな感じ。

「……ぅ」

 だって、寛木君は俺のコーヒーが好きなんじゃない。大企業の作った大量生産されたティーバッグの紅茶が好きだ。

「マスターは客じゃなくて自分の腕ばっかり見てるもんね。職人気質で、こだわりが強い。赤字なのに、自分が良いモノを提供していれば、いつかは必ず店は黒字になるって問題の本質から目を逸らしてる。だからダメなんだ」
「だ、め?」
「そう、ダメ」

 寛木君がこの店のアルバイトに来てくれたのも、俺のコーヒーを気に入ってくれたからじゃない。この店が潰れる所が見たいからだ。
 寛木君の「ダメ」というその言葉に、遠くから懐かしい声を聴いた気がした。

--------おい、キリ!別にこだわるなって言ってるんじゃない!こだわりは売上を上げてからだって言ってるんだ!このままじゃ、金平亭はダメになるぞ!

 ここは、〝俺達〟が自由に生きる為のお城だった。
 あれ?自由って、一体何だっけ?俺、今自由?

「あ」

 ぼんやりとする俺に、寛木君が俺の目元を見ながらポツリと言った。

「気付かなかった。マスターって小さいけど泣きホクロがあんだね」
--------キリ、お前はまた泣いとるのか。この泣き黒子が泣き虫を連れてくるのか?

 今度は爺ちゃんの声が聞こえる。
 なんだよ、さっきから。もう居ないヤツの声ばっかり聞こえてきて。走馬灯かよ。俺は死ぬのか。余命半年?あれ?それは店の余命?それとも俺の余命?

「あれ?なに、マスター。もしかして泣きそうになってる?ははっ、ウケる」
「っ!」

 そう、どこか揶揄うように口にした寛木君に、俺は堪えていたモノが一気に溢れ出すのを感じた。そう、俺は――。

「へ?えっ!ちょっ、なに!?マジで、泣いてんの!?マスター!」
「っうぅぅうう!」

 号泣していた。

「は!?待って、俺のせい!?」
「うぅぅぅうっ!!」
「え、やっぱ俺のせい!?いや、でも俺、ホントの事しか言ってねぇよ!悪口じゃないし!マジで!ホントの事だけしかっ!」
「うぅぅううっ!」

 急に泣きだした俺に、酷く慌てた寛木君の声が響き渡る。涙で歪む視界のせいで、寛木君がどんな顔をしているかは分からない。でも、声はいつもと全然違って優雅さの欠片も無い声だ。

「ほ、ほんとの事しか言ってねぇのに……!なんでいつも……!」
「っぅぅっひぅっ」

 あぁ、寛木君が辛そうな顔をしてこちらを見ている。

 なんだ、良い子じゃないか。そして、田尻さんとよく似ている。二人共、きっと本当の所でお世辞なんて言えない。嘘の吐けない「良い子」だ。なんだよ、俺の店。癖のある、似たような子ばっかり集まって。

--------おれ、おとなになったらこのホクロ取る!コレ取ったら泣き虫じゃなくなるんだ!

 幼い頃の俺がハッキリと頭の中に響いた。ごめん、俺。大人になってもホクロ、まだ取れてねぇわ。

「なっ、なになに!?男って普通泣かないじゃん!なんで!?こんなに普通に泣いてんだよ!?」
「ぐづろぎぐんっ」
「なに!?」

 俺は止められない涙を滝のように流しながら、寛木君を呼んだ。嘘が吐けないなら、コレだけは聞いておきたかった。

--------マスターのコーヒーは本当に美味しいです。

「おでの、ごーひー、おいじいぐない?」
「は?」
「ごーひー、おいじぐながった?」

 再び泣きながら問いかけた俺に、寛木君は眉を顰めながら言った。

「ま、不味くは……なかった!」

 俺は戸惑いながらも勢いよく答えてくれた寛木君に、再び泣いた。

 あぁ、なら良かった。
 コーヒーが不味くなければ、俺はそれだけでいいのだ。

◇◆◇

 俺が泣き虫なのは、俺が悪いワケじゃない。

--------この泣き黒子が泣き虫を連れてくるのか?

 そう、この泣き黒子が悪いんだ。全部、そうだ。

「あぁ、マスターってすぐ泣きますよー。ゆうが君はまだ見た事なかったですか?嫌な事とかあると、仕事終わりとか、休憩中とか……よく一人で泣いてます!」
「はぁ?」

 俺が寛木君を前に号泣した次の日。
 その日もお客さんは満員御礼ではあったものの、クレーマーは多いは、食器は割れるわ。そのくせ、一日中寛木君からの何か言いたげな視線を向けられ続けるわで、もう大変だった。

「泣いてるってさぁ、ソレ。どういうイミ?」
「そのまんまです!マスターは泣き虫なので、ちょっと何かがあると泣くって事です!」
「……」

 そして、現在。
 俺はと言えば、カウンターで賄いを食べながら俺の話題で不穏な盛り上がりを見せる寛木君と田尻さんを横目に、在庫のチェックをしている所だ。いやいや、バイト同士のお喋りに店長の俺が口を挟むのはよくない。さぁ、仕事をするぞー。

「えーっと、注文が必要なモノはっと。……あ」

 あ、寛木君用に買った紅茶のティーバッグがもう無い。そりゃあそうだ。色々とヤケクソだった俺は、今日の客からの紅茶の注文を全部コレで出してやったのだから。
 チクショウ。確かに毎日来てる癖に、あのウルサイ常連ババァですら紅茶の違いに気付いてなかった。なんだよ、俺の海外からの茶葉の仕入れの意味よ!

「マスターさぁ」
「……なんだよ」

 丁度、苦虫を噛んだタイミングで寛木君が話しかけてきた。顔を見なくても分かる。寛木君は、また「ホントの事」を言うつもりだ。

「バイトの女子高生の前でも泣く程のメンタルなんて、店舗経営向いてないよぉ?」
「……別に、いつも泣いてるわけじゃ」
「昨日だって俺と話してる途中でビービー泣き始めて。ったく、何が悲しくて自分より年上の男をあやしてやんなきゃいけねぇのよ。ありえねぇからね?男が泣くなんてさ」
「ぐ」

 事実が極まり過ぎてグウの音も出ない。確かにその通りだ。昨日は寛木君に、店の経営の事をアレコレ言われて、耐えきれなくなった俺は悪癖を晒してしまった。
「泣き虫」という、大人になっても一向に治ってくれなかった俺の「悪癖」を。

「ゆうが君!」
「ん?何、ミハルちゃん」
「男の人だって泣きます!別に変な事ないです!」

 すると、それまで賄いのホットサンドとコーヒーを口にしていた田尻さんが声を上げた。そんな彼女に寛木君は、頬杖を突きながら田尻さんへと小首をかしげてみせる。

「ミハルちゃんは引かない?大の大人が恥も外聞もなく泣く姿なんて」
「うちはお父さんは、私が小学生の頃。パチンコでお給料を全額溶かしては、布団の中で泣き喚いてました!だから、別に大人の男の人が泣いてても変なんて思いません!」
「……それはそれはぁ」

 サラリと口にされた、なかなかな家庭環境に、寛木君はヒクりと喉を鳴らした。まぁ、育ちの良さが透けて見える彼からすれば、田尻さん家の家庭はなかなか異世界だろう。

「それに、マスターは良い人です!私はいつもありがとうって思ってます!」
「田尻さん……」

 ヤバイ。既にその言葉で泣きそうになってしまっている。どうしよ。嬉しい。けっこう本気のヤツだ。でも、ここで泣いたら更に寛木君にバカにされる。これはどうにか堪えないと。

「っぅ……ぐ」

 そう、俺が空になったティーバッグの袋を握りしめていると、寛木君が再びとんでもない事を言いだした。

「ミハルちゃぁん?そんな事言ってると、マスターに誤解されるよぉ」
「何をですか?」
「ミハルちゃんが、自分の事好きなんじゃないかって」
「はぁっ!?」

 一気に涙が引っ込んだ。ちょっ!一体何を言いだすんだ!

「だって、このマスター。俺がゲイだって嘘ついたら、自分の事好きなんじゃないかって勘違いしてきたくらいだからね?あんまり優しくすると、この人コロっといっちゃうよ」

 寛木君の言葉に、田尻さんの目が大きく見開かれる。
 そんな事言われたら田尻さんが完全に引くだろうが!これはあんまりにも洒落にならない!

「田尻さん!大丈夫だからね!?お、俺、そんな勘違いしないから!あ、あの!ほんとに大丈夫だから!」
「やば、焦り方がマジ過ぎて逆に本気っぽいんですけど」
「ちょっと寛木君は黙ってて!」

 横からちょっかいばかりかけてくる寛木君に、俺は更に焦った。
 どうしよう。これで田尻さんから距離を置かれたり、はたまたバイトを辞めたりなんかされたら……!
 そう、俺がおそるおそる田尻さんへと視線を向けた時だ。

「ゆうが君はゲイですよね?」
「は?」
「ゆうが君は男の人が好き、で合ってますよね?なんで嘘を吐くんですか?」
「は、なにを……」

 田尻さんのなんとも安穏とした声が、寛木君を追い詰める。そう、完全に追い詰めていた。なにせ寛木君からは優雅なのんびりとしたオーラは消え、今やその表情をハッキリと引きつらせている。

 お陰で、先程までの焦りが嘘のように消えた。ちょっと面白い。
 正直者VS正直者。
 この戦いの行方やいかに。

「私は将来、夢の国でダンサーになるのが夢です!」
「え?な、なに。急に……こわ。え?ミハルちゃん、違う星から来ちゃった系だったの?」
「高校を卒業したら東京のダンススクールに行く予定です!だから、SNSで同じダンサー志望の子といっぱい繋がってます!」
「へ、へぇ」

 脈絡なく田尻さんの夢の話が語られ始める。
 寛木君はと言えば田尻さんの話に上手く乗り切れずにいるようだ。完全に戸惑っている。チラと俺の方へと視線が向けられるが、俺は肩をすくめるだけにしておいた。なにせ、田尻さんのコレはいつもの事だ。ここまできたら、最後まで聞くしかない。

「通話とかもするし、たまに、休みの日には遊んだりもします!楽しいです!」
「あ、そう。……いいね、青春かよ」

 戸惑いながらも、きちんと相槌を打つ寛木君の姿は、何だか急に年相応……というか、少しだけ幼く見えた。

「それで、ダンサーの男の子はけっこうゲイの子が多いです!」
「……ん?」
「ゆうが君は、その子達と同じニオイがします!なので、隠さなくていいです!男の人が好きな男の人は、けっこういっぱいいます!悪い事なんかいっこもないです!」

 へぇ、そうなんだ。知らない世界だ。でもまぁ、田尻さんの言う通りだ。悪い事なんかいっこもない。

 田尻さんの話に、俺は純粋に頷いてしまっていた。そう、田尻さんの話は、最初こそ何の脈絡もないように感じるが、最後にはきちんと戻って来てくれるのだ。それに、いつも本質をきちんと理解している。だから、彼女の話はきちんと最後まで聞くようにしている。

「ゆうが君、マスターは本当に良い人だから隠さなくていいですよ!」
「な、なっ!」
「ね、マスター?」

 そう、にこにこと田尻さんが俺に向かって尋ねてくる。どうやら、今回の勝者は田尻さんだったようだ。というか、端から勝負になってない気がする。
 俺はと言えば、昨日同様にハッキリとした焦りを表情に浮かび上がらせてくる寛木君に、なんだか面白くて空になった紅茶の袋を掲げて見せた。

「寛木君、紅茶。無くなったから、今日は俺のコーヒーでもいい?」
「……あ、いや」
「何だよ。昨日は好きって言ってくれたじゃないか」
「っ言ってねぇし!不味くないって言ったんだよ!」

 わざと揶揄うように言ってやる。これまで散々おちょくられてきたんだ。少しくらいやり返したって罰は当たらないだろう。

「いやいや、好きって言ってくれたような気がするんだけどなぁ」

 更に俺がわざとらしく言ってのけると、次の瞬間、寛木君の姿から「優雅さ」が一気にかき消えた。

「は?俺は別にマスターなんか好きじゃねぇし。つか、タイプから全外れだし。ありえねぇんだけど」

 そう、完全にドン引いた表情で吐き捨てるように口にされた言葉に、俺は思った。

「いや、あの。俺じゃなくてコーヒーの事……なんだけど」

 寛木君はやっぱり、正直者だと。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?