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くつろぎ君はコーヒーがキライじゃない!(6)【お仕事小説】

1月:くつろぎ君の本音

38

 飲食店の閉店率が一体どれほどかご存知だろうか。

 一年目で約三割。二年目になると半分の五割。そして、三年目では七割もの飲食店が、閉店を余儀なくされる。

「な、んだよ。これ」


閉店のお知らせ

誠に勝手ながら、当店は十二月二十九日を持ちまして閉店いたしました。
長らくご愛顧いただき、誠にありがとうございました。

 そう、パソコンで作られた簡素なお知らせのチラシが、一枚だけ店の入り口の前に張られていた。

 別に驚く事はない。
 喫茶【金平亭】も、その七割の中に入ってしまった。

 ただそれだけの事だ。

◇◆◇

 年末年始はゆっくり休めと言われた。
 でも、正直何の予定もない俺からすると、バイトの無い日々はただただ苦痛だった。

「っはぁ、なんだよ。アレ」

 いや、暇だから苦痛なワケではない。気になる事があるのだ。

--------大丈夫。俺、ちゃんと全部分かってるから。今度は勘違いしてない。

 あの時のマスターの顔が忘れられない。
 初めて見るそれは、揺るぎようのないほど完璧な笑顔で彩られていた。それが、逆に彼らしくなかった。

「勘違いしてないって……何をだよ」

 自室で頭を抱え、何度そう呟いただろう。店の事か、それとも――。

「俺の、こと?」

 マスターはノンケだ。
 でも、あの人にとっては男だとか女だとかは、あまり関係なさそうだった。どうやら、昔から学校に馴染めていなかったり、勢いのまま祖父の店を継いだりするあたり、思考回路が〝普通〟とは少しズレている。

--------自分だけの自由なお城が欲しくて、この店やろうと思ったんだ。

 その言葉に、俺は思った。アンタはもう十分〝自由〟だよ、と。
 最初に俺がゲイだって伝えた時も、俺がわざと思わせぶりな行動をした時も。あの人はどこまでも、世間の感覚に染まらない自分の中の基準だけで物事を判断していた。

--------人に好きになってもらえて、嬉しくないなんて事ないよ。

 いつだったか、そう言って笑ったマスターの言葉が妙に頭に残って仕方がない。当たり前みたいな顔で言うけど、それってけっこうスゴイ事だと俺は思ったからだ。

『なぁ、知ってる?寛木って男が好きらしいぜ』
『は?マジ無理なんだけど。男とかぜってーありえねぇし!』
『今までも変な目で見られてたって事かよ。マジでキモいわ』

 ふざけんな。
 別にゲイだからって、男なら誰でも好きになるワケじゃない。そんなのノンケだって同じだろう。異性だからって誰彼構わず好きになるなんて思われていたら、正直腹が立つだろう。まるで人間として見られていないような、そんな軽んじられているような気分になるんじゃないのか。

 でも、同性愛者は存外にそう思われている気がする。
 同性からはケダモノでも見るような目を向けられる。それで、俺は一度中学を転校する羽目になった。
 だから、バレた時点で終わり。元居たコミュニティからは容赦なく追い出される。人生終了。中学の頃は、それをハッキリ学んだ。

『もう、お願いだから今度は失敗しないでちょうだいね』
『まったく、お前はどうしてそんな風になったんだ。他の親戚にバレたらなんて言われるか』

 親からもそんな事を言われた。俺は家でも学校でもともかく異端だった。でも、失敗作みたいに扱われるのが本当に許せなかった。

 だから、俺は失敗しないように。もう自分の事を誰も軽んじたり出来ないように。
 必死に自分を守って生きてきたのに。でも、そういう毎日は酷く鬱屈としていて、物足りなく、そして何より〝不自由〟だった。

 そんな時だ。あの店に出会ったのは。

『……良い、匂いだ』

 正直に言おう。
 最初から、俺はあの人のコーヒーの香りに誘われてしまっていたのだ。

◇◆◇

 マスターが俺の事を好きだという事は、なんとなく分かっていた。これは、イタイ勘違いでも何でもなく、確信に近い。なにせ、あの人は俺と違って様々な事に対して感情がダダ漏れだからだ。

 俺が「マスター」と呼ぶ度に、一体自分がどんな顔をしているか、きっとあの人は気付いていない。あの人は泣き虫の自覚はあるようだが、なんの事はない。よく泣くし、よく笑う。あの人は、自分の感情にすこぶる自由だ。
 それは、きっと彼を自由でいられるように育ててくれた大人が近くに居たからだろう。

 そんなマスターに反して、俺はといえば、とことん自分の感情に不自由だった。素直になるのは怖い。失敗するのが怖い。失敗したら、生きていける場所が足元から崩れるような、そんな過度な不安と常に隣り合わせで。

 タイプじゃない。タイプじゃない。

--------俺は別にマスターなんか好きじゃねぇし。つか、タイプから全外れだし。ありえねぇんだけど。

 最初に何気なく放った言葉が、マスターの気持ちと行動を縛る。そして、それを分かっていても俺は素直にはなれなかった。
 あの言葉は、なにより俺自身を縛っていた。

 だって、今度は絶対に失敗したくなかった。だから、出来るだけ慎重に動かないと。
 でも、大丈夫だ。まだ、あと三カ月はある。俺が就職するまで。それまでの間に、勇気を出せば。そして、素直になれたら、その時はきっと。
 そう思っていたのに――。

「……なんで、返事しねぇんだよ」

39

 年が明けても一向にシフトの連絡を入れてこないマスターに、何度か連絡を入れてみた。

 でも、返事が来ない。
 ミハルちゃんからも「ゆうがくーん、マスターからシフトの連絡きたー?私のとこ全然こないよー」と連絡が入り、俺は更に嫌な予感が募るのを止められなかった。そして、再び連絡をする。殆どした事がなかったが、電話もかけてみた。

 でも、反応は何もない。
 あの人が、俺からの連絡を無視するなんて事は、これまでに一度もなかったのに。だって、あの人は俺の事が好きだから。連絡したら、本当にすぐに返事をくれていた。

≪シフト、ミハルちゃんも気にしてるけど≫
≪返事くらいしろよ≫
≪いい加減にしろよ。シフト分かんないと、コッチも困るんだよ≫
≪なぁ、なんかあった?≫

 連絡が来ない相手に、短時間でここまで重ねて連絡を入れた事はなかった。そういうのはウザイメンヘラ女のやる事だと思っていたし、一番ウザくてダルい事だと思っていたから。

 でも、その時の自分はどうだ。バカにしていたメンヘラ女達とまるで同じような状態になっていた。スマホが手から離せず、何度も何度もメッセージを送ってしまう。
 自分でも驚くほどに感情が制御できない。
 まぁ、年末年始だし。マスターも実家に帰るとか言っていたので、仕方ないのだ、なんてい自分に言い聞かせても何の気休めにもならない。

 そして、そんな中。
 いよいよ言い訳の出来ないほどおかしな出来事が起こった。

「は?」

 一月の頭。給料日でもないのに、バイト先から給料が振り込まれていた。しかも、一か月分じゃない。三カ月分の給料だ。

「……なんの、金だよ。コレ」

 三カ月分の給料なんて。ひと昔前の婚約指輪にかける金額のようだな、なんて完全に現実逃避に走った頭が思う。
 でも、分かってる。なんで、三カ月分か。そんなの、言われなくても分かる。

--------寛木君も、田尻さんも三月まででいなくなっちゃうのかぁ。

 俺達が、本来店に居るはずだった残り時間。

 それが、三カ月だ。

「意味、わかんね」

 その瞬間、俺は走っていた。
 まだ三が日が明けたばかりとは言え、もう周囲の雰囲気には年末年始の浮かれた様子は見うけられない。日常に戻りつつある商店街を必死に走り抜け、俺は一つ裏の路地まで走る。

 それは、去年一年間。何度も何度も通った道だ。この道を通る時、どれだけ俺が浮かれていたか知っているヤツは、きっと俺しか居ない。これは、マスターだって絶対分かってないと思う。

 俺が本音で話せるのは、あそこだけだった。
 美味しいコーヒーを出してくれる、あそこだけが、俺の自由になれる唯一の場所だったのに。

「ミハルちゃん?」
「……ゆうが君、金平亭無くなっちゃった」

 店の前には、既にミハルちゃんが居た。彼女らしからぬ、か細い声が周囲の空気を揺らす。
 きっと彼女もずっと不安だったのだろう。なにせ、この子は鈍いように見せかけて、本当はとても聡い子だから。

「金平亭が、無い?」
「かんばんも、無いの。あと、変な紙がはって……あるの」
「え?」

 ミハルちゃんの指す方を見る。そこには、金平亭の入口に一枚の簡素な紙が貼ってあった。

「……なんだよ、これ」
「ゆうが君、ここに、金平亭は閉店しましたって書いてあるの。これ、本当?ますたーは何も、言ってなかったよ?らいねんも、しふと、いっぱい入れてくれるっていったよ」

 ミハルちゃんが震える声で俺に尋ねてくる。俺が、その答えを持っていない事を知っていてなお、聞かずにいれなかったのだろう。
 もう、今にも泣きそうだ。そういえば、この子が泣く姿は初めて見るかもしれない。

「コーヒーの匂いもしないの。中、見たけど何もないの。ねぇ、ゆうが君」
「……なに、ミハルちゃん」
「おっ、お、お店は……おきゃくさんが、きてたら、つ、つぶれないんじゃ、なんじゃないの?」
「……」
「おきゃくさん、まいにち、きてたよ。みんな、ますたーのコーヒー好きって言ってたよ」

 ミハルちゃんに商売の事なんて分からないだろう。もちろん、俺だって分からない。やった事ないし。俺がやってたのは、いつも机上の空論。ままごとみたいなモンだ。
 それに、あの人は一度も俺に店の収支を見せようとはしなかった。そこだけは、絶対に見せてくれなかった。

「……でも、俺は、間違ってなかったはずだ」

 ちゃんと仕入れなどの支出は俺の中である程度計算して客の入りを見ていた。その計算だと、ギリギリまだやれる状態だったはず。まだ、店を締めるには早い。

 あの人が俺より先にこの店を諦めきれるとは到底思えなかった。むしろ、引き際を間違って負債を増やすタイプだ。
 でも、そうじゃないなら。俺の計算が間違っていた事になる。

「ゆうが、くん。まずたー、どご行ったの」
「……知らねぇよ。そんなの……おれが、いちばん知りたい」
「おがねだげ、ほじいわけ、じゃなかったの。わだじ、まだ、ごごでっ、はだらぎだがったのにぃっ!」

 正月休みの終盤。
 裏路地とは言え、周囲に誰もいないワケではない。

「っひぅぅぅっ!」

 ミハルちゃんの泣き声に、周囲の通行人から不躾な視線が向けられる。でも、そんな他人の目をミハルちゃんは気にしたりしない。気にしようともしない。
 この子も、俺と違って自分に自由だ。

「……ほんとに、何の匂いも、しねぇのな」

 いつもなら、離れた場所からでも当たり前のようにフワリと漂ってきていたコーヒーの香り。俺はあの香りが好きだった。別に、俺は特別コーヒーが好きなワケじゃない。でも、好きだった。いや、好きだ。

--------おでの、ごーひー、おいじいぐない?

 あの人の、聞き慣れた泣き声が、ミハルちゃんの泣き声の合間を縫って聞こえてきた気がした。鼻水を吸い込みながら、涙をボロボロと零してみっともない顔で俺を見てくる。泣き黒子を濡らす涙は、どこまでもまっすぐで、俺にとっては尊く見えて仕方なかった。

「……おいしいよ。すきだよ。アンタが淹れてくれたの、ぜんぶ」

--------あぁ、良い匂いだ。

 そりゃあそうだ。良い匂いに決まってる。だって、コーヒーの匂いは俺の「好きな人」の匂いだったから。

「っぅ、っぁぁ」

 その日、俺は初めて知った。
 「何もしない」という事が引き起こす「失敗」もあるのだ、と。

「っぁ、ぁぁぁ」

 あの人の匂いのしなくなった金平亭の前で、俺は初めて他人の前で大泣きしたのだった。

 その数日後。
 金平亭に【売物件】の紙が貼られた。

4月:マスターの勘違い

40

 桜の花も完全に散ってしまった四月下旬。
 新緑が輝く木々は微風にそよぎ、歩道脇に植え込まれた花々は色鮮やかに咲き誇る。もし今の時期デスクワークや学生をしていたならば、きっと速攻で眠りに落ちてしまっていただろう。
 しかし、俺にそんな心配はない。なにせ、この俺。青山 霧は――。

「いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか?」

 全世界にチェーン展開をし、どこに店を構えても客で溢れかえる【コーヒーブルーム】で働くアルバイト店員なのだから。

「……えっと。じゃあ、コーヒーで」
「どちらのコーヒーにしましょうか」
「あ、あ。どちらの……?ど、どうしよう」

 戸惑う客の姿を前に、俺はメニュー一覧へとサッと目を通した。次いで、ドリンクの前に客の注文したフィナンシェとの相性を考える。

「でしたら、こちらの小春ブレンドはどうでしょう。程よい苦みと、まろやかな口当たりがバターの風味とよく合いますので。フィナンシェによく合うと思いますよ」

 俺の言葉に、必死にメニューへと目を落としていた客の顔がホッとした表情を浮かべた。そりゃあそうだ。分からないモノを「選べ」と言われても困るだろう。こういうお客さんは珍しくない。
 彼らにとって「コーヒー」は「コーヒー」なのだ。

「あっ、じゃあ。それで」
「では、あちらのカウンターの前でお待ちください」

 店内は、本日も客で満員御礼だった。
 今日から新しく売り出されるフローズンドリンクの効果もあって、いつも以上に若い客で溢れかえっている。ただ、そこはやはりコーヒーショップ。店内は、コーヒーの香りが立ち込め、すぐ横では新しく仕入れた豆で淹れられたコーヒーの香りがフワリと香ってくる。

 あぁ、良い匂いだ。
 おかげで、忙しいのにどこか落ち着く。店に来る客も、そして働くスタッフも皆笑顔だ。コーヒー好きにはたまらない最高の職場である。

「青山君、交代。休憩、入っていいよ」
「はい」

 後ろからかけられた声に、俺は静かに息を吐いた。時計を見れば、十三時を回ったところだ。

「っはぁ、もうすぐ五月かぁ」

 早い、本当に時が経つのは早い。
 俺が金平亭を手放して、早くも四カ月が経とうとしていた。

◇◆◇

「ねぇ。青山君、そろそろコーヒーマスターの試験受けてみない?」
「え?」

 休憩室に入った途端、店長からそんな事を言われた。この店の店長は女性だ。多分、歳は俺と同じくらい。
 その店長は、来週から提供される予定の新作コーヒーを試し飲みしながら、「良い酸味ね」と軽く呟いた。

「ソレ、薫風ですか?」
「ええ、そうよ。飲んでみる?」
「いいんですか!」

 頷く店長の横顔に、俺は微かに香ってくるコーヒーの香りをスッと静かに吸い込んだ。うん、来週から五月という事もあり、爽やかな香りのコーヒーだ。

「……良い匂い」
「そうね。華やかで甘味もある。これなら、コーヒーが苦手な人でも飲めそう」
「はい」

 マスターの感想に、俺も淹れてもらったコーヒーを一口飲んでみる。

「うん、本当に程良いですね。ともかく香りが良い。爽やかだ……俺、これ好きです」

 まさに「薫風」という名前にピッタリである。

「……少し、紅茶っぽい。アールグレイみたいだ」
「まったく、コーヒーを紅茶に例えないでよ」
「あっ、すみません」

 呆れたように店長から口にされた言葉に、とっさに口元を押さえた。
 コーヒーと紅茶は全く別物だ。にもかかわらず、高品質な豆になる程、雑味やえぐみが洗練されて無くなっていくせいで、その味わいは「紅茶のようになる」なんて言われ方をするのはよくある事だ。

 そのせいで、その例えを嫌がるバリスタも少なからずいる。そう思うと、雑味やえぐみというのは欠点ではなく、コーヒーに欠かせない構成要素の一つなのだと、改めて実感するのだった。

「まぁ、私も同じ事を思ったからお相子ね」

 気の強そうなキリっとした目元に、微かに笑みを浮かべる店長は、高い位置で結われた髪を揺らして首を傾げてみせた。

「お客さんからすれば、私達の細かいこだわりなんて関係ない。美味しいモノを分かりやすく伝えて、新しい味に出会ってもらえればいい。青山君、五日のコーヒーデーには、貴方がコレをお客さんに配ってくれる?」
「はい、わかりました」
「あなた、伝え方が優しくて分かりやすいから、お客さんからも好評よ。私もそう思う」

 予想外なところから繰り出された店長からの褒めに、俺は思わず視線を逸らしてコーヒーに口を付けた。華やかで甘味のある良い香りだ。それに加えて風味の紅茶っぽさも相まって妙に懐かしい気持ちになる。まるで、このコーヒーは――。

「……寛木君みたいだ」
「え、なに?」
「いえ、なんでもありません」

 懐かしい彼の姿がふと思い浮かんできた。同時に、ジワリと顔が熱くなる。

「なになに。そんなに照れなくていいじゃない。本当の事なんだから」
「……うぅ」
「青山君ってすぐ顔に出るから、そういう素直な所がお客さんから好かれる理由かもね」

 どうやら、店長は俺が褒められたせいで照れていると勘違いしているらしい。良かった。片思いの相手を思い出して照れていたなんて、正直、学生でもあるまいしバレたら恥ずかしいでは済まない。

 というか、学生云々じゃない。俺は今年で二十八歳だ。良い年だ。

「……はぁ。もう」

 寛木君と会わなくなって、早くも五カ月近く経とうとしているのに、未だにこのザマだ。きっと、寛木君の方は俺の事などすっかり忘れて、社会人として新しい生活を送っている事だろうに。
 あの整った顔立ちだ。今頃、会社の女性社員たちからの視線を一心に奪っているに違いない。そう思うと、なんだか非常に気に食わなかった。いくら彼の恋愛対象が同性であっても、そう思うのは止められない。

「いやいや、待って。そうじゃないわ。薫風の話がしたかったんじゃないのよ!」
「あっ、はい」

 俺が寛木君の事を思い出して、えぐみと苦みのみを抽出したような気持ちになっていると、店長がコーヒーのグラスをカツンと机に置く音を響かせた。

41

「コーヒーマスターの資格よ!青山君、受けるつもりない?」

 そして、最初の店長からの問いに戻った。
 コーヒーマスター。それは、年に一回。本部で開催される認定試験だ。コーヒー豆の特徴や、抽出方法などかなり細かい事が問われる試験だと聞いている。

「あっ、あーー。でも、俺、ただのバイトですし」
「バイトとか社員とか、こういうのは関係ないのよ」
「でも……まだ入ってちょっとの新人ですし」
「新人かどうかも関係ない。あのねぇ、青山君?私も誰彼構わずこんな事を提案して回るワケじゃないのよ。コーヒーマスターになれば、社員登用も出来るし、何よりお給料も上がる」

 真剣な目でジッとこちらを見てくる店長の目に、俺はまた一人の懐かしい女の子を思い出していた。

--------ますたー!私、ますたーのコーヒー好きです!

 田尻さん。彼女も今頃どうしているだろう。無事にダンススクールに通えているといいのだが。

「ちょっと、私の話聞いてる?」
「っは、はい!聞いてます!」
「まったく……バイトも新人も関係なく、私はあなた程の知識と技術のある人をみすみすホールのアルバイトとして置いておきたくないのよ」
「店長……あの」

 歩く度にひょこひょこと揺れる店長の後ろ姿に、俺は何度田尻さんを思い出した事だろう。

「まぁ、面接の時は、顔に傷ひっさげてきて何かと思ったけどね。あの時はちょっとヤバイのが面接に来たって、裏で皆して驚いてたんだから」
「う゛っ」

 そうだった。最初にここの面接を受けに来た時、俺は目元に酷いあざをこさえてやって来たのだ。傷の原因は俺の父親と兄貴。金平亭を畳んで完全に金の当ての無くなった俺は、久々に帰った実家で、二人に土下座して頼んだのだ。

『金貸してくださいっっ!!!』

 その時に、キレた父親と兄貴から一発ずつ盛大に食らった。そもそも、爺ちゃんの店を買い取って喫茶店をすると言った時から、親戚一同から猛反対を食らっていたのだ。今時、あんな場所で飲食店なんかやって成功するワケない!と。

 その反対を押し切って開いた店。ちなみに、その時もほんのちょっと……ちょーっとだけ金を借りていた。いや、仕方ないのだ。予想していたよりも開業資金がかさんでしまって、手持ちの金じゃ足りなくなったのだ。

 そんな経緯の中、のこのこと店をたたんで、挙句の果てには金の催促をしに来た俺を、二人が優しく出迎えてくれるワケもない。もちろん、あまりの痛さに実家で号泣したのは、言うまでもない話だ。

「顔の傷、だいぶ薄くなってきたわね。良かったじゃない」
「……ええ、まぁ」

 しかも、ボコボコにされた挙句、一人暮らしの家は強制的に引き払われ、持っていたスマホは速攻で解約された。お前にコレは贅沢過ぎる!と。

「しかも、今時スマホを持ってなくて、連絡先が実家の固定電話のみっていうのもね。いや、何なのこの子って思ったわよ。そういえば、スマホは買えた?」
「そ、そろそろ買う予定です」

 ウソだ。未だに、俺のアルバイト代は、兄と父親に完全に管理されていて、自由に使える金は殆どない。スマホを買えるのはいつになる事やら、である。

「買ったら一応電話番号、教えておいてね。何かあった時にかけるのが実家の固定電話っていうのも、なかなか気を遣うから」
「……はい」

 そのせいで、店を閉めた後。寛木君や田尻さんとは連絡が取れなくなった。

 ……いや、ウソだ。会わせる顔がなさ過ぎて、連絡出来なかった、というのが正しい。
父親と兄貴から借りた金で、二人に三カ月分の給料を振り込んで、それっきり。二人には、本当に悪い事をしてしまった。

「で、試験の方はどうする?受けるなら推薦状を出しておくけど」
「……いや、やめておきます」
「なんで?あなたなら絶対に受かると思うのに。何か理由があるの?」

 マグカップを片手に、ジと店長がこちらを見つめる。本当にこの人は、髪型といい視線の真っすぐさといい田尻さんそっくりだ。

「俺、この店以外で働きたくなくて」
「あぁ、店舗異動がイヤなのね」

 コーヒーマスターの資格を取れば、社員登用や給与アップの道が拓ける分、業務の拡大が必須になる。それが、今の俺にはちょっと困るのだ。

「店長。俺を高く買ってくれてありがとうございます。俺は、この店以外で働きたくないので……このままで居させてください」
「わかった。でも、気が変わったらいつでも言って。あなたを推薦する準備はいつでも出来てるから」

 そう言ってコーヒーを飲み終わった店長は休憩室の椅子から立ち上がると、空のカップを持って俺に向かって小首をかしげてみせた。

「引き留めてごめんなさい、青山君。いつもの所、行くんでしょ?」
「あっ、はい」
「カップもらうわ。洗っておくから」
「あ、いや。これは俺が……」

 遠慮する俺に「いいのいいの」と軽く笑いながらカップを手に取った彼女は、そのまま颯爽と休憩室を出ていった。

「……すごいよなぁ。店長」

 彼女の行動にはイチイチ迷いがない。俺がコーヒーマスターの試験を断ったからと言って、しつこくも言ってこない。ただ、しっかりと褒めて手を離す。まったく、彼女ときたら〝ちゃんとした〟大人だ。俺とは大違いである。

 それに加え、彼女はコーヒーの知識にも凄まじく精通していた。

--------その顔の傷が治るまでは、表には出してあげられないけど。あなた、コーヒーに詳しいみたいだから、バリスタの方やってもらえる?

「あぁいうマスターが居る店も、格好良いよな」

 爺ちゃんしかマスターの見本は無かったけど、あぁいう店の店主もアリかもしれない。まぁ、なれるかはおいておいてだが。

「……さて、行くか」

 俺は休憩室に漂う薫風ブレンドの残り香を吸い込みながら、椅子から立ち上がった。
 そう、俺はこの店以外で働く気はない。そして、この店の中で上を目指したいワケでもない。

「俺は、自分のお城が欲しいんだ」

 昼休みの終わりまで、まだあと三十分ある。俺は店の裏口から飛び出すと、エプロンのまま、軽い足取りで走り出した。
 向かうは、商店街の裏通り。そこに、ある一つの売り物件が、誰のモノにもなっていないかをチェックするのが、俺の日課だ。

「だって。あれは、俺の店だ」

 だから、俺はこの店以外で働く気はない。
 五月を目前にした爽やかな風が、俺の頬を優しく撫でる。まさに、薫風。その風は、どこか彼を思い出した。

42

 喫茶【金平亭】

 その表札は、今やその建物のどこにも無い。ただ、外装は俺が店を手放した時のまま。いや、むしろ爺ちゃんが店を手放した時のままだ。古いレンガ作りの茶色の壁に、緑色のツタが鬱蒼と茂る。
 俺の作った閉店のチラシは、四月になったら誰かの手によって、いつの間にかはがされていた。誰にはがされたのかは分からない。でも、もうだいぶ紙もボロボロだったし、三カ月も経てばここに喫茶店があった事を知る人は殆ど居なくなるだろうから、俺ももういいかと諦めた。

「寂しいよなぁ」

 でも、飲食店なんてそんなモンだ。
 毎日毎日。どこかで新しい店がオープンする。それと同じように、毎日どこかでまた店が閉じられていく。長く生き残れる店は、本当にごく僅かだ。それを、客はイチイチ覚えてくれているワケがない。

 なにせ、彼らにとっては喫茶店など、時間潰しの選択肢の一つに過ぎないのだから。

「はぁ。……ん?」

 と、そんな切ない感情に胸を揺らしていた時だ。

「あ、あれ!?」

 いつも、店の壁の一角に張ってあった【売物件】の張り紙が消えていた。昨日までは確かにあったハズなのに。

「ま、まさか!誰かに買われた!?」

 俺は他に張り紙が張ってないか、外壁をくまなく見渡す。しかし、表から見える外壁にはそういった張り紙は何も張られていない。

「うそ」

 頬を撫でる風は爽やかなのに、俺の中を通り過ぎる風は妙に冷たい気がした。
 壁に手をついて店内を覗くと、そこにはガランとした店内が明かりも灯もされる事なく存在しているだけだった。

 あの時、寛木君やミハルちゃんと一緒に過ごした椅子や机は、もうどこにもない。

「どうしよう」

 今は無理でも、そのうち金を貯めてもう一回この店を買うのが俺の目標だったのに。だから、昼間はコーヒーショップで働き、夜は引き続き深夜バイトもやっている。親からはちゃんとした会社に就職しろと言われたが、俺には〝ちゃんとした〟の意味が全く理解できなかった。

 ちゃんとしたって何だよ。
 俺はいつでも自分なりに〝ちゃんと〟してきたつもりだ。

「俺は、金平亭がいい」

 爺ちゃんみたいな、あの店長みたいな。あぁいう店主になって、自分のお城にお客さんを招き入れるのが俺にとっての〝ちゃんと〟なのに。

「ここは、俺の店なのに……」

 そう、俺が歪む視界に呟いた時だった。

「いや、そこアンタの店じゃねーし」
「へ?」

 聞き慣れた、どこか懐かしい声が聞こえてきた。ハッとして俺が後ろを振り返ろうとした時、既にその声の気配はすぐ隣まできていた。

「この物件は、うちの……〝くつろぎ不動産〟の管理下にあるモノなんで」

 そう言って俺の隣の壁に、真新しい「売り物件」と書かれたポスターを貼り付けるスーツの彼は、見慣れた紅茶色の明るいオレンジ色の髪の毛……ではなく、真っ黒になっていた。長かった髪も短く切り揃えられている。

「あっ、あ!」
「そして、この物件の担当は俺です。何かある場合はこちらにご連絡ください」

 そう、どこか他人行儀な物言いでポスターを張り終えた彼は、ゆったりとした動作で俺へと向き直った。その体には、ピタリとフィットしたスーツが身に纏われており、その首元にある紺色のネクタイが、彼の凛とした印象を一層際立たせていた。

 そんな彼の姿に、俺はすっかり見とれてしまい、無意識のうちにゴクリと唾液を呑み下した。

「あ、あの……君は」
「ん?ドシタの?マスター?……俺が誰に見えますか?」

 マスターなんて懐かしい呼び方で俺を呼んでくれる。
 そう、どこかデジャブを感じる返しをしてくる彼は、なんだか非常にご機嫌な様子だった。ただ、一瞬だけいつもの礼儀正しい喋り方に戻った彼に、俺は思わず素直に答えてしまった。

「……寛木 優雅君」
「ぶはっ!アンタマジで素直か!」

 最初こそ、あまりの変りように一瞬誰だか分からなかった。しかし、その声と喋り方、そして何故か彼の周囲だけは時間がゆったりと流れているような不思議な空間に、俺は微かに目を細めた。

「……なんなんだよ。あんた」

 あぁ、寛木君だ。
 俺の目の前に、寛木君が居る。

「くつろぎ、くん」
「そうですよ?何度もアンタに連絡を無視されて、貰う義理も何もねぇ金を突然振り込まれた挙句、驚いてここに来てみれば1年間働いてた店は勝手に閉店して、そうこうしてる間に理解も納得も出来ないまま社会に放りだされた……寛木優雅クンですよ」

 あまりにも流れるような調子で言葉を紡ぐ寛木君に、驚いて彼を見ていると、彼はそのまま辛そうに顔を歪めながら言った。

「……このウソ吐きが」

 その、今にも泣きそうな表情に、俺は場違いながらも先程まで感じていた、妙な寂しさが一気に消えて霧散していくのを感じた。寛木君は、あの日の事を、今もこうして怒ってくれている。

 彼は、俺を許していない。

「だいたい、なんだよ。連絡しても繋がらないし。家に行っても部屋は引き払われてるし……なぁ。なんでだよ」

 そう、彼は、俺の事を忘れていなかった。

「店が〝買った〟モンだって、なんで言わなかった!?なんで相談しなかった!?負債があるって言ってくれてたら、俺だってもう少し考えようがあった!しかも、なんだよ!あの金!金もねぇ癖に、なんでバイト如きにあんな金振り込むんだ!?俺達はアンタの重荷だったのか!?」

 必死な様子で声を張り上げる彼は、ここが外だという事を一切鑑みていないようだった。いくらここが裏路地でも、真昼間の往来である事には間違いない。俺達の脇を通り過ぎていく通行人が、チラチラとこちらを見ながら通り過ぎて行く。

 それでも寛木君は止まらない。

43

「この店、締める時どんな気持ちだった!アンタの事だ、どうせ中のモン処分するとき、一人でビービー泣いてたんだろ!?分かってんだからな!アンタが泣く時は、だいたい俺のせいだろうが!俺のせいで、俺の前で泣いてれば良かったのにっ!」

 止まらないどころかヒートアップしていく。そんな寛木君の目に、俺はどう映っているのだろうか。今の俺はどんな顔をしているのだろうか。
 でも、きっと今の寛木君じゃ、ハッキリ俺の顔も見えていないに違いない。

「っこのクソが!バカが!ずっと、さがしてたのにっ!それなのに、なんだよっ、そのエプロンっ!アンタ、ずっとここに居たんじゃねぇかっ!それを、おれは……ばかみたいに、あちこち探しまわって……」
「寛木君、泣かないで」
「誰のせいだよっ!畜生っ!」

 優雅さの欠片も無くなった彼は、まるで俺みたいにボロボロと涙をこぼしていた。そういえば、寛木君が泣くところを初めて見た。その姿は、なんだか新鮮で、それでいて妙に可愛く思えて、俺は思わず彼の顔に手を伸ばしていた。

「な、なにしてんだよ」
「こうすれば、泣き止むかなって」
「……バカにすんな」

 バカになどしていない。俺は寛木君の目元に指を這わせると、出来るだけ優しく目元を拭った。俺が泣くと、寛木君はいつもこうしてくれていた。こうされると、俺は嬉しかったから。

「……ねぇ、寛木君」
「なんだよ」

 寛木君の目から溜まった涙が溢れ、俺の指を濡らす。ただ、その瞳を見ると、新しい涙は流れてこないので、どうやら涙は止まったらしい。良かった。泣き黒子が無くても、これは効くようだ。

「店でね、寛木君みたいなコーヒーが新しく始まるんだけど飲まない?」
「……俺、仕事中なんだけど」
「すこし、すこしでいいから」

 泣き止んだ寛木君に俺は名残惜しさを感じつつ、手を離した。嬉しいからと言って、あんまりベタベタするのは良くない。もう彼は従業員ではない。もう立派な社会人なのだから。
 そう思った時だ。

「ソレ、マスターが淹れてくれんの?」
「っ!」

 俺の手はいつの間にか寛木君の大きな手にしっかりと握りしめられていた。暑い。いや、熱い。急激に上昇してくる体温に、俺は呼吸の仕方を忘れたかと思った。

「っぁ。あ、あの。くつ、ろぎ君?」
「マスターが淹れてくれんのかって聞いてんだよ」

 先ほどまで、怒鳴り声を上げ、ボロボロと涙を流していたのがウソのように問いかけてくる。

「……あの、えっと」

 熱い。物凄く、熱い。
 今日は日差しが強いせいだろうか。それとも、好きな人に手を握りしめられているせいだろうか。多分、答えは圧倒的に後者だ。

「は、い。おれが、いれます」
「……じゃあ行く」

 寛木君の答えに、頭の片隅に浮かんだ「仕事はいいの?」という問いかけが顔を覗かせ、すぐに消えた。
 そして、新しい疑問が浮かび上がってくる。

「ねぇ、寛木君」
「なに」

 未だに俺の手は寛木君に握り締められたまま。その手の力強さに「もう絶対に離さない」という意思が垣間見えたような気がするのは、俺の都合の良い勘違いだろうか。

「寛木君は、コーヒー、好き?」

 でも、どうにも諦めきれずに俺は寛木君にズルい質問をした。コーヒーだったら、きっと「好き」って言ってもらえるってわかってるから。だから、俺はコーヒーの後ろに隠れて尋ねる。

 もう、コーヒーでも何でもいいから、俺は彼に「好き」だと言ってもらいたかった。

「……別に、嫌いじゃない」
「っへ!?」
「ってか、フツーだし」

 寛木君からの予想外の返事に、俺は思わず声を上げた。
 ウソだろ。まさか、ここまできて俺はコーヒーに対する寛木君の気持ちすら勘違いしてたなんて。先ほどまで熱かった顔から、一気に熱が引く。

--------アンタ、すぐ勘違いするし。色々考えが甘いんだよ。
「ぁ、う」

 大晦日の日。寛木君から言われた言葉が脳裏を過る。
 まったく、その通りだ。俺はどこまで勘違いすれば気が済むのだろう。これだから、イヤなんだ。勝手に期待して、勘違いして。

「そ、そっか。普通か。そう、だよね。もともと、寛木君は、紅茶派だもんね。うん、知ってる」
「……」
「で、でも。今回淹れるコーヒーは、その、本当に美味しいから……ぜひ、あの。飲んでいって」

 コーヒーの後ろに隠れて、ずる賢く彼からの「好き」を貰おうとするからこんな事になる。本当に、俺はいつも考え足らずで失敗ばかりだ。
 そう、俺がツンと鼻の奥に痛みを感じた時だった。

「アンタ、また勘違いしてそうだからハッキリ言うけどさ」
「え?」

 寛木君の目がジッと俺を見下ろしてくる。俺の手を握る力は更に強まり、よく見れば彼の顔も真っ赤に染まっていた。いや、自分の事に必死で気付かなかっただけで、彼の顔はずっと真っ赤だった。

「お、俺が好きなのは、アンタだよ。青山霧!」
「っ!」

 寛木君からの揺るぎようのない視線と、ハッキリとした言葉。そして、優雅さの欠片も無いような表情で告げられた言葉に、俺は耳を疑った。
 今、寛木君はなんと言った?何が好きだって?コーヒー、それとも紅茶?なんだ?

「あ、あの。それって……」
「次に店やる時は、今度は絶対に俺が一緒に失敗してやる。俺のやりがいは、全部アンタに突っ込んでやる。好きなだけ俺を搾取しろよ!」

 とんでもない事を言われている気がする。いや、気がするじゃない。実際、とんでもない事を彼は言っている。
 いつの間にか俺に目線を合わせて顔を寄せてきた寛木君の、その顔すらハッキリ見えなくなった俺の視界はともかくもって、ユラユラと歪んでいた。

「やりがい払って好きな奴の夢が叶うなら、俺がいくらでも払ってやるよ」

 俺の耳元で囁くように口にされた言葉に、俺の涙腺はとうとう決壊した。

「っぅ……っぅぅ」
--------キリ、お前はまた泣いとるのか。この泣き黒子が泣き虫を連れてくるのか?

 爺ちゃんの声が聞こえる。
 違った。違ったよ、爺ちゃん。

「これも、俺のせいだな」

 この泣き黒子が涙を連れて来るんじゃない。俺の涙は、いつも優しい人が連れてきていたんだ。

「~~っふぅ」

 俺は寛木君から泣き黒子にソッと口づけをされるのを感じながら、止まらない涙の奔流にその身を委ねた。
 寛木君は、コーヒーが嫌いじゃない。

 でも、俺の事は好きらしい。

エピローグ

エピローグ:ミハルちゃんの一番

田尻さん、ごめんね。
今、自分のスマホが無いので、優雅君のスマホからメッセージを打ってます。

優雅君から聞いたよ。
ちゃんと東京で一人暮らし頑張ってるんだってね。
色々大変だろうに、えらいね。
ダンスのレッスンは大変だと思うけど、田尻さんならきっと大丈夫。

と、色々書いたけど、最初に言わないといけない事をまだ書いてませんでした。

去年は突然、お店を閉める事になってごめんなさい。
ビックリしたよね。本当にごめん。
しかも、その後連絡もせずに、急に居なくなって。

三年間、ずっと働いてくれていた田尻さんに対して、とても失礼な事をしてしまいました。
いくら謝っても許してもらえないかもしれない。
本当にすみませんでした。

でも、もし田尻さんが許してくれるなら、また俺のコーヒーを飲みに来てくれませんか。もう、金平亭はないけど、今はコーヒーブルームで働いているので、俺が淹れます。

あ、もしくは優雅君の部屋でも大丈夫です。

多分、ブルームだとあまりゆっくり出来ないかもしれないし、優雅君の部屋なら広いのでゆっくり出来ると思います。
田尻さんの好きなコーヒーを淹れるので、ぜひ。

長くなってごめん。
ひとまず、伝えたい事はそれだけです。
田尻さん。東京で一人、大変かもしれないけど、あまり無理しないで。

でも、頑張ってね。 青山 霧

「……っはぁ」

 少女はスマホに送られてきた、長い、ながーいメッセージを読みながらペットボトルに口を付けた。まだ五月。まだ物凄く暑いワケではないのに、妙に顔が熱い。ダンスをしているワケでもないのに、汗までかいてきた。

「もー。私の方がマスター歴は長かったのにぃ」

 あと数分もすれば、また次のレッスンが始まる。それまでにあともう一回、いや二回はメッセージを読み直せるだろう。
 そう思い、彼女は、もう一度スマホの中のメッセージをジッと見つめた。でも、何度読んでも結果は同じ。

「いつの間にか名前呼びだし!いつの間にか家にも行くようになってるし!……なのに、私は田尻さんのままだし!」

 そのメッセージの不満点は上げればキリがない。でも、少女が一番気になったのは〝寛木君〟から〝優雅君〟へといつの間にか呼び名が変わった事でも、当たり前のように〝優雅君の部屋〟という言葉が出てきている事でもなかった。
 彼女が、一番ムカついていたのは――。

ちゃんと東京で一人暮らし頑張ってるんだってね。
色々大変だろうに、えらいね。

「もー!えらいねって!!私ばっかり、いーっつも子ども扱い」

 大人扱いして欲しかった。
 苗字呼びではなく、名前で呼んで欲しかった。
 何かあったら自分にも相談して欲しかった。

「後から来たゆうが君にばっかり甘えて……!結局、ゆうが君にますたーを取られちゃった……」

 呟きながら、少女はメッセージへの先に居るであろう二人を思う。
 でも、どんなに悔しがっても仕方がない。だって、彼女の〝やりがい〟はダンスにしか向けられないのだから。

「ゆうが君はずっとますたーが一番だったもんなぁ」

 そんなの勝てっこない。そして、彼女はそもそも戦おうとも思ってない。

「だって、ますたーの一番は金平亭で、私の一番はダンスだったし」

 お互いに別の〝一番〟を持っている人間じゃ、相性が悪すぎる。

「……あーぁ、私の青春、さよならー」
「何やってんの、ミハル!レッスン始まるよ!」
「はーい」

 気付けば、休憩時間は残り一分も無くなっていた。
 そろそろ、レッスンに戻らないと。また先生に怒られる。少女は呼びに来てくれた同期の後ろをついて走りながら、十六歳だった自分がコロリと落ちた彼の笑顔を思い出した。

--------田尻さん、その髪の毛可愛いね。凄く似合ってる。

「……コーヒーなんか苦くてほんとは苦手だったのになぁ」

田尻ミハルは、別にコーヒーが好きではなかった。
ただ、彼女はバイト先のマスターが好きだった。

でも、今は――。

「ますたーのコーヒー、楽しみだなぁっ」

普通に、コーヒーも嫌いじゃなかった。

おわり

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