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くつろぎ君はコーヒーがキライじゃない!(2)【お仕事小説】

7月:くつろぎ君の悩み

 俺は、昔から女にモテた。

「ねぇねぇ、優雅くーん」
「んー?」

 ちょっとやそっとじゃない。かなりモテた。いや、モテている。現在進行形で。

「優雅くんって、もう内定もらってたよね?あの、大手不動産会社の総合職で」
「まぁねぇ」
「すごーい!あそこ、めちゃくちゃ人気だから倍率凄いのに!」

 そう言って、うっすい下着みたいな服でピッタリと俺にくっ付いてくる女子相手に、俺は条件反射で最高の笑顔を向けた。うん、よく訓練された良い表情筋だ。

「ねぇ。じゃあさぁ、夏休みは一緒にどこか遊びに行こうよ。去年までは就活で忙しかったけど、今年は時間あるでしょ?」
「んー、まぁ」
「やった!私、もう色々調べてみたんだけどね」

 あぁ、クソ。マジでダリィ。クーラーの効きの悪い古いゼミ棟の一室で、あまりベタベタくっついて来ないで欲しい。
 でも、そんな気持ちはおくびにも出さない。本当によく訓練された表情筋だ。ただ、少しだけ頬が疲れてきた。

「ね、どう?これなんか良くない?」

 そう言って、俺の前に差し出されたスマホには、明らかに日帰りじゃ無理そうな旅行先が示されている。しかも、明らかに集団で行くような旅行先ではない。カップル向けの旅行プラン。

 え?俺達付き合ってた?なんで、たかだかゼミが同じなだけの男とカップルプランの旅行提案してんの?こわ、キモ。

「へぇ、いいね。ここ」
「でしょ!」

 薄い肌着の向こうにある、柔らかい胸が肘に当たった。甘ったるい香水の香りが、鼻の奥をつく。あぁ、くせぇな。この匂い嫌いだわ。
 多分、この子はゼミの中では、一番顔が良い。確か、去年の学祭のミスコンに選ばれたとかなんとか。あれ、違ったか。まぁ、その辺はどうでもいい。
 なにせ、俺は――。

「でも、ごめんね。この夏はちょっとインターンシップで忙しくてさ」
「え?」

 俺は、ゲイだ。
 俺は肘に当たる柔らかい肉の塊から逃れると、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

「インターンシップ?い、いま?内定もらってるのに、なんで?」
「んー。社会経験のタメ、かな」
「内定先に来いって言われたの?」
「ん-、まぁ。ちょっとねぇ」

 相手から戸惑いに満ちた視線がしつこく追いかけてくる。そりゃあそうだ。インターンシップは基本的に、大学三年の夏、冬に行うのが殆どだ。大学四年の夏にインターンシップを受けるなんて普通はあり得ない。

「ねぇ、優雅君。どこのインターンシップ受けてるの?」
「ナイショ」
「……そう」

 不満気な視線が向けられる。どうやら、ウソを吐いていると思われているらしい。まぁ、実際にウソなワケだが。でも社会経験の為というのはウソではない。本当だ。
 時計を見ると、バイトの時間が迫っていた。

「じゃ、俺。そろそろインターンの時間だから」

 俺は〝事業が失敗するところ〟が見たいのだ。夢を追いかけて、リスクも考えずに不用意に飛び込んで。それで、盛大に失敗する大人が見たい。
 だから、あの喫茶店でのバイトも、俺の社会経験を目的としたインターンシップみたいなモンだ。

 俺は荷物をまとめると、スマホを片手に微かに俯く女の子相手にサラリと背を向けた。バイトの時間ギリギリだ。多分、今頃クソみたいな常連客達を相手に、店主であるマスターが一人でキリキリと走り回っているに違いない。想像すると笑えてくる。おかげで、最近全然退屈しない。

 そう、俺が自然と上がる口角に従おうとした時だった。

「……優雅君のウソつき」

 背中から、女の子の声が小さく漏れ聞こえてきた。その声には「自分の誘いを断るなんて」という不満の色がハッキリと透けて見えている。

「じゃ、行くね」

 俺はそんな彼女の声に聞こえないフリをしながら教室を出た。エアコンの効いていない、ムワリとした熱気が俺の体を覆う。でも、さっきまで腕におしつけられていた生ぬるい感触と、甘ったるい匂いよりは幾分マシだ。

「はぁ」

 後ろ手に教室の扉を閉めた瞬間、思わずため息が漏れる。
 これまでどうにか当たり障りなく過ごしてきたのに、最後の最後で手を抜いて小さな不協和音を起こしてしまった。
 でも、仕方ない。なにせ、今はあのマスターが、店をどんどん傾けさせていくのを見る方が、よっぽど面白いのだから。

-------優雅君のウソつき。

 名前すら曖昧な女子の声が、脳裏を過る。

「……あぁ、クソ。疲れた」

 でも、まぁいい。これは失敗のうちには入らない。
 だいたい、ゼミに顔を出す機会なんてもう早々ないし。というか、単位も卒論も終わらせた俺からすれば、大学に顔を出す事自体減るだろう。

「あーぁ。めんどくせぇ四年間だったな」

 要領も、顔も、家柄も、何もかもが平均以上。それなのに、この俺には一つだけ「平均以下」な部分があった。

「……なんで、普通に女が好きになれないんだよ。俺は」

 性的欲求も恋愛感情も、全てが男にしか向かない。そのせいで、俺の人生は面倒な事ばかりだった。

 男しか好きになれないのに、この平均以上の顔が必要以上に女を引き寄せる。良いなと思う男は、基本ノンケ。もちろん告白など出来っこない。
 寛容になってきたとは言え、この世界でLGBTは、未だにマイノリティだ。下手に動いて社会的地位を棒には振れない。

 俺は、もう失敗なんかしたくない。

「あ、プリント」

 ふと、今日のゼミで教授が持って帰るようにと言っていた今後のゼミのスケジュールを書いたプリントを取り忘れているのに気付いた。教卓に置いておくから持って行くようにと言われていたのに。

「なんで、イマドキ紙で印刷すんだよ。データ化しろ。メールでいいだろ」

 と、ボヤいたところで、いい歳をした教授にそれが通用するはずもない。ゼミは必修科目だ。何かあると面倒だし、取りに戻った方がいいだろう。

「ま、少しくらい遅れても大丈夫か」

 バイト先からの評価などどうでもいい。どうせ、居るのはバカでお人好しなマスターだけだし。それに、俺をクビに出来るほど、あの店には金にも人にも余裕はないのだから。

 そう思った時だった。ふと、耳の奥で声が聞こえた。

--------寛木君、紅茶。無くなったから、今日は俺のコーヒーでもいい?
「……」

 そんなはずはないのに、微かにコーヒーの匂いがした気がした。

「でも。まぁ、出来るだけ急いで行ってやるか」

 俺はスマホで時間を確認すると、来た道を足早に戻った。ジワリと額に汗が滲む。暑い。まったく、早く夏なんて終わればいいのに。
 そうやって、俺が片手で額の汗を拭いながら、ゼミ室の扉を開けようとした時だった。

 声が、聞こえた。

「ねぇ、優雅君ってホントに内定取れてんの?インターンとかウソ吐いて、焦って就活中なんじゃなくて?」
「お前知らねーの?寛木の内定先って、自分のトコの会社だぜ」
「えっ、そうなの!?っていうか、コネ入社なんだ。全然凄くないじゃん。褒めて損したぁ」

 扉に手をかけた瞬間、教室の中から聞こえてきた話し声に、そのまま俺の体は固まった。

 あぁ、なんだコレ。

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「いーよねぇ。コネで内定持ってけるってさぁ。こっちが就活でどんだけ苦労したかも知らないで」
「アイツ、もう卒論も殆ど終わってるって言ってたぜ」
「はぁ!?ソレ暇だからでしょ。もー、マジでムカつく」

 ムカつく。と吐き捨てるように口にされた声は、本当に先ほどまで俺を旅行に誘ってきた相手と同じ人物とは思えないほど、軽蔑と不満に満ちた声だった。
 そうか、あの子コレが本性か。

「……ったく、どっちが嘘つきだよ」

 スッと一気に腹の底が冷えるのを感じる。その間も、教室の中は盛り上がり続けていた。むしろ、話し声が増えている気さえする。もちろん、話題の中心は俺だ。

「そうそ。アイツ、なーんか感じ悪いんだよなぁ。笑ってんのに、別に嫌なヤツなワケでもねーけどさ」
「あー、分かるかも。俺らなんてどうでもいいって気持ちが透けて見えてるっていうか。バカにされてる気がする」

 次々に加わってくる同級生達の声。そのどれもが、名前も曖昧な奴らだ。でも、声のおかげで顔は浮かんでくる。それが、むしろ厄介だった。

「自分じゃ、上手くやってるつもりなんだろうけどさ。バレバレだよな。笑顔も嘘くせぇし。無駄に顔が良いから腹立つし」
「ソレはただの嫉妬じゃーん。でもまぁ、そんな大した顔でもないけどねぇ?」
「お前だってさっきまでゴリゴリに誘いまくってたくせに、よく言うぜ」
「だってぇ、お金持ってそうだし。付き合えたら便利かなって」

 ゼミ合宿の時なんかは、何かと一緒に行動してまぁまぁ上手くやれてたかなと思っていたのに。

「……はは、フツーにバレてんじゃん。俺」

 これじゃ、高校の時とまるで変わらない。

「笑顔がウソ臭い、か。仕方ねぇじゃん。実際ウソだし」

 大学に入ってから、今度こそ周囲から浮かないようにと、毎日、鏡の前で笑顔の練習をしてきた。あとは、余計な事を言わないように、聞き役に徹して当たり障りのない事しか言ってこなかったはずなのに。

 どうやら全て無駄だったらしい。

「あーぁ。時間ムダにした」

 でも、別にこれは失敗じゃない。だって、あんなヤツらにどう思われたって、俺の人生に微塵も影響してこないのだから。

「……だから、俺は失敗なんかしていない」

 俺は自分に言い聞かせるように小さな声で呟くと、深く息を吐いた。うん、俺は冷静だ。

「バイト行こ」

 面倒はごめんだ。手間だが、プリントは取り忘れたと後から教授に直接貰いに行けばいい。そう思った時だ。

「俺、思うんだけどさぁ。寛木ってゲイなんじゃね?」

 それまでの冷めきっていた思考に、一気に火が付いた。

「……は?」

 背を向けていた教室の扉に、勢いよく振り返る。

「え、なんで?」
「あんなにモテるのに、誰とも付き合おうとしねーし。彼女が居るなんて話も聞かないしさぁ。それに、俺見たんだよ」

 心臓の音が早鐘のように鳴り響く。一枚扉を隔てた向こう側から、軽い笑いを含んだ声が聞こえる。

「なになに?男とホテルにでも入るトコでも見た?」

 今度は、あの女子の声だ。甘えていた時の声なんて微塵も残っていない。噂話にたかる下卑たハエの羽音みたいなキモい声。
 もう、喋らないで欲しい。マジで気持ち悪りぃから。

「いや、さすがにそんなんだったら、すぐに写真撮って報告してるわ!」
「まぁ、そーだよねぇ。じゃあ何?」
「別にヤバイって事はないんだけどさ。ただ、ゼミ合宿で一緒に風呂入った時あったじゃん?そん時、アイツ、スゲェ羽場の事見てたから」

 羽場。それは、俺がゼミの中で最初に名前を覚えた相手だ。そう、このゼミに入った時、最初に目を引いた相手。ずっと、俺が良いなと思っていた相手。

「何それ、キモッ!ちょっと、そういうガチのヤツやめてよー!やばー!」
「へぇ、だから寛木って女に興味無さそうだったんだー。納得だわ」

 教室の中が更に盛り上がる。俺は荒くなる呼吸を感じながら、口元に手を添えた。
 気持ち悪い。

「っは、っぁは」

--------男の人が好きな男の人は、けっこういっぱいいます!悪い事なんかいっこもないです!

 耳の奥で、ミハルちゃんの元気で無邪気な声が聞こえる。その声に、俺は無性に腹が立って仕方なかった。
 なんだよ、簡単に言いやがって。じゃあ、なんで俺は何も悪い事なんかしてねぇのに、アイツらからこんな風に言われてんだよ。それは、俺が「普通じゃない」からだろ。

「は、やく……バイト行かないと」

 そう、グラつく意識の中、俺が再び扉に背を向けようとした時だ。

「おい、羽場。お前は、気付いてなかったのか?」

「っ!」

 ヒュッと喉の奥で息が絡まる。
 そうだった。この教室の中には、アイツも……羽場も居るのだ。心臓の鼓動が、更に早まる。

「は?そんなん知るワケねーだろ」
「いやぁ、でもあれは結構ガチで見てたぜ。なんでかなーって、あん時は分かんなかったけどさ。でも、やっと今シックリきたわ。寛木のヤツ、お前の事好きなんだ!」
「ちょっ、はぁ!?ンなワケねーだろ!」

 扉の向こうが一気に騒がしくなる。俺はそれをどこか遠くに感じながら、ゴクリと喉の奥を唾液が流れ込んでいくのを感じた。暑いはずなのに、体の芯は冷え切っているような妙な感覚。

「やばー!私、ゲイって初めてかも!ねぇ、実はもしかして隠れて付き合ったりしてる?私達、別にヘンケンとか無いから、気にしなくていーのにぃ。ねぇ?」
「そうそう。言ってくれたら合宿だってお前らだけでも二人部屋にしてやったのにさー」
「おい、やめろって!」

 羽場の周囲を窘める声が聞こえる。
 あぁ、羽場にしてみれば、とんだとばっちりだ。可哀想に。でも、羽場だって気にする必要はない。いいじゃないか。別に言いたいヤツには言わせておけばいい。
 別に、何も悪い事なんてして――。

「男とかマジで気持ちワリィわ。つーか、ほんとに寛木がゲイなら友達なんてやってらんねーし」

 嫌悪に満ちた羽場の声が聞こえた。同時に思う。

「あー、ダル」

 そう呟いた瞬間、俺は教室の扉を開けていた。

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「っえ?」
「ぁ、ウソ……!」

 それまで教室で談笑していた全員の視線が、俺へと向けられる。
 同級生からの驚きと、気まずげな声が漏れる中、俺は教卓の前に置いてあるプリントを取る為に、コツコツと足音を響かせた。

 先ほどまでの喧騒を消した教室。廊下とは違い、効きの悪い冷房の風が体に滲んだ汗に触れて、シャツが体に貼り付く。少し、いや、かなり気持ち悪い。

「あ、あの……寛木?」
「優雅君、さっきのはちょっと冗談で……」
「うん?なんのこと」

 鍛え抜かれた表情筋が、いつもの笑みを同級生達に向ける。そんな俺に、先ほどまである事ない事口にしていた同級生達が少しだけホッとした表情を浮かべた。
 そう。あくまで、俺はプリントを取りに来ただけだ。

 でも、だ。

「あ、えっと……優雅君。インターンシップ、頑張っ」
「黙れよ、ブス」
「え?」

 お前らの言ったように、この笑顔がホンモノなワケねぇだろうが。全部ウソだ。ウソウソウソ、ぜーんぶウソ!

 気付けば、俺は深く息を吸い込んでいた。
 あぁ、クソ。俺の四年間って何だったんだろう。

「お前ら、全員マジでキメェわ。だいたいお前らってさぁっ――」

 そう、言葉を放った瞬間。
 俺の声帯はとめどない言葉の波を同級生達へと浴びせかけていた。怒鳴り声を上げたりはしない。だって、別に俺はコイツらに対して怒っちゃいない。ただ、思ったことを……いや、ずっと思っていた事を、懇々と伝えているだけだ。

--------こりゃ、やっぱ店の余命も半年以内ってトコかなぁ。

 それこそ、つい先日マスターに言ったみたいに。
 そこからの記憶は、酷く曖昧だ。ともかく、俺の悪癖が出てしまった事だけは確かだ。

 そう、〝本当の事を言ってしまう〟という、俺の悪癖が。

「つーか、羽場ぁ」
「っ!」

 最後に、俺はこちらに向かって閉口する羽場に向かって、出来るだけ嫌悪感丸出しの声で名前を呼んでやった。
 戸惑いに満ちた真っ黒い瞳が、とっさに俺から逸らされる。

 あぁ、クソクソクソ!なんだよ、俺が何かしたかよ!好きなんて一言も言ってないだろうが!何も求めてないだろうが!
 お前とどうなりたいなんてこれっぽっちも思ってなかったのに。

「誰がテメェなんか好きになるかよ。鏡見てモノ言えや」
「っ!」

 あぁ、どう考えても言い過ぎだ。でも、もういい。こんなヤツにどう思われようと、なんて事はない。
 それなのに、どうしてだ。鼻の奥がツンとする。目の奥が熱い。

「気持ちワリィんだよ。お前ら全員」

そして、それがこの教室で放った、最後の言葉だった。

 俺は、失敗なんかしちゃいない。

◇◆◇

 気付けば、俺は金平亭の裏口の前に居た。

「っはぁ、っはぁ……間に、合った」

 遅刻してもいいか、なんて思っていたくせに、どうやら俺は走ってここまで来ていたようだ。高く上った夏の太陽が、ジリと俺の肌を容赦なく焼き付ける。

「あっつ」

 流れてきた汗を手の甲で拭いながら、店の裏口の戸を開けた。同時に、クーラーの冷風がフワリとコーヒーの香りを運んできた。

「っふー」

 冷房の効いた店内に入ったはいいものの、体中から汗が滝のように流れていく。ただ、充満するコーヒーの香りのお陰か、あまり不快感を感じない。そうやって、俺が天井を仰ぎ見ながら呼吸を整えている時だった。
 せわしない足音がこちらへと近づいてきた。

「あ、あれ?寛木君?なんで……」

 休憩室の前を通り過ぎようとしたマスターが、驚いた様子で俺に向かって声をかけてくる。どうやら、忙し過ぎて時間を把握出来ていないようだ。

「普通にシフトの時間なんですけどー」
「って、もうそんな時間っ?ちょっ、来たばっかなのにごめん!注文取りに行ってくれる!?」

 マスターが俺に向かって言い放った直後、店内からヒステリックな声が響き渡った。

「ちょっと、まだなの!?コーヒー一杯にどれだけ待たせるつもりよ!」
「すっ、すみません。ただいま!」

 あぁ、予想通り。
 今日も店は、長時間居座るババア達を筆頭に満員御礼の様子だ。まったく、今日はコーヒー一杯でどれだけ粘るつもりなのか。この、心地良い温度に保たれた店内の電気代すらも、あのコーヒー1杯では賄う事は出来ないというのに。

「もう、なんだよ。待たせるって……。さっき来たばっかりのくせに」

 ふと、マスターの口から苛立ちを含んだ不満の言葉が漏れた。文句ひとつ言わずに馬車馬のように働くマスターにしては珍しいボヤき。

「へぇ」

--------マスター!あのオバさん達追い出しましょーよ!他のお客さんにもメーワクです!くたばれっ!
--------まぁまぁ、田尻さん。落ち着いて、彼女たちも一応お客様だから。

 「お客様」
 殆どクレーマーと化した迷惑行為を繰り広げる人間相手に対して、そんな言葉を口にするマスターに、俺はいつも「お客様は神様だもんねぇ」と、皮肉を言ってやっていた。まだ、高校生のミハルちゃんの方が、よほど本質を理解している。そんな俺の言葉に「しょうがないよ」としか口にしないマスターの姿に、俺はやっぱりこの店が遅かれ早かれ潰れる事を確信していたのに。

 なのに、今日は違った。

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(帰れよ、クソババア)

「あ」

 音もなく口元だけで紡がれた言葉が、俺にはハッキリと聞こえた気がした。その苛立ちを露わにした横顔に、俺は思った。
 なんだ、コイツもずっとアイツらにムカついてたんじゃん、と。

「……寛木君?」
「……」
「寛木君、大丈夫?」

 返事をしない俺に、キッチンから軽くこちらを覗き込んできたマスターが控室に入って来た。同時にコーヒーの強い香りが俺の鼻先を掠める。よく見ると、マスターの手には、アイスコーヒーの入ったグラスが握られていた。

「どうしたの、具合でも悪い?」
「……別にぃ」

 すると、不思議な事に、それまで頭の中で嵐のように渦巻いていた感情が、一気に凪いだ気がした。俺は持っていた鞄を投げやると、深く息を吸い込み、思わず本音が漏らした。

「……良い、匂い」

 コーヒーより紅茶派だったのに、何故か、今はこのコーヒーの匂いに酷く安心してしまう。こんなに騒がしくて落ち着かない店なのに。バカで愚かな夢追い人のせいで、潰れていくだけの店なのに。

 俺がロッカーの中からエプロンを取り出すと、そこからも微かに香ってくるコーヒーの香りに静かに息を吐いた。つい先ほどまでのゼミでの時間が、酷く遠い過去のように感じられる。

「寛木君」
「わかったって、今行くってば」

 再度呼びかけられた声に、俺は俯いていた顔をあげた。さて、今日もしっかり働いて、人件費でこの店の赤字に拍車をかけてやろうじゃないか。そんな嫌味が頭をかすめた時だ。

「注文はやっぱりいいや。俺が行くから」
「は?」

 カラリと、氷同士が擦れる音がした。気付けば、すぐ傍にいつも通りのパッとしないマスターの姿があった。

「何言ってんの。客、待たせてんでしょ。すぐ行くから準備に戻りなって。またクレームつけられるよ」
「もう付けられてるから大丈夫」

 微かに笑い声を含んだ声に「はぁ?」とエプロンを着終えて、再びマスターの方を見た。そして、改めて思う。

「あの人たち、さっき来たばっかりだから。少しくらい待たせていいよ、もう」

 うん、やっぱり全然好みじゃない。
 俺の好みの顔は、もう少し目が大きくて、あとは、そうだな。眉はもう少し太い方がいい。それに、出来れば肩幅はもう少し広くて、程よい筋肉も欲しいところだ。いや、別に俺は男に抱かれたいワケではない。ただ、抱くにしてもこんなマスターみたいな、ヒョロヒョロな男は好みじゃない。

--------つーか、ほんとに寛木がゲイなら友達なんてやってらんねーし。

 そう、俺の〝好み〟を思い浮かべた時に、自然と思い浮かんできた相手の姿に、俺は思わず背筋が冷えた。

 最悪だ。

「寛木君、寛木君」
「っあぁぁぁっ、もう!なんだよ!」

 何度も名前を呼んでくるマスターに、思わず苛立ちを隠せずに返事をすると、カタンと何かを置く音が耳をついた。

「暑かったでしょ。これ、飲んで。少し休んでからおいで」
「は?」

 そう言ってマスターが控室の机に置いたのは、客に準備していたであろうアイスコーヒーだった。再び、カラリとコーヒーの中で氷が動く音がする。いやに涼し気なその音に、俺は思わずゴクリと喉が鳴った。

「いや、コレ。さっきの客のだろ。つか、忙しいのに何やってんだよ」
「田尻さんには内緒ね。不公平だって怒るから」
「いや、そんな話してねーし……」

 そう、顔を上げた瞬間、言葉が詰まった。そこには、目元に小さな泣き黒子を携えたマスターが、いつもの緩い笑みを浮かべて俺を見ていた。

「それ、上手く淹れられたヤツだからさ。あの人達に飲まれるより、寛木君に飲んでもらった方が嬉しいし」
「いや、だから店の方が……」
「学校、お疲れ」
「っ!」

 マスターはそれだけ言うと、騒がしい店内に一人で走り去って行った。残されたのは、呆然と立ち尽くす俺と、独特の深い苦みを感じさせるコーヒーの香りだけ。俺は、机の上に置かれたアイスコーヒーをしばらく見つめると、ソッとグラスを持ち上げた。

「……冷た」

 でも、その冷たさが、夏の日差しに焼かれた体には、酷く気持ち良かった。そういえば、無心で走ってきたせいで喉もカラカラだった。

「っはぁ」

 喉を鳴らしながら、乾いた体に染み渡っていく少しほろ苦い液体に、俺は微かに目を閉じた。

--------おでの、ごーひー、おいじいぐない?

 泣きながら震える声で尋ねてきたマスターの声に、俺は自然と漏れ出た答えに目を伏せた。

「……うま」

13

--------帰れ、クソババア。

 潰れる店が見たかった。でも、ちょっとだけ作戦変更。もっと面白い事を考えついてしまった。

「なぁ、マスター」
「んー」

 俺は完全に客の掃けた店内で、安いティーバッグで淹れた紅茶を飲んでいた。もちろんアイスティーだ。マスターはと言えば、パソコンで帳簿を付けている。現在、この店に居るのは俺とマスターの二人きり。

 ミハルちゃんはと言えば、明日もダンスの朝練があるからと、早々に帰ってしまった。

--------ますたー!今日はコーヒーはいらないです!
--------ん、分かった。
--------あっ、マスターのコーヒーに飽きたワケじゃないです!明日、朝練あって朝早いから、今日は早く寝たいだけなので!拗ねないでください!
--------いや、拗ねてないから。

 なんつーユルい会話だ。気が抜ける。
 そういえば、彼女には普通にアイスコーヒーを出すくせに、俺には未だに紅茶だ。まぁ、俺が紅茶派と言ったからそうなるのも無理はないのだが、わざわざ別に作るのも面倒だろう。そろそろ俺もコーヒーで良いと妥協してやってもいいかもしれない。

「ねぇ、マスター」
「んー?」

 マスターがパソコンに視線を落としたまま返事をする。一度気付いてからというもの、左目の目尻にある泣き黒子に視線が向いてしまう。

「アンタ、なんでこんなトコで店なんか始めようと思ったの?」
「なんだよ、急に」

 突然の俺からの問いかけに、マスターがパッと顔を上げた。不思議そうに瞬かれるその目は、年齢の割に少し幼く見える。
 っつーか、ずっと思っていたが、この人はなんでもかんでも表情に出過ぎだ。だから、幼く見えるのだ。

「いいから。なんで、この場所?つーか、どうして喫茶店?」
「あ、え?」
「ほーら、早く答える」
「えっと、なんでって……あー、えっと」

 畳みかけるように問いを重ねると、マスターはキーボードを叩く手をとめて片手を顎に添えた。

 なんだかんだ、聞けば真剣に答えようとするところが、このマスターらしい。たとえそれが、あと半年でこんな店は潰れるだろうと口にした生意気なアルバイト店員からの問いかけだろうと、相手の言葉はきちんと受け取り吟味する。
 効率の悪い生き方だ。

「……ここ爺ちゃんの店で。昔から、好きだったから」
「へぇ、そう。なんで好きだったの」

 さすがに店は賃貸じゃなかったか。でも、確かにそうでもなきゃ、こんな理想だけで経営デザインもクソもなってないような店が一年以上保つはずがない。いや、そもそも、こんな職人気質のバカに、不動産なんか借りられっこないだろう。

「なんで好きか……えっと、なんでだろ。コーヒーが好きだから、かな?」
「そんなガキの作文みたいな浅い動機、よく平気で口に出来るねぇ?」
「う゛っ。で、でも、実際好きだし!」

 俺の言葉に、微かに顔を赤らめて叫ぶマスター。その顔に、ふと泣かせてしまったあの時の表情が被って見えた。
 うん、やっぱり好みじゃない。

「なぁ、もう少し深堀りして考えてよ。爺ちゃんが店やってたからって、それを孫のアンタが引き継ぐなんて普通はない事なんだよ?普通じゃない事をするって事はさぁ、それなりの理由があるモンだ。ほら、もっと考えて」
「……なぁ、寛木君。さっきから何なんだよ」
「ねぇ、マスター?この店を半年で潰したくなかったら、黙って答えてください」
「へ?」

 俺は敢えて〝良い子の寛木君〟のテンションで答えてやると、首を傾げてこちらを見てくるマスターに、思わず口角が上がるのを止められなかった。
 そうだ。三年以内に潰れる飲食店など、この世にごまんとある。だとしたら、俺が見届けるべきは、この店が潰れる瞬間じゃないのかもしれない。

「さぁ、まずは四の五の言わずに考えてよ。話はそこからだ」

 この店を生き残らせる事の方が……俺の残りの大学生活の暇つぶしにはもってこいかもしれない。
 既に卒業に必要な単位は取り終えている。もう、あんな場所に行く必要はない。行きたくもない。

「考えろって言われても……」
「おい、商売やる人間が、思考を放棄するなよ。だから、アンタはダメなんだ」
「っぐ」

 俺の言葉に、何か言いたげだったマスターは微かに瞼を伏せると、背もたれに体を預けた。目を瞑っていると、更に泣き黒子の存在感が増す。
 あぁ、なんかアレ、ほんと気になる。なんでだろ。

「……難しい」
「あー、もう。一人で思考もまともにできないのかよ」

 自分の事すらまともに思考出来ない相手に、俺はアイスティーの入ったグラスを片手にため息を吐いた。一体どこまで世話をやかねばならないのか。

「じゃあさ。いつ頃、この店に遊びに来てたの?」
「……小学生の頃からだけど」
「だけど?」
「一番、通ってたのは……高校の頃だった、かも」

 高校生が、こんな純喫茶に通うなんて中々渋い。カラオケだのゲームだの女だのに夢中になる年頃だろうに。まぁ、悪くない趣味だ。

「学校に行きたくない時とか、ここにサボりに来てて」
「学校に行きたくないって、なに。イジメられでもしてたの?」
「いや、イジめとかじゃなくて、なんて言ったらいいんだろう……えっと」

 確かに、マスターみたいなのはイジメを受けるタイプではないだろう。なにせ、イジめというのは、何か他者より突出したモノ、あるいは凄まじく劣っているような相手に向けられるモノだ。

 この、どこからどう見ても凡庸そのものであるマスターが他者から強い感情を抱かれるとは、到底思えない。所以、どうでも「良いヤツ」なんて言われるタイプだ。

「……学校が、毎日つまんなくて」
「へぇ」
「なんか息苦しいっていうか。自由がないなって」

 どこかぼんやりした口調で紡がれ始めた言葉に、俺は微かに息を呑んだ。

「進路とか、勉強とか。色々選択肢があるように見えて、でも、結局やってる事は皆一緒だし。友達とかと話してても……当たり障りのない事をダラダラ喋ってるだけで……つまんないなって」
「……」

 この頃になると、俺の問いかけ無しでもマスターは喋り始めていた。

「なんか、ここって俺の居場所がないなぁとか思ってたら、たまに学校をサボるようになってた」

 伏せられていた瞳が、ハッキリと俺の方を見た。同時に、アイスティーの中の氷が、カラリと音を立てる。

「っは、居場所がないって。ティーンかよ。ダサ」
「その通り。その頃の俺は、実際にティーンだったんだよ。でも、まぁ……」

 まるで意趣返しだと言わんばかりの口調で放たれた言葉だったが、すぐにマスターはヘタリと眉を寄せ傍にあった自分用のアイスコーヒーに手を伸ばした。

「でも、なんだよ」
「大人になっても、同じような事を思ってたから、確かにちょっとダサいかもね」

 そう言って、カラリと氷を鳴らしながらコーヒーを飲むマスターに、俺は目を奪われていた。なんだろう、心地よい温かさが胸の奥に広がるこの感覚は。変な感じだ。

「特に学生時代は、学校サボってもお金は無いし。行くとこもない。家に帰ろうにも、親にバレたら面倒だ。そういう時、ここに来てた」

 再び逸らされた視線は何もない虚空へと向けられていた。机に肘をつき、どことなく懐かしそうな表情に染められている。

14

「爺ちゃんは特に何も聞かないから楽だったなぁ。『また来たのか』って、コーヒーだけ出してくれてたし」
「……良い爺ちゃんだね」
「そう!だから、俺。爺ちゃんは好きだった!」

 俺が無意識に口に出だした言葉に、マスターはパッと表情を明るくした。祖父を褒められて嬉しいのだろう。ほんと、ガキみたいに思った事が全部顔に出る人だ。

「あと、今はもう無いけど、爺ちゃんが居た頃は古い雑誌とか本とかいっぱいあってさ。凄かったんだよ、ここ」
「へぇ、いいね」
「うん!ここ、俺の自慢の場所だった」

 いつものマスターよりも、随分幼い気がする。一応、年上なハズなのに、妙に世話をやきたくなるような感じがして毒気が抜かれる。
 今のマスターはきっと高校生の彼の姿なのだろう。他人とも社会とも上手く折り合いが付かず、どうしていいか分からない中、高校生のマスターはここに来ていた。

「時間潰すにはもってこいだし。他のお客さんが来ても、別に制服着てる俺に何を言うわけでも無くて。あ、たまに俺と似たようなサボりの学生も来てたりして、友達に……」
「ん、どうしたの?」
「……いや、なんでもない」

 何でもないと言いながら口にされた言葉は、決して何でもなさそうではなかった。が、すぐにマスターは再び店の中を見渡し、懐かしさに目を細めてみせた。今は、好きに語らせておいた方が良さそうだ。

「で、ちょっと仲良くなった常連のサラリーマンの人が居たから、俺聞いてみたんだ。なんで、高い金出してわざわざここにコーヒーを飲みにくるのかって。そしたら、その人言ったんだよ」

--------家でも職場でもない。そういう、自分が自由であるための居場所が、人生には要るんだよ。

「君もそうだろ?って言われて、俺は確かにって思った。学校でも家でもない。無くても困らないけど、あって欲しい自由な場所が……大人になっても続いてくれたらいいなぁって」

 マスターの口を通して語られるサラリーマンの言葉。その言葉に、俺も妙に胸を擽られた。

「そう。俺にとって、この店って面倒臭い人間関係とかしがらみとかが無い、まっさらな場所だったから。そういう場所が大人になっても続いて欲しいって思って……」

 口にしながら、自分で腑に落ちてきたのだろう。
 マスターは俺に視線を戻すと、ほんのり頬が赤らみ、瞳にはひとしずくの笑いが宿った、まるで心からの喜びがその笑顔から溢れ出ているような顔で、俺を見ていた。

 なんだろう、酷く地味で好みではないけれど、悪くない顔ではある。

「だから、俺は爺ちゃんの店を続けたいって思った。できれば、俺も誰かの自由な場所になれたらいいなって思ったから」
「……」

 学校でも職場でも、ましてや家でもない。しがらみのない自由な場所。予想はしていたが、なんとも夢見がちな理想論者である。

「あ、あの。寛木君……これで、いいかな?」

 マスターは控えめながらも、上目遣いにおずおずと視線を向けながら尋ねてきた。指を手元にあるグラスの口の部分に滑らせながら、俺の反応を緊張と照れを隠しきれない様子で待っている。

 は、なんだよコイツ。マジで二十七歳か。

「っはーー」
「えっ、なに?なんかダメだった?」

 テーブルの向こうから身を乗り出してくるマスターに、俺はジワリと顔に熱が集まるのを感じて、急いでアイスティーに口を付けた。が、既に飲み終わっていたソレはカラリと氷が唇に当たるだけで、喉を潤す事は叶わなかった。

「……アンタはやっぱりバカだ」
「なっ!」

 どうしようもない状況に、俺はボソリと悪態を吐いた。そうしなければ、顔に集まる熱の正体に追いつかれそうだったからだ。

「寛木君が言えって言ったんだろ。っていうか、そうやって人の思い出をバカにするな!」
「勘違いしないでぇ。俺はマスターの思い出をバカになんてしてないし」
「じゃ、じゃあ何なんだよ!」
「マスター自体をバカにしてんだよ。バァカ」
「はぁっ!?」

 眉をこれでもかと寄せ、驚いた顔でこちらを見てくるマスターに、俺は改めて彼が俺の好みじゃない事にホッとした。そう、見れば見る程に、全然好みじゃない。俺が今まで好きになった相手の、欠片も被りが見当たらない。

 よし、これなら安心だ。
 ……いや、なにが安心なんだよ。ワケわかんね。

「だいたい、なんだよ。このクソみたいな喫茶店の経営デザインは。なんで、理想や目的があるのに、それに向かって達成できるような経営スタイルを取ろうとしねぇの」
「け、経営デザイン?」
「目的を達成するためには、どんな商品を取り扱うべきか。値付けはどうするか。自分のライフスタイルを考えた場合の利益率はどうあるべきか。あと、一番大事なのは……」
「あ、あっ。えっと。え?」
「どんな客に、店に来てもらいたいか」

 コンコンコン、と俺は指を机に軽く叩き付けながら、頭の中で思考を巡らせた。
 どうすれば、この店を立て直せるか。赤字の店を黒字化させて、長く存続させられる店にできるのか。

「な、なんで店が客を選ぶような事をしなきゃいけないんだよ。来てもらえる人は、みんな大事なお客さんだよ」
「っは、出ました。思考放棄の理想論者が」
「あっ、あのねぇ!寛木君。さっきから聞いてれば、君はちょっと……」
「じゃあ、聞くけどさ?」

 考えれば考える程おもしろい。
 それこそ、下手なインターンシップなんかよりも、よっぽど社会経験になるというものじゃないか。

「今のこの店、理想だった爺ちゃんの店になってる?」
「あ、ぅ」
「商いしてるクセに、考える事を放棄すんなし。じゃなきゃ、遅かれ早かれ店は潰れるって分かってんでしょ。なに、そのパソコンは飾り?」

 俺からの問いかけに、マスターは口角をヒクつかせながらノートパソコンの画面に目を落とした。あそこに何が入力されているかは分からないが、仕入れ値と販売価格、店の維持費なんかはある程度予想がつく。

 そうすると自然と弾き出される。この店がどのくらいの赤字を、毎日垂れ流しているか。

「マスター。そろそろ現実見ないと。この店、マジで潰れるよ」
「い、いやだっ!」
「じゃあ、そろそろ本気で考えないと……」
「ずっと本気だよ!ずっと考えてる!かんがえてるけどっ」

 突然、泣きそうな顔で俺の事を見つめてくるマスターに、俺はまたしても焦った。
 ヤバイ、また本当の事を言い過ぎて泣かせるかもしれない。あの日の、目が溶けそうなほど涙を流すマスターの顔が頭を過る。

「……でも、もう俺じゃ。何を考えていいかも分からないんだ」

 そう、か細い声で紡がれた言葉に、俺はふと思い出した。

--------学校、お疲れ。

 そう言って出された一杯のアイスコーヒー。
 あの瞬間、確かに、ここは俺にとって何のしがらみもない〝自由な場所〟だった。

「わかった。だったら代わってやるよ」
「え?」
「だーかーら、考えられないマスターの代わりに、考えるのを俺が代わってやるって言ってんの」

 多忙は怠惰の結果だ。怠惰は思考を停止したヤツの罪だ。
 「分からない」「考えられない」は商いにおいては〝終わり〟を意味する。でも、この人は、店を終わらせたくないという。だとすれば「考える」役割を他人に委託するしかない。

「今から、全部俺の言う事を聞いてもらうからぁ」
「えと、待ってそれは……どういう」
「俺がこの店をコンサルしてやるって言ってんの。しかも、タダで」
「こ、コン、さる?で、でも、寛木君って、まだ大学生じゃん」
「は?これでも、マスターよりは賢いって自認してるつもりだけど?」
「ぐ」

 言い返せないのだろう。なにせ、自分の目の前にあるパソコンが全ての数字を如実に表しているに違いないのだ。自分の気持ちに嘘はつけても、数字は嘘をつかない。

「さ、どうする。やるの、やらないの。別に俺はいいんだよ。この店がどうなろうとね」
「っ!」

 マスターの表情が、先ほどまでの泣きそうなモノから一気に慌てた表情へと変わった。
 あぁ、この人ホントに面白い。見てて飽きない。

「やっ、やる!やります!い、一緒に考えてください」
「よろしい」

 くぅと、悔し気に肩をすぼめてみせるマスター相手に、俺はチラリとパソコンの隣に置かれたマスターのアイスコーヒーへと目をやった。もう、氷はだいぶ溶けてしまっている。きっと、味も随分薄くなっているだろう。

「じゃ、まず最初の俺からの指示」
「は、はい!」

 この人は確かに、俺の好みではない。でも――。

「次から、俺にもコーヒー出して」
「……え、なんで?」

 おずおずと俺に向かって尋ねてくるマスターに、俺は、彼の泣き黒子に目を視界の端に捕らえながら言った。

「紅茶、飽きたから」

 うん、やっぱマスターの顔。
 ぜんっぜん、好みじゃねぇわ!


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