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くつろぎ君はコーヒーがキライじゃない!(4)【お仕事小説】

9月:くつろぎ君のやりがい

23

「ゆうがくーん」
「……」

 閉店後。
 店内にカタカタとパソコンのキーボードを叩く音が響き渡る。レジを締め、収支をパソコンに打ち込むマスターの横顔は、最近どこか固い。

「はぁ」

 微かに吐かれた溜息と共に薄く目が細められ、前髪がサラリと揺れる。最初に出会った頃よりも大分伸びた髪の毛は、痛みのない黒髪で、一度も染めた事などなさそうな色艶をしている。触り心地は悪くなさそうだ。

「ねー、ゆうがくーん」
「……」

 金平亭が全商品を値上げして一か月が経った。
 あれから、あのクソババア共は一度も店に来ていない。まぁ、さすがに「警察を呼ぶ」と言われた店にのこのこ来る程、厚顔無恥ではなかったようだ。

「ゆうが君、ゆうが君」
「……」

 しかし、だからと言って客入りに変化はあまりみられない。つまり、好転もしなければ暗転もしていない。という事は、値上げの分、売上は上がっているハズだ。けれど、赤字が好転するような状態ではない事が確かだ。なにせ、一番重要な〝客〟が増えていないのだから。
 まぁ、あのパソコンだけは何があっても見せてくれないので、詳しくは分からないが、粗方予想はつく。

「……はぁ」

 先ほどから時折漏れる溜息が、それを証明している。

「……っはぁ」

 再び漏れた溜息と共に、髪の毛で隠れていたマスターの泣き黒子がチラリと顔を覗かせた。その瞬間、あの日「いつでもおいで」と言ってくれたマスターの泣き顔が鮮明に思い出された。

「もー!ゆうが君!ゆうが君ったらーーー!」
「っ!」

 その瞬間、それまで一切耳に届いていなかった俺を呼ぶミハルちゃんの声が、耳の奥まで響き渡った。次いで、それまで見えていたマスターが消え、視界いっぱいにミハルちゃんの顔が映し出される。

「っな、なに……?」
「さっきからずっと呼んでるのに無視しないで!……って、あれ?」

 あれ?という言葉と共に、ミハルちゃんの目が大きく見開かれる。
 俺は、そんな彼女から逃れるように視線だけを逸らすと、視界の片隅に先ほどまで真剣な顔でパソコンと向かい合っていたマスターと目があった。

「っぁ」

 その瞬間、カッと体中の体温が上昇する。ヤバ。なんだ、コレ。

「ねー、ゆうが君」
「な、んだよ……」
「顔、真っ赤だよー?」
「っっっっ!」

 ミハルちゃんに顔の熱を指摘された瞬間、俺は一気に息を詰まらせると、そのまま手元に残っていたアイスコーヒーに勢いよく口を付けた。後を引かない深みのあるコーヒーの苦みが、舌の上を通り抜け、喉の奥を通り過ぎていく。

 あぁっ!クソッ、なんでこんなにコーヒーが美味しく感じるんだよっ!

「っ赤く、ねぇしっ!」

 最近、俺は少し変だ。

◇◆◇

「で、なに?」

 俺はこちらをふくれっ面で見てくるミハルちゃんを横目に、アイスコーヒーへと口を付けた。氷が解けて、少し味が薄くなっている。どうしよう。二杯目を貰おうか。

「何って……!もー、全然私の話聞いてないじゃないですかー!」
「あー。聞いてたよ。めっちゃ聞いてた。半分くらいは」
「じゃあ、私はさっき何て言ったでしょーか!」
「……えっと」

 めんどくせぇと思いつつ、テキトーに考えるモーションを挟む。その瞬間、ミハルちゃんがしてやったりという表情で俺を見てきた。

「悩んだ時点でハズレー!だって私何も言ってないもーん!」
「は?ウッザ」

 思わず心の底からの本音が漏れた。
 今までの俺なら女の子相手にそういう事は絶対に言わなかっただろう。でも、ミハルちゃん相手なら言える。つーか、毎日言ってる。そういう異性は、俺にとっては新鮮で、彼女との会話は嫌いじゃなかった。むしろ、たの――。

「ゆうが君、最近ずーっとマスターの事ばっかり見て。ぜんぜっん私の言う事聞いてくれないからー!」
「見てねぇし!」

 前言撤回。
 この子普通にウゼェわ!

「全然、見てねぇし!窓の外見てただけだし!」
「見てた!私が呼んでるのにずーっとマスターの事ばっかり見て!マスターの事が好きなのは分かるけど、私の話も……」
「はぁぁっ!?全然好きじゃねぇしっっ!」

 俺は勢いのまま叫ぶと、とっさにミハルちゃんの鼻をつまみ上げた。その瞬間「もーー!はなしてー!」と叫ぶミハルちゃんの声が一気に鼻声になって聞き取り辛くなる。
 うん、異性にこんな事をしたのは初めてだ。そして、多分この子以外には今後も一生しないだろう。

「もー、さっきから何やってんの。ミハルちゃんも、コーヒー飲んだら早めに帰りなよ。最近、少し日も短くなってきてるからね」

 すると、そんな俺達に、パソコンに向かっていたマスターがひょいとこちらに向かって顔を出した。
 その瞬間、更に呼吸が乱れる。顔も熱い。

「ましゅたー、ひゅーが君がぁっ!」
「うるせぇっ!だーまーれ!」

 一体何を言う気だ!と、俺が更にミハルちゃんの顔に力を込めた時だった。

「寛木君。女の子に何やってんの」
「っ!」

 いつの間にか傍まで来ていたマスターの手が、スルリと俺の手に触れていた。

「今はまだ若いから許されるかもだけどねぇ、気を付けないと。社会に出たらすぐに『セクハラ』とか言われて大ごとになるんだよ」

 気を付けんのはソッチかよ。
 そう、突っ込んでやりたかったが、ミハルちゃんの鼻から手を離した後も、俺はマスターの手が気になってそれどころではなかった。

「まぁ、イケメンはその限りじゃないのかもしれないけどさ。一応気を付けとかないと、寛木君の場合は、逆に変な期待をされちゃったりとか色々ありそうだしね」

 温かい、少しカサついた指先が、スルリと手の甲に浮いた骨をなぞる。とっさに顔を上げると、そこにはいつも通り泣き黒子を称えたマスターがニコリと微笑んでこちらを見ていた。

「寛木君、お互い気を付けよう」
「っぁ、う」

 その顔を見た瞬間、腹の底にくすぶっていた熱が一気に爆発した。

「手ぇ離せよ!気色悪りぃなっっ!」
「っあ、あ、ごめん!すみません!ごめんなさい!」

 とっさに放った俺の言葉に、マスターはハッとした表情で手を離した。しかも、それだけではなく、勢いよく俺から数歩後ろまで距離を取る程だった。

「あ、いや。そういうつもりじゃなくって……!あ、あの、そうだね!?今は男の子とか女の子とか、関係なかったね!誓って、そんなつもりじゃないのでっ!」
「は?」
「ご、ごめんなさい。あの、違くて!俺、変な勘違いしたり、してないので!」

 そう言ってペコペコと頭を下げてくるマスターに、俺は呆然とし過ぎて何も言えなかった。

「お店、閉めるから。そろそろ帰りな」

 そう言ってジワリと俺から目を逸らすマスターの表情は、ハッキリと傷ついた顔をしていた。

 その顔は、やっぱり全然俺の好みの顔をしていなかった。

24

「あーぁ、ゆうが君のせいでますたー、今頃お店で落ち込んでるー」
「……うるさ」
「泣いてるかもー」
「は?さすがに、あのくらいで泣かないでしょ」

 店を閉めると言って外に出された時間は、いつもより大分と早かった。十月の七時。まだうっすらと夕日の色が空に残るその時間帯。店のすぐ傍にある商店街は、帰宅ラッシュのサラリーマン達が足早に家路を急いでいる。

「私をナメないでください!ますたーとはゆうが君より二年以上付き合いがありますからね!ますたー歴は私の方が先輩です!」
「なんだよ、その歴。マジでいらないわ」
「ふふ、羨ましいクセにー」

 そう言って、妙に腹の立つしたり顔でこちらを見てくるミハルちゃんに、再び手が鼻に伸びかけ……止めた。なんか周りから変にイチャつくカップルに見られてもキモいし。

「それに、こないだだって私の言う通り、ますたー泣いてたでしょ?」
「……まぁ、そうだけど」

 こないだ。
 それは、まさに値上げをして客からクレームを言われたというあの日だった。あの日「たまには大学の友達と遊べば」なんて余計なお世話を焼いてくるマスターに苛ついて店を出た俺に、夕方ミハルちゃんから連絡が入ったのだ。

≪ゆうが君。多分、ますたーが落ち込んでると思うので、お店に行ってあげてください≫

 そして、店に行ってみればミハルちゃんの言うとおり、案の定、一人でパソコンを前にしょぼくれていた。そして、泣いた。というか、泣かせた。

「ますたー、私の目の前じゃ泣かないように我慢してます。私が年下の女だから、きっと男のぷらいどが許さないんだと思います」
「……でも、普通にバレてんだからダセェわ」
「全然ダサくない」

 俺の皮肉交じりの言葉に、ミハルちゃんの凛とした言葉が商店街の喧騒を縫って俺の耳に届いた。ジッと俺の方を見る彼女の目は、いつもとは違い妙に大人っぽい。

--------ゆうが君はゲイですよね?

 ミハルちゃんはたまにこういう〝なにもかも分かってた目〟でこちらを見てくるからやっかいだ。

「ますたーは頑張ってます。だから好きです。私、来年の三月でバイト終わるけど、それまでにお客さんを増やしてあげたいです」
「……まぁね」
「別に、ブルームみたいにいっぱいじゃなくていいんです」

 そう言ってミハルちゃんがチラリと視線を向けた先には、マスターがいつも「いいなぁ」と眺める、人気のコーヒーショップ「コーヒーブルーム」があった。どうやら十月の新作の発売日らしい。店の中には若い客の長打の列が出来ていた。

「いっつも客でいっぱいだな、あそこ」
「そー。夜ご飯前なのに、みんなどうしてだろ」
「……さぁ。皆家に帰りたくないんじゃねーの」
「その気持ちはワカるかもー」

 つーか。あんな甘ったるい飲み物の、一体何が良いんだと言いたい。でも、これもまた客の価値観だ。正解はない。

「あーぁ。ますたーの事を好きって思って店に来てくれる常連さんが十二人くらい居てくれたらいいのになぁ」
「っは、何その十二人。どっからきたの」

 唐突に彼女の口から漏れた「十二人」という明確な数字に、俺は思わず鼻で突っ込んでしまった。明確な数値の割に、ミハルちゃんが口にすると急に「友達百人計画」みたいなノリになるのが笑えた。

「えっと、コージーさんがまずは十二人常連客が付くのを目指そうって、いつも言ってて」
「……コージー?」

 聞き慣れない固有名詞に、思わず腹の底に嫌な感覚が走った。コージー。明らかに男の名前だ。しかも、俺の知らない。

「コージーさんは、金平亭のもう一人のますたーです。でも、コーヒーとかは淹れられなくて、どっちかっていうとお金の事とか、どうやったらお客さんが来てくれるかって事を考える人で……そう、ゆうが君みたいな人でした!」
「は?」

 なんだ、ソレ。
 俺は突然ミハルちゃんの口から漏れた「ゆうが君みたいな人」という言葉に、腹の底にモヤついていた嫌な感覚が更に大きくなる。何それ、意味わかんねぇ。

「ソレ。俺、聞いてないんだけど」
「だってぇ、ますたーの前でコージーさんの名前を出すと不機嫌になるからぁ」
「……ソイツ、いつまで店に居たの」
「ちょうど、ゆうが君が来る少し前だったと思います」

「お店を辞めた」ではなく「出て行った」という言葉から鑑みるに、その「コージー」なる男は、金平亭の共同経営者か何かだと推測できる。

「コージーさんはますたーの友達で、一緒にあのお店を経営してた人なんです。でも最後の方はコージーさんは殆ど店に来てなくって。金平亭は開店した時からコージーさんとマスターと私の三人でやってたから、寂しかったなぁ」

 ミハルちゃんの口から語られる、俺が一切知らなかったあの店の過去。それは、あまりにもピンとこなさ過ぎて、本当に金平亭の事か?と疑いたくなった。というか、そうだ。

 信じたくなかった。

「コージーさんが居る時は、ますたーも泣いたりしてなかったんです。きっと、泣きごとはコージーさんに言えてたと思うから」
「……」
「でも、最後の方は二人共喧嘩が多くなって、お店の裏でマスターが泣く事が増えて」

 そりゃあそうだ。
 店でも会社でも、友人知人との共同起業は、必ずといっていいほど途中で上手くいかなくなる。友達とは起業するな。これは起業における定石だ。

「最後は、もう勝手にしろってコージーさんは居なくなっちゃいました」
「……へぇ」

 なにせ、いくら友人として仲良く出来ていても〝仕事〟となれば話は別。真剣であればあるほど、浮彫りになる互いの価値観の相違から、向かうべき道を違えてしまう。
 そして、その時点でその商いは上手くいかなくなる。失うのは金と時間と商売だけではない。

 大切な友人もまた、失う事になる。

25

「ほんと、何から何まで全部間違うんだな。あの人は」

 青山霧。
 そもそも、あんなお人好しは起業にも商売にも向かない。そんな人間が三年近くも店を続けてこれたのは、祖父から受け継いだ店と土地というラッキーパンチがあったからだと思っていた。特に、飲食店経営というヤツは「経営手腕」よりも、毎月支払うべき「固定費」が安ければ安いほど長続きしやすい。

 でも、それだけじゃなかった。

--------いつでもおいで。
「っは」

 マスターにはちゃんと傍に居たのだ。お人好しなだけじゃない。「客」を「数字」や「売上」で管理できる冷静で頭の良い〝性格の悪いイヤな奴〟が。
 そう、まるで俺みたいな奴が。

「だから、今はゆうが君が居てくれて良かったーって私は思います」
「……なに、俺はソイツの代わりって事?」

 無意識のうちに言葉に苛立ちが含まれてしまう。やめろ、そんな風な態度を取ったら、まるで俺が――。

「ゆうが君、コージーさんにヤキモチなんか焼かなくていいですよ」
「はぁっ!?焼いてねぇし!」

 ちょうど頭の中に浮かんできていた懸念を、何の気のてらいなく言語化されてしまった。その瞬間、謎の熱が俺の体を覆い尽くす。もう十月で、肌を撫でる風は大分涼しくなったのに、ジワリと汗が額に浮かんだ。

「ヤキモチってなんだよ、ソレ!ワケわかんないし!つーか、マスターみたいな二日会わなくなっただけで忘れそうな薄塩顔、マジで一番タイプじゃねぇんだけど!」
「じゃあ、忘れないようにずっと見てるの?」
「だからっ!見てねぇし!」

 俺ときたら、叫びながら自分の顔がどんな状態になっているか、しっかりと自覚出来るほど熱を持ってしまっていた。
 あぁ、クソ!ダサ過ぎるっ!

「安心してください!ゆうが君とコージーさんは全然似てないです」
「いや、だから気にしてねぇし!」
「それに、私は、ゆうが君の方がますたーとは〝合う〟って思います!」
「……ど、どこが」

 完全に会話の手綱を握られてしまっている。ダサ過ぎる。そう、自覚はあったが、ミハルちゃんの前だと思うと、そんなのどうでも良い気がした。
 この子の前で取り繕うなど今更だ。

「コージーさんはますたーを泣かせた事はなかったもん。ゆうが君はすぐ泣かせるけど!」

 ソコかよ。

「……悪かったな、すぐ泣かせて」

 つーか、それのどこが〝合う〟っていうんだ。むしろ相性は最悪な気がする。そして、コージーというヤツはあの人を泣かせてなかったという事実に、妙に腹がモヤついた。

「悪い事なんて全然ないですよ!むしろ、私はますたーを泣かせた方が良いって思ってます
「は?」

 いつもの如く、突飛なミハルちゃんからの返しに、俺は呆けた声を上げた。この子は一体何を言っているのだろう。

「えっと、別にますたーをイジめて良いって事じゃないですよ!ただ……えっとぉ」

 でも、思案する彼女の横顔に口を挟むのを止めた。こういう時の彼女は、とても大切な事を伝えようとしているのだと、俺はもう知っている。

「コージーさんはますたーを泣かせたりしなかったけど、ますたーが泣く時はいつも傍にも居てくれなかった。でも、ゆうが君は違うもん」

 真っ黒な大きな目が、じっと俺の視線を捕らえる。
 この子は、何も考えていないようで、その実よく他人を見ている。だから、放つ言葉は物事の本質を射ている。
 だから、俺はいつも思っていた。ミハルちゃんも……大分と生き辛いだろうな、と。この世界は、正しい事がイコール良い事なワケでは無い。

 この子は、どこか俺と似ている。

「ゆうが君はますたーを泣かせるけど、でも泣く時はいつも一緒に居てくれるから、私は安心してます」
「まぁ、俺が泣かせてんだからさ、必然的にそうなるでしょ」
「ふふ、それがいいの」

 何言ってんだよ。いいわけねぇだろ。

「だから、あの時面接に来てくれたのが、ゆうが君で良かったぁ」

 それなのに、ミハルちゃんは機嫌よくポニーテールを揺らしてこちらを見る。そんな彼女に、俺は何も言えなくなってしまった。
 人間、嫌な事言うヤツより、優しい方が好かれるだろ。それに、男だったら、もちろん〝女〟の方が好きに決まってる。こんなの、ずっと前から分かってる事だ。だから、俺も少しくらい〝普通〟になろうとしてたのに。

「ねぇ、ゆうが君」
「なに」
「ますたーの泣き顔好き?可愛いって思う?」
「……」

 隣から、ミハルちゃんのとんでもない質問が聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。いや、気のせいじゃない。むしろ、顔を合わせていないにも関わらず、ジッとこちらを見つめてくる強い視線を感じる。

「好きなわけねぇじゃん、あんな不細工な泣き顔……」
「ほんとに?」
「っぐ」

 繰り返される問いに、なんだか、顔だけじゃなく首や耳の先まで熱くなるのを止められなかった。それは、決して脳裏に焼き付くマスターの泣き顔を思い出したからそうなったワケではない。断じて、ナイ。

「……き、嫌いじゃない」
「だと思った。ますたーの困った顔、かわいいから私も好きです!」
「笑顔でとんだS発言してくるじゃん」
「そう、私はエスです!なので、ゆうが君を困らせるのも好き!」
「……」

 まったく、とんでもない女子高生だ。末恐ろしくてたまらない。
 俺は、良い大人が失敗して泣く姿が好きなだけだ。だから、別にマスターの泣き顔が特別好きというワケではないんだ。とは、わざわざ言わなかった。いや、言えなかった。
 その時には既にミハルちゃんの視線は俺ではなく、再び満員御礼のコーヒーブルームへと向けられていた。

「でも、マスターの泣きそうな顔は見飽きたので、そろそろ本当にお店をどうにかしてあげたいです」

 視線の脇に見える行列のできるコーヒーショップの前には、立ち寄ろうとしていたサラリーマンが、その様子を見て肩をすくめながら入るのを諦める様子が見えた。しかも、それをしているのは一人や二人の話ではない。

 時計を見る。現在の時刻、六時三十分。電車までの待ち時間だろうか。もしくは、すぐに家に帰りたくないのか。
 知りもしないあのサラリーマンの気持ちが、俺は少し分かるような気がした。

「常連を作るには、まずは生活の動線に、あの店を食い込ませないと」
「え?」

 失敗する大人が見たかった。
 取り返しのつかない失敗をした大人が、人生に絶望する横顔を隣で見てみたかった。
 バカで、本質を何も理解していない愚かな大人が派手に倒れる様を、興味深く、他人事として観察したかった。でも――。

「確かに、俺もあの人の転ぶ所は……見飽きたかな」

 あぁ、そうだ。もう何度も見た。あの人の泣き顔は。可愛いなんてとんでもない。不細工で無様で、そう何度も見たいモノじゃなかった。
 なにせ、俺は別にSってワケじゃない。普通の……ただの、臆病で小心者な、ただの同性愛者だ。

 でも、だからなんだ。

26

「ミハルちゃん、SNSの更新は一旦ストップで」

 認めた瞬間、なんだか胸のつっかえがとれた気がした。

「え?なんで?せっかくフォロワーもちょーっとだけ増えてきたのに。金平亭は見た目はレトロー?だから、女の子にも人気あるんですよー!」
「今は、SNSで世界に発信すべき段階じゃない。世界のどこに居るか分かんないミーハーな女の子達にフォローされるより、今、〝ここ〟に居る人間に、まずは店を知ってもらうことが先決なの」
「じゃあ、どうするんですか?」
「まぁ、イロイロ?」
「いろいろ……なんか楽しそうっ!」

 こちらを笑いながら見上げてくるミハルちゃんに、俺はやっぱりこの子と居るのは楽だと、心底思った。
 そんな風に思えるのは、俺の中で他人に一番知られたくなかった部分を、彼女がいとも簡単に受け入れてくれたからかもしれない。

--------ゆうが君はゲイですよね?何もヘンな事は無いです!

 正しい事が良い事とは限らない。でも、それが救いになる事がある。

「楽しいっていうより、多分大変だろうけど」
「大変な方が楽しいよー!」
「言うじゃん」

 決して恋愛感情ではないこの感覚を、一体どう表現して良いか分からない。強いて言葉にするなら、この子とは、来年の三月以降もたまにあの店で会えたらいいな、とは思う。

「ま、そう言うなら明日から色々やるから。ミハルちゃんもダンスのレッスン無い時は手伝って。なにかと忙しくなるだろうし、時給は変わらずやっすいだろうけど」
「ダイジョーブです!私、ますたーもお店も好きなので頑張れます!」

 満面の笑みを浮かべてそんな事を言うミハルちゃんに、俺はふと彼女についても妙に心配になった。

「ミハルちゃーん?俺が言うのもなんだけどさ、やりがい搾取されないように、今後気を付けながらオトナになるんだよー」
「やりがいさくしゅー?」
「そ。本人の〝やりがい〟を盾に、馬車馬のようにこき使ってはゴミみたいにポイ捨てしてくるクソみたいな会社も多いから。ダマされないようにねってコト」
「ふーん」

 特に、ダンスの世界で生きて行こうとしてる時点で、将来不安定そうだし。そう俺が頭二つ分くらい下に見えるミハルちゃんの顔に目を向けた時だった。

「やりがい払って夢が叶うなら、私いくらでも払いますよ!」
「……そう」

 単純に「ヤバ」という二文字が頭に浮かぶ。正直、俺にはちっとも気持ちが分からない。
 でも、「やりがい」を搾取していると思っているのは周の人間で、もしかしたら本人達は喜んで支払っているのかもしれない。

「そういう世界、俺は無理だなぁ」

 そもそもそんなに自分を賭けられるモノなんて、俺には無いし。そんな夢みたいな事を言ってられるほど、子供でもない。

「いや、でも年齢は関係ないのか」

 なにせ、そんな十八歳の彼女と同じような気持ちで働くオトナが、あの店には居る。

--------おでの、ごーひー、おいじいぐない?

 〝安定〟を買う為に、社会の歯車として企業に就職するのが大多数の中、不安定な世界へとわざわざ足を突っ込む。
 ただ、客に美味いコーヒーを出して、自由になれる場所を作りたいが為に。

「普通か……」

 普通じゃないヤツは除け者にされるし、イヤな奴は嫌われるだけかと思っていた。でも、俺みたいなヤツの事を必要としてくれる人間もいるのだ。

「じゃあ、ゆうが君!私は帰るので、ますたーの所に行って来てください!」
「……いや、行かな」

 「行かないし」と最後まで言おうとして、やめた。

「わかった」
「そうしてください!私が居ると、女の子は早く帰りなさいとかお父さんみたいな事言ってくるので!」
「っは、確かに」

 ミハルちゃんの前では、なんかもうどうでも良い気がした。既にこれまでも、色々と変な場面を見られてきたのだから。

「じゃ、また明日」
「はーい!ゆうが君。また明日―!」

 そう、賑わう商店街の中でミハルちゃんに背を向けた時だった。

「ゆうが君!」
「なに?」

 振り返った先には、底抜けに明るい笑みを浮かべてこちらを見つめるミハルちゃんの姿があった。

「卒業してバイト終わっても、たまに金平亭で遊ぼうねー!」
「え」
「じゃあねー!」

 俺の返事を聞く前に、ミハルちゃんは駅の方へと駆けて行った。まるで、返事など聞かなくとも答えは分かっているとでもいうように。ひょこひょこ揺れるポニーテールの後ろ姿が、なんともご機嫌で、思わず笑いが込み上げてきた。

「っは、青春かよ」

 それが、ミハルちゃんに向けられた言葉なのか、はたまた自分自身へと向けられた言葉だったのか。俺にも分からない。
 ただ、そういう口先だけの「卒業しても遊ぼうね」という約束を、未だかつて、過去の人間関係で果たした事はなかったが、今回は果たしてみたいと思ってしまった。

 そして、その為には「金平亭」が存続していなければならない。

「なんつーか、あそこ以外で、ミハルちゃんと会ってるイメージがつかねぇんだよな」

 ただ、俺は額に浮かんでいた汗を手の甲で拭うと、そのまま金平亭へと走った。あの店には、俺みたいなイヤなヤツを必要とする大人が、ずっと一人で働いている。

◇◆◇

 喫茶金平亭は未だに煌々と明かりが灯っていた。
 窓から中を覗くと、一人の人間が客席の一つに腰かけている姿が見える。しょぼくれた姿はいつもの事だ。

「店の収支、そんなにヤバいんだ……」

 そろそろ、無理にでも収支を開示させてもらった方が良いかもしれない。確かに、自分は一介のバイトに過ぎないが、そんな事は言ってられない。

「数字は、アンタみたいなお人好しに担当出来る領分じゃねぇだろうが」

 俺はそれだけ呟くと、まだ煌々と明かりの灯る金平亭に表から乗り込んでやった。別に問題ない。なにせ、「クローズド」の看板が表に出ていなかった。どうやら、出し忘れていたようだ。

 カラン。

「あの、開いてますか?」
「あ、もう閉店して……って、寛木君!」

 すると、一人ウジウジとパソコンを叩いていたマスターが、慌てて目を擦りながら、こちらを見てきた。

--------あーぁ、ゆうが君のせいでますたー、今頃お店で泣いてるかもー。

 まさか、本当に泣いているとは。俺はミハルちゃんの声をどこか遠くに聞きながら、気が付けば勢いよく店の中を横切り、マスターの前へと立っていた。

「ちょっと見せて」
「っあ、ちょっ!ダメ!」
「言ってる場合かよ」

 いつもは隠されている店の収支だが、さすがに泣くほどの赤字なら確認しておかなければ、と思ったのだ。

「は?ナニコレ」
「あっ、えっと。それは……違くて」

 ただ、そのパソコンに映し出されていたモノは【店の収支】などではなかった。

27

≪同性相手でもセクハラになる?部下、従業員の相手の適切な距離の保ち方≫

「いや、あの……俺、ほんと学校とか、サボリがちだったし、就職とかも、あんま上手くいかなかったから……」
「だから?」

 その下のタブには≪他人に依存し過ぎない為の心の教科書≫なるものも見えた。大手の通販サイトのページだ。だとすると、それは本のタイトルか。なんて本を買おうとしてるんだ、この人は。

「あの、えっと」
「だから、なに」

 せかすような俺の問いかけに、俺から視線を逸らしたマスターの顔が徐々に赤くなるのが見えた。その姿に思う。
 この顔は悪くない、と。

「ひ、人との、距離感とかが、分からなくて。だから、ちゃんとしないと、って思って」
「ちゃんとって何?」
「ちゃんと、って言うのは……その」

 面白いくらいドモるマスターは、しどろもどろになりつつ片手でパソコンを閉じた。お生憎様。もう、開いてたタブのタイトルは全部チェック済だ。

「さ、最初みたいに……自分が……好かれてるって、勘違いしない、ように」

 マスターの真っ赤な顔に浮かぶ、どこか苦々しい表情に俺はふと思い出す。そういえばそんな事もあったな、と。

--------男とかマジで気持ちワリィわ。つーか、ほんとに寛木がゲイなら友達なんてやってらんねーし。

「っは」

 普通は男なんて無理だろ。気持ち悪いだろ。あり得ないだろ。
 でも、この人は俺がゲイだと伝えた後も、俺からの好意を、本当に嬉しそうに受け取ってくれていた。他人からの好意を世間体など考えずに、「好き」という事象だけを見て判断していた。それを、最初はバカだと思った。

「確かに、アンタは〝普通〟じゃないかもね」
「へ?俺って……やっぱり、普通じゃない?」
「うん、すっごい変わってる」
「はぁ、もうっ」

 どこか艶っぽいため息をつきながら手で顔を隠すマスターに、俺の方こそ変な勘違いを起こしそうになる。
 いや、落ち着けよ。この人は俺の好みじゃないだろう。それに、ノンケだ。ノンケって事は、この人は女が好きなハズだ。

「っは、マスターって自分に自信があるのか無いのか、ほんっとワケわかんないよね」
「……ご、ごめん。きょ、距離感とか、もう間違えないようにするから。だから、三月までは」
「別に、辞める気ないし」
「本当?」

 震えながら不安気に尋ねてくる声が、俺の耳に届く。髪の間から見えるマスターの耳は、未だに真っ赤だ。

「だって俺が居ないと、アンタもこの店も絶対に潰れるでしょ」
「うん」

 即答かよ。
 こんな学生風情の言葉に迷いなく頷くマスターもマスターだが、俺も相当だ。自分で言うのもなんだが、どこからそんな自信が来るのか自分でもよく分からなかった。
 でも、確かに俺が居ないと「青山霧」と「金平亭」はダメになる。そう思える事は、俺をどこまでも気持ち良くさせた。

 たとえ、俺が「コージー」ってヤツの代わりだとしても、今ここに居るのは俺だ。コージーじゃない。

「だったら、カートに入れてたバカみたいな本、さっさと購入取り消して」
「っぅあっ!み、見たの!?」
「見たんじゃないしぃ。見えたんだよ。不可抗力」

 ウソだ。ちゃんとしっかり見ようとした。
 そうそう、他にも≪年下に嫌われる5つの行動≫なんていうページも開かれていた。笑える。なぁ、その年下って誰の事だ?ミハルちゃん、それとも俺?
 聞かなくても、今にも泣きそうなほど真っ赤に染め上げられたマスターの顔で分かる。

「なぁにが≪他人に依存し過ぎない為の心の教科書≫だよ。マスター、あんたそんなに俺に依存しそうになってたの?」
「……うん」

 素直かよ。……まぁ、素直だ。知ってた。

「別に、俺、マスターから依存されてるって感じた事ないケド?フツーじゃない?」
「いや、それは……」

 だから、ワザとこんな事を聞く。この人は俺と違って聞かれた事には真剣に答えようとするから。ミハルちゃんがマスターの困った顔が好きだと言っていた気持ちが、少し分かった気がした。

「これは、俺の方の問題なんだ」

 マスターは机の上に置かれたノートパソコンを、誤魔化すように撫でながら、俺から視線を逸らして頷いた。でも、やっぱりマスターの顔は酷く赤い。今やエプロンの下に着た白いシャツから見える首筋までもが真っ赤に染まり切っている。

「……寛木君は、その。シフトでもないのに、店に、毎日来てくれてるのに。それなのに、俺」
「なに」
「いつもより、ちょっと来てくれるのが、遅いだけで……焦るから」
「っ」

 おい、やめろ。コイツはノンケだ。別に俺に対して恋愛感情で依存しているワケじゃない。店の事があるから頼り切ってるだけで……。
 でも、なんだよ。俺がちょっと店に来るのが遅いだけで不安になっていたのか。なんだ、ソレ。

「っあ、でも!コレは決して早く来いって言ってるワケじゃなくて!あの、普通にシフトの時だけ来てくれればいいから!ほんっと、無理しなくていい!あ、いや、俺が許可する事でもないんだろうけど……えっと」

 はは、ウケる。もうこの人、完全に俺に依存してんじゃん。依存って俺が居なきゃダメって事だろ。大の大人が。まだ社会経験もまともにした事ない学生風情に、自分の人生賭けてやってる店について、心の底から依存して、頼りきってる。それってどうなんだよ。ありえないでしょ。

 ほんと、この人はどこまで間違えば気が済むんだ。

28

「ただ、もし……もし良かったらでいいんだけど。来れない日とか、遅くなりそうな時は連絡して、くれると、ありがたい」
「……」
「あっ、でも!これは、あの!事故とか、あってないかなって不安に、なるから……だから」

 最後は消え入るような声で口にされる言葉に、俺はいつの間にかマスターの左の目尻に見える泣き黒子へと思わず触れていた。

「っへ、あ……な、な、なに?」
「いや、泣いてるかと思って」
「泣いてないっ!」

 焦ったマスターが俺からスルリと離れていく。熱い。マスターの顔も、そして俺の体も。真っ黒な瞳に俺の姿が映り込む。やっぱりマスターの顔は、全く好みじゃない。でも、それでも、ハッキリと思ってしまった。

「ともかく、そんな本必要ないから。ただでさえ赤字なのに、無駄遣いすんな」

 可愛い、と。

「……うん」

 素直に頷いたマスターは、すぐにパソコンを開くと、カートに入れていた本を取り出した。一体、どこまで素直なんだ。この人は。

「出した」
「……それでいいよ。もう変なモン買おうとしない。無駄な出費を減らすところからやんないと」
「ん」

 信じたくなかった。
 本当に、好みの端にすら引っかからないような平凡塩顔で、それこそ三日も会わなかったら忘れそうなこんな男に。でも、俺はこの無様な大人が、俺以外のイヤな奴に搾取されるのも、支えられるのも見たくないと思った。

「マスター、ちょっと明日、色々試したい事があるから……朝から来るから」
「わかった。俺も、早めに来るようにする」
「あと、仕事の事で夜も連絡するだろうから。いつでも出れるようにしておいて」
「うん、いつでもして」

 コクコクと素直な子供のように頷くマスターに、俺は自分の口からペラペラと出てくる嘘八百に思わず笑いだしそうになった。いや、別に嘘ってワケじゃない。本当にこの店の為なのだ。
 でも、ソレはただの「口実」に過ぎない。

「あ、店の合鍵も要るなら渡しとこうか?」
「……は?」
「俺が居ない時でも、寛木君が店に入りたい時とかあったら困るだろうし」

 何を言いだすかと思えば。一介のバイトに、まさか店の合鍵を渡そうとするなんて、どうかしている。

「あー。じゃあ、まぁ。貰っとこうかな」
「うん、わかった。ちょっと待ってて」

 マスターは軽く頷くと、そのまま店の奥まで走って行った。少し、嬉しそうだ。

「フツー、店の鍵まで渡そうとするヤツがあるかよ」

 信用されていると嬉しくなる半面、不安になる。

「なに、マジでなんなんだ、あの大人」

 一人にしとくと、すぐにヤバイヤツまで店に招き入れそうで怖い。どうやったら他人にあぁまで腹を見せられるようになるのだろう。でも、更に堪らないのが、開けっ放しになった通販サイトの本の購入履歴だ。

「なに買ってんだよ……ほんと」

≪LGBTについて~知る事で差別はなくせる~≫

 なんだかもう、ほんと。こういうお人好し過ぎるところが、店の経営を軌道に乗せれなかった所以かもしれない。ともかくマスターは、情に厚すぎる。客も、従業員も数字として見れていない。だから搾取される。

「っはぁ。俺が、なんとかしないと」

 あの人の〝やりがい〟を、これ以上、客にも社会にも搾取させたりしない。そう、パソコンに映る購入履歴を前に静かに思うと、マスターがこちらに戻ってくる音がした。

「寛木君、取って来たよ」
「あ、うん」

 とっさに、パソコンから顔を上げる。さすがに、これは揶揄う気にはなれない。

「無くさないようにキーホルダー付けてきた」
「あいあい、ありがとね」

 奥から合鍵を取ってきたマスターが、俺に鍵を差し出してくる。よく見ると、鍵にはコーヒー豆のキーホルダーが付いていた。俺の視線に気づいたのか、マスターは嬉しそうに真っ黒な目を輝かせた。

「これ、グアテマラの豆だよ。この堀りの部分が特徴なんだけど……」
「うわ、めっっちゃどうでもいい」
「もう、少しくらい一緒に話を転がしてくれたっていいじゃん」

 ムスリとした声と共に、マスターの水仕事でカサついた手が俺の手にソッと触れる。その微かな触れ合いだけで、妙な満足感と胸の高鳴りを感じるのは、やっぱり俺が完全にオチてしまった事を意味するのだろう。
 いや、マジで信じたくはない。でも、悪い気分じゃないのがまた悔しい。

「やだね」
「ケチだなぁ」

 クスクスと笑いながら離れていく手に、微かな寂しさを覚える。
 あぁ、サイアクだ。またノンケを好きになってしまった。いっつもこうだ。でも、まだ俺は失敗していない。今度こそ、失敗したくない。

「寛木君」
「ん?」

 いつもより意識して返事に優しさを込める。そうしないと、俺の口はすぐに憎まれ口を叩こうとするから。でも、きっとこのマスターはそんな俺の微かな変化など気付きもしないのだろう。

「この店。大丈夫かな。まだ、間に合うかな」

 どこか不安そうな表情で尋ねてくるマスターに、俺はジワリと視線を逸らした。自覚した途端、下手に目が合わせられなくなってしまった。だから、マスターの泣き黒子に視線を向ける。

「まぁ、今から頑張ればイケんじゃない」
「そ、そう思う?本当に」
「爺ちゃんに感謝しなよ。土地と店を受け継げてなかったら、多分無理だったろうから」
「……え?」

 そう、ともかく〝ハコ〟を必要とする商売の殆どは、そのハコの維持費が支払えなくなって店を畳んでいく。客足の増減が常に読めない飲食業は、特にその傾向が大きい。〝固定費〟をどれだけ安く抑えられるかで商売の寿命は変わると言っても過言ではないのだ。

「……そっか」

 俺の言葉に、マスターは何故か目を伏せると、片手でノートパソコンを閉じた。どうしたのだろう。さっきまでの明るさがプッツリと消えた。

29

「まだやれる事はいくつも残ってる。むしろ、まだ何もしてないんだからね。アンタはともかく〝やりがい〟を払って。今は動くしかないよ。施策と検証。商売はコレの繰り返しで前に進むしかないから」
「……うん。そうだ、その通りだね」

 わかった。
 声は未だに沈んだままだ。泣きそうではない。ただ、辛そうだ。この人のこういう顔は、あまり見たくない。ミハルちゃんではないが、俺だってマスターのこういう顔は飽きる程に見てきた。

「いつでも来ていいって言ったの、あれウソ?」
「へ?」
「言ったじゃん。マスター、俺に……学校嫌いだって言ったら『いつでもおいで』って。あれ、ウソ?」
「っ!」

 マスターの伏し目がちだった目が大きく見開かれる。そんなマスターに、俺は一歩だけ距離を詰めると、大きく息を吸い込んだ。この店は本当にどこもかしこもコーヒーの匂いで溢れている。でも、この人の近くが一番匂いが濃い。

 あぁ、この人は本当に良い匂いだ。

「俺、こんなんだからさぁ。多分就職しても周りと上手くやれる気がしないんだよね」
「な、なんで?」
「……ゲイだし。それに俺、イヤな奴じゃん」
「そんな事ないよ!寛木君は良い子だ!」
「っは、そりゃどうも」

 本気で言ってくれてるのが分かるからこそ、皮肉っぽい言い方でしか返事が出来ないのがもどかしい。どうでも良いヤツには、それこそ愛想笑いの一つや二つ楽勝だったのに。今は全く表情筋が仕事をする気配がない。

「まぁ、こういっちゃなんだけど、多分ミハルちゃんの方も、高校出たら苦労すると思うよ。ダンスがどんな世界かは知らないけど、あの子も多分色々とやっかいな性格してるからね」
「……」
「なんで、マスターがそんな顔すんのさ」
「だって、二人共凄く良い子なのに」

 本当にどこまでお人好しになれば気が済むのか。俺達なんて、たかだか店のバイトに過ぎないのに。

「そう思うならさ、この店潰さないでよ」
「え?」
「俺達が辛い時に、いつでも来れるようにしておいてって事」

 俺の言葉にマスターの目が大きく見開かれた。

「俺達の自由な場所になってよ。マスター。いつでも行ける場所があるって、それだけで救いになるんだからさ」

 あの夏。俺が失恋した日。
 俺が無意識のうちに走ってこの場所に来た意味がようやく分かった。もう、ずっと前からこの場所は俺にとって〝自由でいられる場所〟だったんだ。

「マスター。俺は、四月までしかここには居れないけど。その後も、ここに来ていいんでしょ?」
「っ!」

 マスターの瞳がきらりと光った。涙の薄い膜がマスターの目を覆う。また、泣くのだろうか。そう思った時だ。

「ねぇ、寛木君」

 マスターが凛とした声で俺の名前を呼んだ。泣きそうな顔なのに、でも、どこか吹っ切れたような目で俺を見つめてくるマスターに、俺は目が離せなかった。可愛い。いや、綺麗だ。

「俺のコーヒー、美味しい?」
--------おでの、ごーひー、おいじいぐない?

 いつの日か尋ねられた時と同じ場所で、少しだけ聞き方を変えた問いに、俺はゴクリと唾液を呑み下した。あの日、俺は素直になれないまま「不味くはない」と答えたが、今はどうだろう。
 ここは、皮肉も嫌味も、羞恥心も全部捨てて答えるべきところだ。

「す、好きだよ」

 思わず口から漏れた言葉は、恥ずかしい程に震えていた。あぁ、ダサい。なんてダサい告白なんだ。
 俺の生まれて初めての告白は、あれだけバカにしていたコーヒーの後ろに隠れて言うのがやっと。そんな俺に、マスターは二、三度目を瞬かせるとジワリと頬を染めて言った。

「ありがとう」

 その時のマスターの顔は、いつもの泣き黒子が綺麗に隠れるほど、クシャリとした笑顔に彩られていた。
 その顔は、タイプじゃないけど無性に可愛く思えて仕方なかった。

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