思い込みや憶測で物事を決め付けて判断してしまう人間が私の周りには多すぎる問題 note版(Ver.17-A)


(初出:2021年1月16日(Ver.17-A))
(過去にPixiv BOOTHに"マッハ新書"として投稿していたものを加筆・修正してこちらにもアップロードした)

個人の「思い込み」や「予想」や「憶測」、「たぶんこうであろう」「~だと思う」といったはっきりした確証もなにもないままの状態でものごとを「決めつけて」しまう人間が多すぎる。


目の前の実際の、現実の「事実」をよく見もせず確認もせず、自身に都合のいい解釈をしてしまい、それらがことごとく「目の前の"事実""現状"」と齟齬・乖離したままものごとを判断し、行動にうつしてしまう人間が多すぎる。


わからなければ確認する、調べるということができない、しない、「確認する/調べる」という発想・行為・能力自体がすっぽりと抜け落ちてしまっているヒトが多すぎる...

「わからない」「知らない」ということを認めることをしない(できない?)人間が多すぎる。


「いま実際の目の前の事実・現在がこうなっているからこうですよね。だからこうしたほうがいいのではないでしょうか?」といった問いかけに対して、「いま実際の目の前の事実・現実・現状がこうである」というふうに正視し認識し、また、視点を合わせるということができない...のかなんなのかぽかーんとしたり押し黙ったり「なにゆってんの?この人」といったふうな目で見てくる"ヒト"が私の周囲には多すぎる。


会話が噛み合わない。


お互いの認識のズレを、できるだけ歩み寄ってすり合わせようと試みるのだけれど、
「思い込みや憶測による決めつけ」を強く信じて疑わない状態のまま思考が固着してしまっていて、他者の意見や話を聞く耳を持たない。聞いていてもそれを咀嚼し、理解しようとする姿勢(や能力?)があまりにいくらなんでもなさすぎる"ヒト"が多すぎる。


なぜ?


いったいみんなどうしちゃったんだ!?


何が起こっているんだ!?

「わからない」なら「わからない」でいいのではないだろうか?


極端な話、世の中の全ての事象を理解し、知っている人間なんていないのではないだろうか?


「わからなかった」「知らなかった」と認め、認識することで、だからこそ「わかる」ことや「知る」ことができるのではないだろうか?


「理解しよう」「知ろう」「確かめよう」ともせずに物事を判断し、失敗し、間違え、自ら諦観していくというのははたして一体どういうことなのか?


「めんどくさい」と目の前のひと手間を放棄していくことで自ら、さらにその
「めんどくさい」手間や手順を増やしてしまっており、自身がその最初のひと手間を放棄したことが原因で現状が変わらず、進展・解決しないという結果になっているというのに、
「進展・解決していないという結果」に対して不満やいきどおりをあらわにする"ヒト"。


やはり根底は「~だと"思った"」「○○だと思うじゃん?」(けど実際には違った。という事実確認を怠り予想、憶測だけでものごとをすすめてしまったことでの事実、現実との齟齬が原因での問題の複雑化と複雑化して肥大してしまった問題に対する諦観)が原因。


目の前の実際の状況・状態を「見て」判断する。仮に予測や憶測はしてもそれらが当たっているかは「確かめる」し、予想、憶測といった確証のない要素だけではものごとを判断・断定しない。というこちらがどこかおかしいのだろうか?


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