はいよりとうはと音楽 note版(Ver.18-B)
(初出:2021年1月17日(Ver.18-A))
(2021年1月24日 Ver.18-A からVer.18-B に追記・更新)
(過去にPixiv BOOTHに投稿したものを加筆・修正してこちらにもアップロードした)
音楽。「おとをたのしむ」という行為そのものが好きなのであって、だから楽器や機器に対してのフェティシズム。というのはほぼほぼなくて。
自分にとって気持ちいい、心地いいノリのなにかを組み立てたりして、鳴らし、聴く。というのが根幹なので...
そのなにか音の粒の並びの心地よさだけで、それだけあれば自分の中の「楽しい」「面白い」という感覚は十二分に満たされていく。ほかにはよけいな装飾品はいらない。といった程度には...そういった意味合いで「音楽」が「好き」だったりはする。
よって楽器、機材とかもべつになんでもいいといえばなんでもよくて。とくに機材・機器の面での「どうしてもこの機材じゃなければダメだ」といったふうなこだわりというのもとくにない。
マイク1本しかなければビートボックスをやるし、ドラムマシンしか買えなければパーカッシブなミニマルテクノをやるし、オールインワンのシーケンサーやワークステーションシンセしかなければメロディックなトランス系寄りのでも作るか...っていうふうになるし....
そのつど用意できる...買える範囲、予算の中で好きな方法論を探し、見つけ出すかあるいは既知の知識という手持ちのカードの中からカードを切ってそれをやる(打ち出す)か。
「これとこれをこうつないだり使っていくことで、こういうことができ、おもしろいモノができるかもしれない。」といったことを考えるのは好き。かもしれない。
昔...一時期機材的、ハードウェア的に見栄を張りすぎて手元の機器にばかりなけなしの金をつぎ込みすぎてコストバランス?をくずしてしまい、実際に自分の創作物を世に放つこともままならないまま終わってしまった。という経験もあったせいか、物欲を捨てたというか失ったというか、どうでもよくなってきた、モノに執着するというところに対して無気力になってしまったようなところもある。かもしれない。
いや、「無気力」というのとは違うな...そこまでネガティブでもない。
モノに執着・固執することを「やめた!」というほうがより、正確かもしれない。
大事なのは「モノ」「物質」じゃない。「物質的ななにか」のみが大事であるとは限らない...
少なくとも自分にとっては「モノ」よりも「大事なもの」があるしあった。
それを忘れかけては思い出すということを繰り返している。
「何か」に流され、振り回され、感化されそうになってはハッと気づき我に返り「あぶないあぶない」と。
実際「音楽」やるのにギター1本でもマイク1本でも打楽器・パーカッションひとつででもやろうと思えばやれるのに、高価なプロ仕様の機器・機材に手を出し、またそれらを買うために必死にバイトをする...
完全に悪手ではないかと思うし、悪手だったなぁと思う。
「バイト」という労働がしたいわけじゃない。
「音楽」が。「創作活動」が主目的...だったはずなのに。
本末転倒だし、最初はだからホント二束三文のよくわからない海外メーカーのPCDJコントローラーとフリーソフトでも、トルクの弱い安物のターンテーブルでもいいんだよな、よかったんだよなぁと...
実際とにかくパっと中古でもなんでも安物のおんぼろギターを買ってしまってずっとひたすら練習していたようなギター弾きの練習量や練習密度には勝てないし、トルクの弱いターンテーブルでテーブルをスタートさせて回転している状態で手で押さえて自分で、手動でいいタイミングでパッと手をはなして音を出していくといったようなことをずーっと何年もやっていたようなDJのスキルには追いつけない...
たとえチップチューンであろうとゲームボーイや初代ファミコン本体を片手にガンガン実際にライブ活動を堂々としている人たちもいるというのに。
ああいうふうに「堂々と」が自分にはできなかった。ヘタレだし。ビビりだし。気が小さいというか。
なにか「こうでなければいけない」といった固定観念にしばられてしまっていたし、ヘンな理論武装をしてしまっていたな。という反省しかない。
あるいは「それなりに高価で大がかりな機材」という物理的な武装。
「見栄」という精神的武装...
CDやレコード...近年で言えばネットでのダウンロード販売でとりあえずある特定のミュージシャンの楽曲を端から端まで片っ端から購入していく行為。
これも己の物欲を充足させる以外の意味もさしてないように思えてきて「不毛だな」と感じる。
大事なのは「モノ」だけじゃない。
本当に好きなのはCDやレコードに収められている「中身」であって、CDやレコードそのものを物的にコレクションすることや「こういうCDがある」という情報や知識を蓄積していくことでもない。
博士や学者、評論家になりたいというのならばそれでもいいのかな。とは思う。
が、それは「情報」や「知識」や「理論」が好きなのであって、「おとをたのしむ」という行為自体が好きだというのとは『違う』のではないかと思う。
少なくとも自分は「楽器の技術者」になりたいわけでもなければ情報屋...たとえば雑誌のライターになりたいワケでもないしなにかの学者になりたいワケでもない。
ただの「音楽好き」だし、また、そうでありたいし、そうであろうとし続けている。
あくまで主体は「音楽」であって、「なんとなくいまはやりの音楽、もしくはふだんからよく聴いていてすでに"知っている"曲が鳴っているところに集まって"お祭り騒ぎ"がしたいワケでもない。
いや「お祭り騒ぎ」が好きなのであればそれはそれで人それぞれの好みや趣向なので否定はしないしいいと思う。
ただ「人と人とのふれあい、集まりが楽しい」っていうのは、それは主目的が「人」であって「音楽」ではないよなぁ。と。
そのへんが混同されてしまっている場面も多々あるような気がする。
「音楽」がバックグラウンドの添え物になっていて、だからジャンルも傾向もバラッバラな、節操のない、一貫性のない、雰囲気だけの"BGM"がやみくもに垂れ流され、聴き流され、浪費されていくだけの、単なる器用貧乏でしかない「イベント」も多々ある...のかなぁ...?と感じる。
多岐に渡るジャンルを網羅していることが「えらい」「すごい」みたいな。
それって「自分はこれだけのいろんなジャンルのオンガクを知っている」という「知識」や「情報」を得て自己満足にひたったり承認欲求を満たしたいという行為でしかないのではないだろうか?
「知識」や「情報」が好きなのであって、「音楽そのもの」が好き。ということとは別モノなのではないだろうか?と。
「知識」や「情報」が好きなのであれば、それはそれでかまわないけども、それを「"音楽"好き」と言ってしまうのはなにかが"違う"のではないだろうか...?