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彼女の残像

プールで人魚が跳ねるのを見た。陳腐な比喩として言っているわけではないし、薬物による幻覚を見ているのでもない。バイト帰りの深夜。金網の向こう、弱い光に照らされて空中で一瞬静止したその姿は紛れもなく、
人魚だ。
シリアルキラーが獄中で描いたイラストみたいにグロテスクで美しい。
人魚は再び水中に消えた。ところで僕が最初に人魚を見たのは9歳の夏のことだ。田舎の祖母の家に遊びに行った日、裏山の泉で人魚を見たのだ。
泉といっても三畳間ほどの本当に小さなもので、泉のふちどりは腎臓とまったく同じ形をしていた。人魚はまるでお風呂にでも浸かるみたいにその小さな泉でくつろいでいた。澄んだ水の中に見える下半身は伝承のとおり魚そのもの。夏の光に青い鱗がきらめいていた。
地上にさらされた上半身は20歳くらいの女性に見えた。裸だった。
人魚は近づいてきた僕を斜めに見上げた。2秒ほど僕を観察する。それから視線をもとに戻した。何の感情も読み取れなかった。

「お母さんが病気でたいへんなんだ。もう長くないかもって」僕は前置きもなくそんなことを言った。
「ふうん」と人魚。「それを私に言ってどうするの?」
「わからない。言ってみただけ」
「私が何か不思議な力を持っているとでも思ったんでしょう」
「うん」
「それって人種差別に限りなく近い考え方だからね」
「そうなの?」
「残念だけど私には何の力もないよ。人間より少し泳ぎが得意なだけだもの。それも足にフィンをつけた人間と同じくらいのスピードだけどね」
「ずっとこんな狭い水たまりで生きてきたの?」
「まさか」人魚はくすくす笑う。「ここはたまたま寄っただけ。私は水のあるところならどこへだって行けるの。世界中のすべての水は繋がってるんだよ」
「うそだよ」
「ほんとだよ。この泉だってすべての水と繋がってる。世界中のあらゆる海、あらゆる川、あらゆる湖、あらゆるプール、あらゆる釣り堀、あらゆるいけす、あらゆる水たまり……どこだって。ベネズエラの場末の食堂のコップの水の中にだって行けるのよ。行こうと思えばね」
「でもコップは割れちゃうよね?」
「だから行かないんだけどね」
「うちのお風呂にも繋がってるの?」
「もちろん」
「だったら来てよ。うちのお風呂は広いから、そこで暮らしなよ」
「えっ」人魚は目を大きくする。「それってプロポーズ?」
「えっ」僕も驚く。「これってプロポーズ?」
「しっかりしてよ。プロポーズなんてされたら、こっちだって今までの暮らしぶりを見つめ直したりしちゃうでしょ」
「そうなの? よくわからないけど」僕は混乱してしまう。「こういうのがプロポーズだとは知らなかった」
「知らなかったでは済まされないことも世の中にはあるのよ。どんな子供だろうとね。でもきみ、さすがにまだ早いんじゃないかな?」僕の全身をじろじろ眺めながら人魚は言う。「私を満足させられるとは思えない」
何かいやらしいことを言われているような気がしたので僕は黙っていた。
「ちょっとこっちに来てよ」人魚が手を伸ばして僕の半ズボンの裾を引く。
「やめてよ」僕は一歩下がって人魚の手から逃れた。泉の底に引きずり込まれてしまうような気がしたからだ。
人魚は露骨に傷ついた表情で僕を睨んだ。
「きみがいま考えてることって、ひどい偏見だからね」
「そんな悪いことは考えてないよ」
「だったらこっちに来てよ。私の体もしっかり見せてあげるから。見たいものでしょう? 大人の女の体って。しかも人魚だよ」
「今日は帰る」言いながらすでに僕は後悔している。
「なあんだ」人魚は白けたように僕から視線を外すと、もうこちらを見ずに、軽く右手を振って見せた。
透明な水面に揺らいで映る裸の胸を目に焼き付けてから、僕は山道を下った。おとぎ話なんかによくあるように、それから何度山をさまよっても、二度と人魚のいた泉を見つけることはできなかった。

人魚と会った日を境に、僕の中の何かが決定的に変化してしまった。あえて偏見に満ちた言い方をすれば、人生の最初に人魚なんてものに恋をしてしまったから、僕の中の一部分が正常に進化しなかったのだと思う。
たとえば僕が何かを思考するとき、その瞬間に脳内で起こる電気的な閃きのなかに常に人魚が存在している。それがどんなに人魚と無関係な思考であろうと。僕が何かを思えば、いつも人魚はそこにいた。何も言わず。ただ微笑んで。今となってはあどけなく思えるあの顔で。
取り憑かれるというのは、こういうことだと思う。

そして今だ。あの日の祖母の家から10年と1200キロ離れたプールで僕は再び人魚を見ている。母も祖母もあれからすぐに死んでしまった。19歳になった僕は古くさい青春映画みたいに金網のフェンスをよじ登ってプールに侵入する。僕とは縁もゆかりもない中学校のプールだから、もし誰かに見つかって咎められたら言い訳もできない。それでも人魚を探す。暗い水面を見つめる。波がざわめいて予兆めいたものを感じる。かすかな水音。飛沫が上がる。月明かりに青い曲線が浮かび上がる。
人魚が再び跳ねたのだ。
それからいったん水に潜った人魚は、泳いでプールサイドの僕のそばに寄ってきた。水面から勢いよく顔を出す。長い髪を揺すって水を払う。一連の動きがとてもなめらかだ。ようやく動きを止めた人魚は、ゴーグルを外して僕を見た。ゴーグルなんて10年前はしてなかった。胸もとも薄いブルーのビキニで隠れている。

「久しぶり」僕は人魚の目の前にかがみ込んで言った。
「そんなに久しぶりかな?」と人魚。まつ毛から水滴が落ちる。
「10年も経ったよ」
「年寄りだから10年くらいあっという間なんだよね」
「年寄りには見えないよ」
「まあ見た目はね」
「うちの風呂に来なよ。来るだろ? ずっと待ってたんだ」
「やだかっこいい」人魚は口もとを両手で覆う。
「風呂だけはきれいにしてあるんだ」
「なにそれ」人魚は少し笑って、両腕を僕に差し出した。「じゃあ連れてってよ」
「え? 水から水に移動できるんじゃないの?」
「もうそんなことはできないんだよ」人魚は寂しく笑う。「若くないもの」
ということは、このプールにも誰かに連れてきてもらったのかな。僕は少しそいつに嫉妬してしまう。苛々する。
身をさらにかがめると、人魚は僕の首に両腕を巻きつけてきた。ぞっとするほどつめたい身体だ。僕のTシャツはすっかり濡れてしまった。人魚を水から引き剥がして、いわゆる「お姫様抱っこ」の姿勢で抱え上げる。
僕の腕のなか、人魚の身体は抑えた色調で艶めかしく輝いている。
夢みたいだ。
「もう子供じゃないんだね」人魚は僕の耳を軽く噛んで、それから厚い唇を僕の首に押しつけてきた。森の奥の澄んだ風の匂いがする。僕は鍵のかかっていなかった更衣室を通って、プールの敷地から出る。それからずぶ濡れの人魚を抱えて夜の街を走った。
そのときの街の様子を表現しようにも、そこらじゅうが手垢にまみれたレトリックで汚されているのでさわりたくもない。手垢にまみれた、という表現だって手垢だ。この街で僕と人魚だけが特別に思えた。
したたる水滴とともに人魚がちょっとずつ弱っているような気がする。
僕は走る。
かなりの力仕事で、息は荒い。
「のど乾いた。いろはす買って」途中で人魚のおねだりに応えて自動販売機でいろはすを買う。
僕に抱えられたままいろはすを口にする人魚。ごくごく飲むたびに白いのどが蠢く。口からこぼれた水が胸もとに流れ落ちる。濡れた部分が街の光で葡萄みたいに妖しくきらめく。うすいブルーの水着。その下に隠された乳房を僕は想像する。10年前の記憶に頼る必要がもうすぐなくなる。
僕は固い地面をしっかり蹴って走った。
人魚は腕の中で少しずつ溶けている。
一人暮らしの僕のアパート。その小さな浴槽。裸で抱き合う僕たちの姿を思い描く。
「焦る必要はないよ。いろはすを飲み過ぎて死んだ女はいないんだから」と人魚はまるで見当外れのことを言った。
人魚の身体が少しずつ温まってゆく。
腕の中にいるのは本当に人魚だろうか?
僕は走りながらだんだんと不安になる。
「あのとき私を殺してその肉を持ち帰らなかったから、きみのお母さんとおばあさんは死んだんだよ」いろはすを口に含んだまま人魚が言った。僕は聞こえないふりをする。
「プロポーズの返事、聞かせてよ」
僕の言葉に反応はない。僕も腕の中に抱えているのが何なのかを確認しない。僕の人生はすべて陳腐な比喩なのかもしれないし、薬物による幻覚なのかもしれない。
僕の走るスピードが上がる。人魚がどんどん軽くなる。僕の家が見える。あと10メートル。9メートル。8メートル。
7、6、5、4……。
耳もとで人魚がささやいた。
「心配しないで。溺れそうなだけ」
だけど人魚の体重はもうほとんど感じない。
僕は自分がどこから間違えていたのかがわからない。
あと1メートル。
なのにまだ記憶に頼っている。


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