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あのクラクションで世界は

世界の終わりのようなクラクションが鳴り響く。
世界が終わる合図のような、世界を力ずくで終わらせにかかるような、世界そのものの断末魔のような。
あるいは世界の産声のような。
非現実的な音量のクラクション。
その音は確かに世界にひびを入れたのだと思う。
あのクラクションの前後で世界は少し変わってしまった。
私のコートの色はもうちょっと品の良いブラウンだった気がするし、彼女の髪はもう少しゆるやかに波打っていた気がする。
真夜中の都市は明るいけれど、それぞれの光はさっきよりも孤立していた。
結局のところ私たちは一人一人でしかない。
結局のところ。
「結局のところ孤独って何だろう」と私はきいた。
「戦術的撤退。あるいはスパリゾートハワイアンズ」と彼女は答える。「単なるその言い換えにすぎない」
「孤独が?」
「孤独が」
クラクションが鳴る前の彼女だったら、はたしてそんな言い方をしただろうか。
私の耳には、まださっきの残響がやまない。

二人で信号待ちをしていると、彼女が身じろぎをした。コートを脱ごうとしているのだ。前をはだけると、それだけで白い胸もとがあらわになる。こんなに寒いのに。
「べつに寒くない」と彼女は言った。「寒がりだなんて思わないで。汗、かいてるんだから」
彼女はコートをすっかり脱いでしまう。黒いビキニ。生々しい水着の女の子は、つめたい夜の都市に驚くほどなじまない。それゆえ彼女のための都市だという言い方すらできそうだった。神話的事実というやつは、たぶんこんな夜に生まれてしまう。
彼女の黒い水着は夜と同化して、彼女の白い肌は光を反射している。まるで水着と体が逆方向に進もうとしているみたいに。
彼女の髪はいつしか黒く、いまや瞳も真っ黒だった。
その部分は夜に少しずつ溶けだしていく。
これは誰だ?
さっきまでと同じ女か?
「みんながみんな、桂馬や飛車の動かし方を知っているという前提で世界が進むのには、もううんざりしてるんだ」と水着の彼女は言った。「一度も将棋の駒にふれることなく死ぬ女だっているというのに」
「まあねえ」と私は曖昧な返事をする。
「あのさあ」彼女の目つきが鋭くなった。「歌っても良い?」
べつに良いけど……と私が許可を出す前に彼女は歌い出した。
この夜、彼女が放ったすべての言葉を歌詞にして。
不気味なくらい陽気なメロディ。鼻にかかった小さな声。一度も将棋の駒にふれることなく死ぬ女だっているというのに。信号の色が変わって、私たちはその色に染まる。
私は桂馬や飛車の動かし方を知っているだろうか。それを学んだことがあっただろうか。そのルールは今もクラクションが鳴る前と同じだろうか。
彼女の口から漏れる歌の一音一音が、憂鬱なスキャンダルのように私の血液を揺らす。

横断歩道を渡るあいだにも、一歩ごとに彼女が夜の闇に消えそうな気がして、私は怖くなり、思わず彼女の手を取った。そのときに二人の靴が見えた。
私の靴はベージュ。彼女の靴は黒い。
どちらも高いヒールで、体は地面から遠かった。
何もかもがそのせいかもしれない。
彼女は全身にうっすら汗をかいている。手も湿っていて熱い。正確に彼女の吐いたぶんの息だけが白くて、魔法みたいだと思う。彼女の体を私のコートに包んでしまいたいと思う。私もビキニを着ていたら良かったのに。水着の肌に、彼女の汗ばんだ肌をくっつけてみたい。
世界の終わりみたいなクラクションがまた鳴り響いた。
身も凍るような鋭さで、無慈悲なまでにうるさく、絶命しそうなほど長い。
クラクション。
世界が裂けはじめる。裂け目から誰かがのぞいている。暗い目つきの誰か。それは彼女の中身だったものかもしれないし、これから彼女になるもの、かもしれない。
誰でもよかった、
とか、
誰でもいい、
とか、
そういう暴力的な気持ち。
そういう気持ちに飲み込まれそうになる。
頭痛がする。目の奥が痛い。気分が暗い。
彼女はまだ歌い続けている。
「戦術的撤退。あるいはスパリゾートハワイアンズ。日没の残り火。壊滅的な土曜日。溶ける氷の分子挙動。悲惨なユーモア。不協和音のギターリフ」
か細い歌声。陰気なメロディ。
すべてをかき消すようなクラクションの音は、歌の背後でずっと鳴り止まない。古いクラブミュージックの記憶のように。
私は彼女から手を離して、自分の両耳をふさいだ。
彼女には何も聞こえていないみたいだ。


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