不揃いなマトリョーシカたち①「目覚め」
※男体の中に女性の精神が入っています。ご注意ください。
目を覚ました時、そこが病院だと理解した途端に絶望に襲われた。
自分は死ぬことに失敗したのだ。あれだけの勇気と希望を振り絞って川に飛び込んだというのに、死ぬことができなかった。まだはっきりとしない視界の中で、「自死は知識が必要だ」という言葉を思い出した。数ヶ月前に飛び降り自殺を成功させた人だった。確実に死ねる方法を知らないと、中途半端に生き残ることになる。泳ぎが全くできず、一月の寒さの中、真っ暗な川に飛び込んで生き残るとは夢にも思わなかった。
また、あの地獄のような日々が始まってしまう。今も外面のいいあの人はベッドのそばで苛立ちながら座っているのだろうか。医師や看護師には心配しているふりをしながら、こちらには怒気を孕んだ顔を向けているのだ。
まだ頭痛がする。飛び降りた時に水面に強く頭を打ったのかもしれない。「う」と唸ると、いつも以上に低い声がでた。まるで別人のようだ。
身体は動かないが、舌は自由に動ける。だが、声帯はうまく働かない。いつもの癖で八重歯を舐めようとした。だが、違和感があった。舌先で舐める歯の裏側がおかしい。水面に衝突した時に歯が歪んでしまったのかと考えたが、それにしては綺麗に並んでいる。鏡で歯の並びを見たくなったが、そばにいるであろうあの人に伝えたところで鏡を持ってきてはくれないだろう。諦念を抱きながら、あの人の気配がするベッドのそばに視線を移した。
白い壁を背に浮かぶ黒い人影が、こちらに気がついたのか立ち上がって顔を覗き込んできた。顔が近づくと、ぼんやりとした視界に相手の顔がはっきりと映った。
それは、あの人ではなかった。
知らない誰かが心配そうに見つめている。
「おい、大丈夫か」
川に落ちた自分を助けてくれた人だろうか。それにしては、目が覚めるまでついているものだろうか。世間の常識をあまり知らないので、確証が持てない。だが、怪訝な視線を向けていたことが相手にも伝わったのか、表情が不安から怪訝に変化していった。
何かを確かめるようにじっくり瞳の奥を覗き込み、スッと顔を離す。
「お前、誰だ」
知らない誰かは、そう言った。
目が覚めたことを知った医師や看護師たちが集まってきたため、知らない誰かは部屋の端へと追いやられた。医師から名前を確かめられたが、異常な雰囲気を察して何も言えずにいると「一時的な記憶喪失かもしれません」と勝手に診断された。
「新谷さん、新谷亨という名前に覚えはありませんか」
初めて聞く名前だったため、小さく首を横に振った。筋肉を動かすと連動して全身に痛みが走り呻いてしまう。その声もまた、狼のように低い。
医師は何か考えるそぶりをして、ちらりと部屋の隅に追いやられた知らない誰かを見た後に「では、加瀬利一さんの名前はわかりますか」と問うた。医師のそぶりからして、あの知らない誰かの名前であることは察したが、知らない人なので首を横に振った。医師は納得したように頷き「今は事故に遭われて混乱しているせいでしょう。少しずつ記憶は戻りますよ。大丈夫」と安心させるように私の肩を叩いた。
事故、と医師は言った。事故として扱われているのだろうか。医師は加瀬利一と何度か会話を交わした後に出ていったため、質問することができなかった。
「記憶喪失ねえ」
加瀬は再びそばに戻ってくると、私の頬を指先で撫でた。その撫で方は知っている。愛情のこもった、優しい撫で方だ。もう、遠い過去の記憶となっていたが。
「顔に擦り傷できてら。ま、男前が上がったんじゃねえの」
視界がまだぼんやりとしているが、どうやら笑っているらしいことはわかった。
加瀬は私のこと知っている。
私を男前だと言った。
つまり、私は男ということだ。
だが、私は加瀬を知らない。
いや、この肉体すら知らないのかもしれない。
痛みを堪えて、点滴の針が刺さっていない右手を上げた。
見知らぬ手がそこにあった。
節が角張った、大きな男の手。
その知らない手で、自分の顔に触れる。
知らない感触、知らない唇、そして、あるはずのない喉の突起。
「そこまで酷い怪我じゃねえよ」
顔を探る所作を怪我の具合を心配していると思ったのだろう、加瀬が言った。
「脚は骨折らしいがな。脳みそも大丈夫らしい。数日で退院だってよ。まあ、しばらくは家でのんびりしたらいいんじゃねえか」
安心したら吸いたくなってきた、と言って、加瀬は煙草を胸ポケットから取り出して部屋を出ていった。
加瀬は安心したらしいが、こちらは全く安心できていない。
私の持つ記憶と、この肉体の記憶が違うことには気がついた。できれば顔を見てみたい。少し頭を動かしただけで頭痛がしたが、ベッドのすぐそばに洗面台があることに気がついて身体を無理やり起こした。しかし、身体にカテーテルや心電図などの機械がついており身動きが取れない。洗面台は諦めて辺りを見回すと、サイドテーブルにスマホが置いてあった。スマホを所持したことはないが、カメラ機能はあったはずだ。スマホを手にとり、あちこちボタンを押してみると勝手に指紋認証が反応しホーム画面を映し出した。カメラのアイコンをタップして、自分を撮影する。
画面には、見知らぬ男が写っていた。さらに近づいてみると、加瀬の言ったように確かに男前ではある。頭に包帯が巻かれて、顔にはガーゼが貼られているが、それでも筋の通った鼻やくっきりとした黒い瞳が印象的だ。
そうだ、スマホに過去の画像があるのではないか。と思いつくが、あちこちタップしてみるもゲームやメッセージアプリが開くばかりだ。そうこうしているうちに、加瀬が喫煙タイムから戻ってきた。
「スマホの使い方は覚えているのか」と聞くが、私は首を横に振った。
「そうか、というかまともに見えんだろ。後で眼鏡持ってきてやるよ。コンタクト派のお前は嫌がるだろうが」と言ったところで「そうか、今は記憶がないんだったな」と納得して椅子に座った。消毒薬の中に、煙草の香りが混じった。
加瀬は少し間を空けてから「記憶ないところ悪いんだが、その、ハグしてもいいか」と聞いた。この身体の持ち主の意向がわからないため迷っていると、加瀬は「すまん」と断って勝手に抱きしめた。この身体を強く抱きしめ、後頭部を優しく何度も撫でた。不思議と撫でられると頭痛が治るので、ずっと撫でていてもらいたい。加瀬の腕の中は居心地が良く油断していた。加瀬は身を離すと、顔を近づけてきた。麻酔が聞いた身体でも、加瀬のカサついた唇の感触はしっかりと伝わってきた。何度か啄み、唇から離れ、頬を擦り合わせ、そしてまた抱きしめる。
この身体と加瀬は、恋人同士なのだろうか。「すまん」と言ったのは、恋人という記憶がないのに勝手に触れたから謝罪したのだろうか。
「亨、生きていてよかった」
絞り出すように、加瀬は言った。
それだけで、この身体がこの加瀬に愛されていることがわかり、今の自分が本当の亨ではないことに罪悪感が生まれた。もし、本当の亨ではないことがバレてしまったら、どうなってしまうのだろう。
罵倒され、殴られるのかもしれない。勝手に身体を使ってしまったことに憤怒するだろう。私は途端に恐ろしくなり身体が震え出した。
なぜ、あのまま死ねなかったのだろうか。もしかすると、本当の私の肉体は死んでしまい、この肉体の主の魂と入れ替わってしまったのかもしれない。なぜ、そうなってしまったのか。なぜ、私だったのか。
私が、この無駄な命を誰かのために使うことができたならと、願ったせいか。誰にも言わず、ただ、毎晩のように布団の中で願っていただけだったのに。
「ごめ……」
私は、この肉体の声帯を一生懸命に使おうとした。
「ご、めんなさい」
加瀬さん、ごめんなさい。亨さん、ごめんなさい。
私がちゃんと死ねなかったばかりに。
中途半端に生き残ってしまって。
川じゃなく、もっと確実な方法で死ぬことができていれば。
私から身を離した加瀬は、目を大きく見開いていた。
そして、彼はこう言った。
「お前、誰、だ」