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俳句夜話(7)幻想俳句集団「む」主宰、流智明のこと その二

さて、幻想俳句集団「む」、のちの「む印俳句」の、8年に及ぶ句会の中から秀句を紹介したいのだけど、もうひとつ前説を。

主宰していた流さんにはひとつ問題があった。理屈っぽいとか女好きとか飲む量の競争をしたがるとか、問題はいろいろあったが、これらはご愛嬌の部類で、リクツっぽいのは東大哲学だから致し方ないし、私もそうだから、まあいいとしておくとして。
そういうことじゃなくて、大きな問題とみんなが見なしていたことがあった。本人はどれほど自覚的だったかはわからないのだが、俳句が、下手だったのだ。

どう、下手か。ここに並べてみよう。

行けども行けども行けども交わらず

ロビンソンにとって孤独とはなんだろう

憎しみの三千ボルトで薔薇焦げる

ヘーゲルが厠でうなり便小放

反重力 一万斤の河馬跳んだ

笑い茸喰った河馬ガバガバ嗤う

数の子噛む 一万粒の命噛む

夜桜や恍惚の日に虚無の夜に

虫騒ぎ無明長夜を這う指か

向日葵(ソレイユ)は呵呵大笑の花なりき

これらは、同人が集まってアンソロジーを自費出版したときの流さん自選の句。

「行けども」は、流さんが15人中初っ端だったので、本一冊の中のトップに位置したもの。刷り上がってきたのを見開いた瞬間、私は脱力した。忘れようとも忘れられない。

「ロビンソン」はその二番手。なにかのタイトルにすればよかった。俳句でもなければ川柳でもない。詩ではない。

「憎しみ」は鑑賞しようがないし、「ヘーゲル」はダジャレ以下、河馬はどういうわけだか世の俳人は大好きでよく出てくる動物のひとつなのだけど、両方ともひどい。反戦の俳人の有名な俳句に「海ゆ河馬」っていう上五があって、よほど対抗したかったのかもしれない。

「数の子」は、本人は一世一代の名句と言い張るのだが、たしかに良さそうなのだが、評判はとれなかった。だからなんだといわれる典型的なものだからだろう。

「夜桜や」は昼だか夜だかわからない。恍惚はまだしも、虚無はダメだろう。このほかにも存在感とか全否定とか思惟とか、そういった言葉を使いたがったが、イメージを結ぶことは難しかった。

「無明長夜」とか「呵呵大笑」とか、みんなはこういう言葉を使えないだろう?と自慢げにいうのだったが、強烈な熟語や大きな言葉でのなぎ倒しは、詩情から離れやすいということは、「大きな言葉を使うな」で言った通り。

いまという寿限無々々々の絵空事

まぐわいは無季の動作だヒト科の子

停電三日ファミコン不能で首を吊る

この3句は、歳時記に載っている俳句である。編纂は金子兜太、夏石番矢、黒田杏子のお三方。

歳時記と言いながら、無季の項目が割かれていて、その中に「いま」「動作」「ファミコン」という題があり、頼まれて書き下ろした(詠み下ろした?)俳句である。「寿限無」はいいとして(どういいのかわからないが)、「まぐわい」句のとなりには

消しゴムは投げ捨てていく初潮の日

という私の俳句があって、ちょっとした自信作だったのだが、台無しな気分を味わった。並んでいるだけだから同人とは思われまいと変な安堵をしたことを思い出す。

「停電三日」はおそらく、古今の歳時記中、最低記録を更新した俳句にちがいない。選んだ夏石番矢さんには今でも文句を言いたい。

かつてのウイーン子たちはブラームスについて、なんにも浮かばないんだよ彼は、と揶揄していたという逸話はおそらくのちのちの創作だとおもうが、よく我々はこのエピソードを持ち出して、流さんについて議論をした。


浮かばないなら作るな、写生、花鳥諷詠、身辺雑記などの、浮かばなくても作れる姿勢や考え方を、なにより嫌い、全否定していたのは流さん自身だった。同様に、写真を趣味とする人を極度に嫌った。シャッターを押せば撮れるんだからと。その構造自体が創作の覚悟を減じる、子規の提唱した写生俳句は写真と同じだ、そんなものは何万句作っても意味がないと、あちこちの伝統系俳人や現代俳句協会とも喧嘩をはじめ、紙面上での議論に発展することまであった。
(浮かばないけど作れること、これがすごいではないか。これが俳句なのだとさえ、私は考えるようになった。このnoteにもそういう主旨で書いていくつもり)

ゆうに一万冊に及ぶ蔵書に囲まれて、流さんは自分が何を思いついても、せっかくのそれらのイメージが、既存の言葉のなにがしかに強力な磁石のように吸い寄せられひっついてしまう。そんな感じだったのだろうか。

既存のイメージを使って成功したものも中にはある。

大地に五線
死体の音符で
「歓喜の歌」を

虎の尾を踏んでしまった 虎死んでいた

葱千本きざむ尼僧の汗みだら

結構な人生でした 靴一足

「靴一足」は辞世の句にも読める。
ただ、彼の家財道具を片付けた経験から言わせてもらえば、靴だけで30足はあった。それもすべて黒で同じ型のものが何足もあり、スラックスもシャツも同様だった。シャツ以外は全身いつも紺から黒までで統一されていた。

そう、彼はとことん抽象的な人間だったということなのだ。

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