【映画】『ミッドサマー』感想 〈オカルト〉の宝石箱や ※ネタバレ無し
2019年7月に全米公開のホラー映画『ミッドサマー』(Midsommar)を見てきました。面白かったので感想書きます。
※2020年2月日本公開が決定しました。それに合わせてタイトルを『ミッドサマー』に変更しました。原題のスウェーデン語だとどう聞いても「ミッド“ソ“マー」にしか聞こえないんだけどな・・・。
予告編が公開されてからずっと見たいと思ってました。というのも、前作で『ヘレディタリー/継承』というめっちゃ怖い映画を作った監督の最新作だからです。
『ヘレディタリー/継承』の感想も書いてるのでそちらも良かったら読んでみて下さい。→【映画】『ヘレディタリー/継承』は超怖いよって話※ネタバレ無し
前作を見て思ったのですが、このアリ・アリスターという監督はホラー映画を作る上でとても特異なポイントを攻めて視聴者を苦しめるのが得意なようです。
それは「不気味」「スリル」「グロ」というようなホラー映画定番の要素ではなく、「不安」「不快感」「苦痛」です。
見終えた後、シャワーを浴びてると背後が気になるような怖さではなく、シャワー浴びてる時突然嫌な記憶を思い出して「あー」とか声が出てしまうような怖さです。
よく分からないですね。要するに、「怖かった」というより「嫌な思いをさせられた」という心象が残るのが前作のヘレディタリーという映画でした。そのせいで「見る人によってはトラウマが残る/蘇る」「もう二度と見たくない」といった感想が他の視聴者からも寄せられてるようです。
しかしあの映画のそんなところが大変気に入ったマゾの僕は「とても不快」「精神的に弱ってる人は見ない方が良い」などと前作同様に評価されている本作を大変期待して見に行ったわけです。
とりあえず先に簡潔に感想言っちゃいます。
『ヘレディタリー』ほど怖くはなかった。
「緊張感」や「不安感」といった精神的な攻撃力も前作と比べると低めです。
しかし、それでも、良かった。とても良いホラー映画でした。
良かったと感じたののひとつに「監督が見せようとしてる恐怖がより明確で分かりやすくなった」という点があります。
演出、画の構成といったこのホラー監督の持ち味・キメ技が存分に発揮されていました。
特に開始20分。前作『ヘレディタリー』同様、超絶鬱展開で始まる本作は、「この映画でもお前らを苦しめてやるからな」という監督からの宣言が聞こえるようでめっちゃテンションが上がります。音楽もクールです。
しかし『ヘレディタリー』と同要素だけで比較してしまうと、どうしても軍配は前作に上がってしまいます。よって着目すべきは本作の新要素です。
ここからは、本作『ミッドサマー』の恐ろしさ・魅力について極力ネタバレになりそうなことを避けながら、ご紹介したいと思います。あらすじについては、予告編を見れば大体分かると思います。
このホラーの設定―カルト村のカルト連中に恐ろしい目に合わせられる、というの自体は珍しいネタでは無いと思います。映画だと『ウィッカーマン』に似てます。
そんな『ミッドサマー』の怖さ&魅力を次の3つにまとめてみました。
①心理的な緊張・不安
『ヘレディタリー』では家族の中にある緊張と不安が描かれていましたが、本作で現れるのは恋人や友人関係の中にあるものです。
例えば物語序盤の、主人公ダニと恋人のクリスチャンが話しをするシーン。
ダニに黙ってスウェーデン旅行を友人達と企画していたクリスチャンに対し、ダニの不快感がキリキリと漏れ出します。しかしクリスチャンは逆ギレしたりせず、静かに「アイム・ソーリー」と謝ります。
それに対してダニは言います。「別に行くなって言ってるんじゃないの。ただ教えて欲しかっただけ。それだけよ」「別に怒ってないから」「ソーリーって言ってるけど、それ『ごめんね』のソーリーじゃないよね」・・・。
とにかくリアルなのです。
これ以外にも、アニ個人の精神的不安、それゆえに彼氏に過依存気味になっていること、それを良くないと思っている彼氏の友人とアニの間にある微妙な空気・・・。
これらを「あるある~」と笑い飛ばせるか、あるいは個人的な経験が呼び覚まされていたたまれない気持ちになるかは、見る人次第だと思います。いずれにせよ、この緊張感の生々しさが、視聴者の共感覚を引き起こします。この映画を見る者は、登場人物の心理的ストレスを一緒に受けるのです。そして”あるショックな出来事”によって、一気にトラウマが刷り込まれます。物語が第三幕に移る頃には、視聴者は既にアニの気持ちになって苦痛に追われ続けるのです。
これは前作『ヘレディタリー』でも顕著な恐怖でしたが、本作でもその「嫌らしさ」は発揮されています。でもこの点は『ヘレディタリー』の方がより効果的だったかな。
しかし、ひたすら苦痛が積み重なっていく前作とは違う魅力が本作にはあります。それは、どこかに救いは無いのか、何かしらの解答があるのではないかと画面の中の世界を一緒に彷徨ってしまうような、奇妙な感覚です。
深い苦痛を負った主人公が訪れたのは、花と神秘の世界でした。そこで目にするのは、奇妙ではあれどどこか美しい光景です。それらが、今まで蓋をすることしか出来なかった苦痛に対して「何かしらの意味を与えるのでは」という予感を与えます。
それが一体何なのか、最後に主人公を待ち受けるのは絶望なのか、救済なのか。ここで抱く感情はハラハラドキドキのスリルではありません。影のようにつきまとう不安です。この映画は、いわゆるベタなホラーの「記号」を使ってではなく、ある意味、美しい「記号」を使って独特の不安感を煽ってきます。
②新しい、美しい恐怖の「記号」
ホラー映画というものは、恐怖の「記号」をちりばめているものです。
それは人に「怖いもの」という認識を呼び起こすためのお約束というか、合図のようなものです。
ホラーというのは、そういった記号を並べ組み合わせることで、見る者へ恐怖のサインを送っています。そういった記号(サイン)に触れながら育った僕らは、それらを見るだけで反射的に恐怖の感覚を呼び起こすようになっています。
例えば「鏡」。鏡というのはありふれた只のモノですが、ホラーという文脈に置かれると「あー何か怖い。これ、後ろに何か映るやつだ。鏡怖い」という風になるわけです。つまり「鏡」は恐怖の記号なのです。
こうした典型的なホラーの記号は『ミッドサマー』でも利用されています。しかし、本作はそれだけに頼っていないのです。むしろ、これまでホラーとは無縁だった品々を使って見る者の精神を蝕みます。それは煌めく太陽であり、鮮やかな花々であり、乙女の透き通るような肌であり、美しくて可愛いキラキラしたものたちです。
もちろん、こうしたものが恐怖の記号となるのはホラーストーリーという文脈があってのものでしょう。お花の冠を被り、可愛い衣装を着て踊り戯れる少女たちの姿は、それだけで恐怖を呼び起こすものではありません。
しかし「怖い話だから、怖く見える」というだけの話ではありません。これらキラキラしたモノが怖いのは、この物語が〈オカルト〉だからです。これらキラキラした記号たちは単に怖いと思わせるための道具ではなく、〈オカルト〉としてのシンボルであり、非日常性・異常性の象徴なのです。
③映画としての〈オカルト〉
この物語はスウェーデンの人里離れた山奥にある、小さなコミュニティーが舞台となっています。
そこに住む人々は世間の常識とはかけ離れた暮らしを送っていました。彼らの生活の中心には、いわゆるペイガニズム(自然崇拝)とも呼ばれるような独特の信仰があったのです。とは言ってもニューエイジやヒッピーコミューンのようなものではありません。もっと古い、彼らだけに伝わる伝承と秘儀を代々守り続けているのです。
さらに主人公たちが訪れたのは90年に1度の夏至祭――彼らにとって非常に重要な儀式の時期でした。主人公たちはその儀式を共に体験していきます。しかし、それはこの映画を見ている私たちも同じなのです。めくるめく奇妙な儀式、まじないとシンボル――それらは全て、物語の登場人物たちにではなくこの映画を見てる私たちに対して、明らかに意図的な構造を持って差し向けられているのです。
先ほどシンボルと書きましたが、この映画は大量のシンボルで溢れています。それは一瞬見ただけでは分からない、あとで見直して気づくような暗喩――つまりメタファーです。
実際にYoutubeなどではそれらメタファー(隠しメッセージ)を読み取り分析しようとしてる動画が沢山上がっています。
僕個人としては、そういったメタファーがどんな意味を持っているかについてはあまり興味がありません。しかし、この映画が見る人によって色々な意味を見出せる、そのための仕掛けをいくつも散りばめていることだけは疑いようがありません。そういった意味で、この映画は〈オカルト〉を扱った作品と言うよりは、作品そのものが〈オカルト〉的なのです。
物語のあらすじだけなぞれば、「やべーカルトの連中にやべー目に合わされる」というそれだけの話になりえます。しかし、主人公たちと同化することで緊張と不安を抱き、様々に奇妙な「記号」とシンボルを浴びせられることで、この映画の〈オカルト〉は独特なシリアスさを帯びてきます。
見る人によっては、自分の人生に何かしらリンクするものがあった人は、映画の筋書き外のプレッシャーを受けるかもしれません。あるいは、何かしらのインスピレーションを受ける人も。しかし、誤解を恐れずに言えば、この映画は何かしらのメッセージを持った作品という目ではなく、「ホラー」として純粋な作品だと思います。もちろん、この作品にただ「怖い」「不気味だ」という感想以外のものを抱く人もいるでしょう。そうだとしても、むしろそのように見えた時こそ、この作品を極めて〈オカルト〉的なものにするのです。
僕の考える〈オカルト〉とは、超自然的なもののみを指すのではありません。〈オカルト〉とは、メインストリームで信じられているもの・受け入れられているものからの逸脱です。世の中の当たり前に対する疑念・疑心、その隙間にそっと忍び寄り、形を作り、あわよくば「答え」を与えようとするもの、それが〈オカルト〉です。
そういった意味で、この『ミッドサマー』という映画は、僕のようなオカルティスト(?)にとってまるで宝石箱のようにキラキラした作品に映りました。特に終盤からラストにかけてはニヤニヤが止まりませんでした。
それではこの作品に込められた〈オカルト〉は一体どのようなものなのか、僕はあえて言語化したくないと思います。感覚的なあいまいさが魅力だと思うからです。それはまるで、秘密の儀式で口にした幻覚キノコがもたらす神秘体験のような、恐怖と快楽が一体となったような感覚を楽しみたいから。食べたことないけど。
以上、映画『ミッドサマー』の感想でした。