外の人
温くなったコーヒーを啜りながらパソコンの中の見積書を眺めていた私は、実際はその中の木材の単価が安いか高いかなんてこととは全く関係ないことを考えていた。
「もし今この場で、私が奇声を発したらどうなるだろう」
午後15時を回ったオフィス内には、私含め10人ほどの社員がパソコン画面に向かっていた。
営業の人間は半数の5人くらい外に出ており、残っているのは同じ購買部のシマに机を並べた関根を除くと設計の人間が3人に業務管理の女性スタッフくらいだ。
たまたま電話にでている者もおらず、皆午後の気だるい空気の中皆もくもくと自分の作業に集中している。
つまりここで私が大声を出せば、確実に全員に強烈な驚きを与えられるということだ。
さらに私は考えた。どのような声を発すれば皆に一番ショックを与えられるだろう。単に「うおー」だとか「わあ」だとか叫んでも、最初は皆びっくりさせられるだろうが、「何か大変なことが起こったんだろう。だからビックリして大声を出してしまったんだな」とすぐに脳内で処理し、少し間をおいてから、「飛田さん、どうかしたんですか?」と心配して私に声をかける者も出るかもしれない。
そうではないのだ。もっと一瞬で、周りを戦慄させ硬直させるような声、奇声でなくてはだめだ。周りがどう頭をフル回転させて状況理解に努めようとも、「こいつはキチガイだ」としか認識できないような、常軌を逸した行為でなければ。
「きえー」とか「うぴょー」とか、とにかく甲高い声で叫んでみるのがいいかもしれない。
あるいは「きひひひひひ」とか「おひょひょひょひょ」と突然笑い出すのはどうだろうか。
いや、それではだめだ。突然笑い出すなどあまりに安直で凡庸すぎる。何かの真似事だ。
何か言葉を叫んでみるか。「バナナ」「加湿器」「ジェニファー・ロペス」「コソボ紛争」、頭に浮かんだ言葉を並べてみる。
「全自動ゴリラ人間」「加圧式モルヒネ弁当」「青髭中学生マサル」・・・。
だめだ、だめだ。一発ギャグみたくなっている。私が想像しているのはコントのワン・シーンではないのだ。第一、急に何かを言ったって誰も聞き取れるはずがない。
ふと、「もわー」というのを思いついた。高い音ではなく、中から低めの音域で、まのびしたように発するのだ。
なるべく顎を落とし口の中で響くようにして、カエルだかウシだかの鳴き声のように「もわーもわーもわー」とゆっくり連続的に発し続ける。なかなかこれは良いのではないか。
一瞬皆、何か変わったアラームの音か何かと勘違いするだろう。しかしその音は、まぎれもなく自分と同じようにイスに腰掛け画面の中でエクセルをいじったりメールを打ったり稟議書を回したりしているはずの同僚から発せられているのだ。
その時余計な身振り素振りはつけないようにしよう。変なポーズを取ったりあらぬ方向を見つめたりするのは余計だ。
あくまで普段通りの姿勢で、おかしなことなど何もないかのように平然と、なるべく大きな声で、「もわーもわーもわー」と機械的に発声し続けるのだ。
音の発信源が私だと気づいた時、皆固まるだろう。異常さと不気味さに引きつるに違いない。しかしそのうち部下の関根などが、「飛田部長、どうしちゃったんすか!?」と、目に怯えを含みながらもいつも通りの悪意のない笑顔で私に話しかけてくるかもしれない。
その時、その時私は、どうするのが良いか。関根に何かまた意味不明なことを言い返すべきか。それともおもむろに立ち上がり、また「もわー」と言いながら室内をうろうろ歩き回るべきか。いやいや、この場合はトゥー・マッチだ。やはりここは、「うん、どうした?」と、まるで何も無かったかのように逆に聞き返すのが、一番良い。一番気ちがいじみている。その後は、その後はどうするか……。
続けて考え出すと、やっぱりいまいちな気がしてくる。インパクトというか、キレにも欠ける。「奇声」という、「声」という条件に縛られているのではないか。
色々考えた結果、次の結論に至った。まず「ちゅっ」と大きい声で言う。パソコンに向いたまま、口をとがらせ、また「ちゅっ」と言う。口先の炸裂音ではなく、喉からはっきりと「ちゅっ」と発声するのだ。その時点で、付近の人間の注目が私近辺に集まり始める。
一体何の音だ、何かの空耳か、と私周囲にキョロキョロと目を配る同僚をよそに、私は普段通り仕事を続けながら「ちゅっちゅっ」と口ずさむ。
そうすればもう、同僚たちは音の正体に惑うことはない。彼らの視線は私に釘付けだ。私はそんなことに構うことなく、しばらく「ちゅっちゅっ」を繰り返した後、時機をみておもむろに立ち上がる。
今度はオフィスの皆を向きながら、投げキッスの動作を加えつつ「ちゅっ!ちゅっ!」とやる。ちゃんとひとりひとりの顔を見て、均等に愛を振りまいてから、最後に「ちゅっ!みんな大好き!!」と叫び、最高の笑顔を見せる。
そして、何事も無かったかのようにまた席に戻る。その後は幸せそうな顔をたたえ、またもくもくと仕事を続ける。
これはいい、これはいいぞ。想像しながらゾクゾクするのを感じる。
確かにギャグっぽい。学生がやらされる罰ゲームみたいで、冗談でやっているという風にも見える。しかし、私は部長だ。いや、私の立場や今職場であるという状況を差し引いても、これは頭がおかしすぎる。
まず、これは単純な奇声や奇行とは違い、表現をもっている。正確に言えば、表現として受け取れる。とっさのことで一瞬判断が追いつかないかもしれないが、私の笑顔、キッスという動作によって、私が皆に親愛の情を伝えようとしていることは、ひとまず伝わる。伝わるというのは、別に意味や目的が何なのかということまでは含まれない。表現として、一般的な範囲で、これらがどういう意図で使われているものなのかということは常識的に理解される。しかし当然、なぜ、どうして今ここで、こんなにも恥ずかしい気持ち悪い方法でそんなことを伝えようとしたのか、全く理解できない。
このアイデアの良いところは、やっているその瞬間の驚きだけでなく、その後も尾を引く不可解さと気色悪さだ。
確かにギャグには見える。「なんだぁ、今の」とドッと笑われるかもしれない。しかし、私が一向にネタ晴らしをするようなことはなく、そのまま仕事を、しかも満足そうな笑顔をしながら続けていることが、「飛田部長、今の何のギャグなんですか?」と聞きたくなる気持ちをシャットアウトする。「うふふふ…」と時たま嬉しそうに笑い何かゴニョゴニョ呟きながら続けると尚効果的かもしれない。
しかし尾を引きすぎは禁物だ。皆の驚きと混乱が覚めやらぬうちに、ピシャっと奇行を打ち切った方が良い。
「―関根、木曜の打合せって10時からでいいんだっけ?」と通常のトーンで仕事の話をしだすのも良いかもしれない。いや良いなんてもんじゃない、最高だ。却って異常性を更に際立てる。
もはや私の中はこの妄想でいっぱいになり、今日中に上げなければならない予算書のことなどこれっぽっちも頭に無かった。一体どういうことだ、と半笑いながらも明らかに動揺し互いに顔を見合わせる設計部の仲間。怯え引きつった目で私を見つめる女性スタッフの顔。それらがありありと瞼の裏に浮かんだ。さきほどまでオフィス内で慎ましく鳴り響いていたクリック音、キーボードを叩く音はピシャリと止み、まったりと流れていた午後の穏やかなひと時は瞬間硬直し、けだるかった空気も引き裂かれ、歪み、奇妙に捻れ渦巻く。私の、たったこれだけの行動で、日常が崩れるのだ。
もし本当に、これを実行したらどうなるだろう。一瞬考えてみた。今キーボードの上に置かれている自分の手、その指先の感触がしっとりと感じられるようだった。次の瞬間、肺の裏側がざわつくような恐怖感を覚えた。
ふと私はパソコン画面から顔を上げてみた。まず斜め向かいの席で図面にペンを入れている関根の姿が目に入った。
関根に今の仕事のほとんどを教えたのは私だ。今でこそ「飛田部長は細かすぎますよ」と悪気のない軽口を叩けるようになった彼も、配属当初は私のねちっこい指摘に辟易したはずだ。ある意味私の性格を一番良く理解している彼が、突然気ちがいになった私を目の当たりにしたら、一体どう思うだろう。もちろん、その瞬間私と関根のこれまでの関係性は崩壊するだろう。
関根だけでない、この場にいっしょにいる同僚全てが、私への見方を変えるだろう。ただし、これを一回やったくらいでは、会社内としては大した話にはなるまい。せいぜい噂話として広がり、この場にいなかった者までもが私を好奇の目で見るようになるくらいで、別に規約か何かを破ったり、人に危害を加えたわけでもないのだから、会社から処分が降りるようなこともあるまい。
しかし、しかしそれだけで十分、十分私の会社員人生は終わる。私は一瞬の、一回の奇行により、これまで何となしにただただ日々の積み重ねによって作ってきた人生、「購買部長飛田」という人間を失うのだ。私は正常者というこれまでの保証を失い、異常者として今後生きていくこととなる。
それは大げさ過ぎないか、と自分で打ち消してみる。少し気が触れただけだ、きっと何か精神の病気で、一時的に正常でなくなっているだけだ、と理解されて話は済むのではないか。好奇の目はいずれ同情のまなざしに変わり、ひょっとしたら会社から少し休みが貰えるか、あるいは精神科医に相談してみることを薦められるかもしれない。カウンセリングに通い、何かしらの治療を続けているような素振りを見せながら、その後はさも悩んで疲れているような表情を浮かべて仕事を続けていれば、やがて皆「理解」し、「配慮」して接してくれるようになる。やがて私の奇行の話も、私のいない飲み会でヒソヒソと語られる「ネタ話」となり、公ではタブーとして扱われる。私は少なくとも「病人」という札をぶら下げることを条件に、まだこの会社という社会の中で「同じ人間」として残り、加わることができる。もしダメだったら、その時はその時だ。仕事を変えてしまっても良い。もし本当にこの会社にいるのが居た堪れなくなれば、私だって本気で転職活動をする。これでも建築業界の仕事は一通りこなしてきたつもりだ。これまで付き合いのある会社に頼み込めば、一工事管理の仕事くらいは貰えるだろう。何とか家族は食わしていける。
そうだ、大したことではない、大したことではないのだ。まるで私の中に別の誰かがいて、私を納得させ安心させようとしていた。私の背中をやさしくさすりながら、同時に押してくる。出来るのだ。やろうと思えば。今すぐここで。
不自然に心臓が高鳴りだした。すると、さっきまでぼんやりとしていたいつもの事務所の光景が、やたらシャープに映って見えた。全ての物の輪郭がくっきりと見え、天井の吸音板の穴ひとつひとつが目に刺さってくるようだった。普段通り真面目にパソコンに向かっている同僚たちの顔もよく見え、そのせいか逆に知らない他人のように見える。向こう側から聞こえてくる設計部達の会話、例の病院改修のプロジェクトについての話で、私も関わっている案件にもかかわらず、まるで外国人の会話のように音として耳に流れてくる。
今まさにこの日常を、普通の世界を、これからする自分の行為によって、この瞬間変えてしまうことができるのだ。そのように一度真剣に考え出すと、逆にこの世界の現実性が奇妙に強まったように感じられた。大地震が起きるでもなく、ミサイルが飛んでくるのを待つでもなく、私自身が染まり、私自身が一部として組み込まれたこの世界は、私が今口をとがらせて「ちゅっちゅっ」とやりだした途端、永遠に別れを告げてしまうのだ。
しかしブラインドの隙間から差し込むあたたかな西日はどこか現実感がなく、まるで夢の中にいるような感覚を与えてきた。一瞬今が朝なのか夕方なのか自信がなくなった私は、思わず柱に掛けられた時計を見上げた。時計は午後の4時23分を指している。
ここにきてようやく、今日中に仕上げなければならない予算書のことを私は再び思い出した。そろそろ本気でやらないとまずい。後は木材の金額を入れればひとまず形にはなる。今夜は裕貴も楽しみにしているサッカー日本代表戦だ。今じゃ昔ほど話をしてくれなくなった息子とも、楽しく盛り上がれる数少ないチャンスだ。残業はしたくない。
瞬間、はっと我に返った。一体、何をしようとしていたんだ、私は。急に顔のほてりが引き、口の中の乾きを覚えた私は、とっさにコーヒーの残りを流し込んだ。まさか、どこからか私は本気になっていたのではないか。そんな馬鹿な。別に、こういったことをぼんやり考え出すのは、今に始まったことではない。しかし一体、いつからだ。どの時点から、私はこんなくだらない妄想をここまで真剣に考えるようになったんだ。さらに私は今、それを実際に実行しようとしていた…?まさか、しかし、本気じゃないにしても、それでもさっきまで感じていたあの異様な感覚は、何だ?あの集中力は何だったんだ?どうしたんだ、私は?
「飛田部長、今転送したメール見てもらっていいすか?」
絶好のタイミングで関根が私に声をかけてきた。すかさず私はメールを開き、中に書かれた内容に目を通す。
「ああ、また石井社長からか。相変わらず鋭いな、この人。ただこの2番の質問だけは馬鹿正直に答えるなよ。」
そう、そこなんですよ、どうしたら良いですかね~と苦笑いしながら関根が私の元へ回って来た。そして私はさきほどまで抱いていた謎の混乱を早く消し去ろうと、いつもより饒舌にしゃべり、関根もそれに協力してくれるかのようにウンウンと頷いた。
「分かりました、とりあえずそんな感じで答えときます!」
何がどう分かったのか相変わらず怪しいが、とにかく関根はすっきりした顔をしてまた席へ戻り、カタカタとメールを打ち出した。それを見届けると、私も安心してまた四角くてチカチカした数字の世界へ戻った。外回りに出ていた営業の杉澤君が帰ってきた6時ごろには、私の予算書は既にプリンターの口から吐き出されている最中だった。サッカーには間に合いそうだ。ひと心地ついた私は、カップの底に溜まった粉っぽい汁を啜りながら、明日の仕事についてぼんやり考えていた。(つづく)