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若者と猿

門をくぐり都市のようにとはいかないまでも活気のある道を抜け、入り組んだ貧民通りを抜け…それすらも寄り付かない廃墟同然の寂れた石造りの教会の中に、若者の家はあった。猿はずっと肩に乗り、尻尾を若者の首に巻き付けてしがみつき、その丸い目で辺りを見回していた。
「さぁ、ここが俺の家だよ。お嬢さん」
そうは言っても、若者は猿の首飾りを取るわけでもなくお茶を淹れだして、猿を椅子のような場所に座らせた。
「君の服を買えるほど、俺は裕福じゃないんだ。…だからしばらくは、そのままで居てくれな」
「キキッ。キューゥ」
理解をしたのか、していないのか…猿は若者の言葉に反応するように鳴き、そのうちソワソワするのをやめて尻尾を自分の体に巻き付けた。


「しかし…名前があるかもしれないとはいえ、呼ぶのに不便では一緒にいられないな。いいかい?俺の名前はオルファンだ。お前は名前はあるのか?」
オルファンと名乗った若者は、その両手からなみなみ注いだミルクティーの片方をテーブルに置き、猿に飲むよう手を差し伸べた。すると猿は毛布にくるまって首飾りを取り外し、女の姿になって目を細めオルファンの緑色の目を静かに見る。…オルファンは目を見開いて、しばしの間硬直していた。
「…ディディ。ディアンチカ」
それだけ伝えると自ら首飾りをつけて猿の姿に戻り、毛布から出てまだ熱そうなミルクティーを静かに舐めだした。
「デ…ディアン…チ…いや、ディディ。そのほうが呼びやすいな。ディディ、お前は自由に人になれるんだな。どうしてあんな所に繋がれていた?罪びとなのか?それとも、とてつもなく偉い人なのか?」
矢継ぎ早に問いかけてくるオルファンに少々困惑しつつも、ディディはキャキャッと笑い一番清潔そうな薄手の壁掛けを指さし、持ってこさせた。どうやらそれを服にするらしい。体に巻き付けた後に首飾りを外し、少し抑揚に癖のある話し方でオルファンに答えた。
「あなた、オルファン。私はディディ。私はあなたの言葉が解る。学んだ…そう、足を痛める前。遠い昔。」
北方の言葉の抑揚に近い、とオルファンは感じた。それでは彼女は山を越えてきたのか?一人で?それとも誰かと共に?興味と疑問が次々に沸いてくる。自分の言葉が解るなら、なおさらだ。知らない土地から来たであろうディディは、いったいなぜあんな場所に拘留されていたのか…オルファンは彼女の言葉に好奇心を覗かせて、次第にその体が前のめりになり近づいて…座る場所も近くに……と思ったけれど、ディディが手のひらをオルファンの顔の前に突き出し「ニェッ」と言うのでその姿のまま動きを止めた。きっと近づきすぎたらダメなのだろう。するとディディは一つ小さく溜息を吐いた後、穏やかにゆっくりと話しだした。
「私はあなたの言葉が解る…だけど、上手ではない。わかって…。私があの泉にいたのは、彼らの言う『罰』です。だけど私はわかりました。助けがあることを。…オルファン、私は幼い頃に教えられました。私の家は言えませんが、もうありません。私が猿の姿になることは、私を隠すことを意味していて安全なのです。そうしてあなたが私を見つけた。すべては道の上にあることで、私はそれを違えず進みます」
話し終えるとディディは目を伏せ、テーブルのミルクティーを何か思い出しているように見つめてました。
月の色が白く輝きだすまで、オルファンは彼女をそっとしておきました。
部屋の中央の炉に火をくべた後「ここの夜は冷えるから」とまだあまり汚れていない布をかき集めてディディのそばに無造作に置き、どこかに行こうとしました。ディディは声をかけようと視線を上げると「上にいるよ。気にしないで眠りな」と、今にも崩れそうな階段を軽々登って行くのでした。

「ディディ…ディアンチカ……黒い瞳」
若者は、教会の鐘撞窓から糸のような月を眺めながら小さく呟きました。



<続く>

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