見出し画像

高市早苗VS小西洋之のしょうもなさ

森友・加計に続く、いやそれをしのぐビッグウェーブ()がやってきた。
放送法の解釈変更をめぐって、故・安倍晋三元首相と高市早苗(経済安保担当大臣)が圧力をかけたとする内部告発を、立憲民主党の小西洋之議員が取り上げた。



一方で、高市サイドは文書の「事実関係」を否定。文書の正確性をめぐって、小西議員と高市大臣の間で見解が真っ向から対立する展開となっている。

小西議員の問題意識を要約すると「個別番組を名指しして政治的公平性を云々した」ことが問題だという。

経緯がわからない人のために付言しておこう。
伝統的な放送法の「政治的公平性」とは「個別番組だけではなく、全体のバランスを見て(公平かどうかを)判断する」ものとされていた。
一方で、2015年5月の国会において、当時総務大臣だった高市氏は「(放送法の政治的公平性が“度を超えて実現していない場合には”)個別番組単位でも違法性を問われる」という新たな解釈が付け加えた。
小西議員によれば、この解釈変更が「政権に批判的な番組を狙い撃ちして、圧力を加えるためのものだった」というのである。そして、その主犯に故・安倍首相と高市氏が名指しされている状況だ。


「個別番組」の言及の有無なんて、まったく本質的でない

まぁ、たしかに小西議員の指摘はそれなりに筋は通っている。
高市氏の過去の発言から考えれば、彼女のなかに具体的な「(常識はずれの偏向報道をしていると感じている)個別番組」のイメージがあったことは間違いない。で、実際に文書のなかで名前が挙げられている番組といえば、正直「あぁ…まぁ…そりゃ…ねぇ?」という面々ばかり。具体的に名指ししていなくても、(いちいちそんな解釈が言及された時点で)自分がTV局上層部の人間ならば「あいつら危なそう」と思い浮かべそうな番組ばかりだ。実際に、こういったやり取りに似た会話が政権内部にあったのだとしても、まったくおかしくはない。

だが、逆にいうと、だからこそ「じゃあ、名指ししたらなんなの?」という率直な疑問もわいてくる。そこに実質的にあるのは「TV局がなんとなく忖度する」か「名指ししたものが洩れ伝わる」かの違いでしかないからだ。

たしかに、総務大臣時代の高市氏の解釈変更には、異論があって然るべきだろう。
あくまで「例外的な対応」であることは強調されているとはいえ、その判断基準を具体的に示せるわけではないので、やはりメディアの過剰な自粛を招きかねず(反アベ原理主義者のヒートアップぶりを異常視していた自分から見ても)その意味で“正当性に疑義のある”発言ではあるとは思う。
とはいえ、高市時代に追加された解釈を問題にしたいならもともとの「個別番組に政治的公平性を求める解釈は妥当なのか」を問題視すべき話で、解釈変更から7年も経った今更「名前を挙げたかどうか」なんてまったく本質的ではないように映る

そもそもしょうもない「政治的公平性」


そもそも論でいえば「放送全体を見て公平性が保たれているかを判断する」なんてルールにどれほどの意味があるのかもわからない。
「政治的に公平な報道ってなに? どうやって判断するの?」からしてよくわからないのだが、仮に100歩譲ってそれが定量的に管理されていて「個別番組は偏向していても、TV局単位では放送全体で帳尻を合わせている」というのが本当なのだとしよう。では、それが本当に番組制作者の「表現・報道の自由」や視聴者の「知る権利」を保証しているかといえば、そんなことはないだろう。

たとえば、サンデーモーニングが反自民を色濃く打ち出しているのは「自由な表現・報道」だとして、では残りの番組枠はどうなるのか。当然ながら、サンデーモーニングとは異なるスタンスでの番組制作・報道を余儀なくされる。そうでなくては、局全体の「政治的公平性」が保てないのだから。ニュートラルな立場の番組は局側の調整弁としてある程度決まった方針の報道をするしかないし、逆にサンモニと同じ路線の番組を(サンモニスタッフにはなれないけど)どうしても作りたい人には番組制作のお鉢が回ってこないことになる。サンデーモーニングが好き勝手やればやるほど、ほかの番組の裁量範囲は狭くなるのだ。
また、視聴者に目を向けても、視聴者は24時間365日TVの前にかじりついているわけではない。一部の例外をのぞいて「その人がTVを観ている時間帯」という制約が基本的に生まれる。サンデーモーニングが自由な報道をやった結果として、特定の視聴者以外には「政治的に超公平な」あるいは「政権に親和的な」報道が行われているのなら(あるいはその逆なら)、それのどこが「知る権利」の保証につながるのだろうか。

つまり、政治的公平性なんていうものを、放送法で規定すること自体がそもそも「自由な報道」や「視聴者の情報源の多様性」を奪っている側面が少なからずある。その文脈でいえば(いいかどうかはともかく)アメリカのように局単位で明確に報道内容に偏向しているほうが、彼らのいう「自由」や「知る権利」を守る立場だという(よくある)指摘のほうがよっぽど説得力を感じる。まだ視聴者にしろ製作者にしろ自分の目的に合ったチャンネルに移動すればいいだけの話だからだ。

しかし、国会論戦では、この本質的な部分に話がまったく至らないままに細々した部分のバチバチが続いている。虚しい。ひたすらに虚しい。小西議員も高市大臣も、一体何にこだわっているんだろうか。

ガバガバの罠にハマる高市大臣の迂闊さ

今回の件でもっとも最悪なことは、高市大臣が変にヒートアップして問題を拡大させてしまったことだ。
文書と小西議員の言い分の「(本質から外れた)しょうもなさ」「恣意性」を指摘して、もっと中身のある議論に引き込むか、適当にあしらえばよかったのである。それをいちいち文書の内容を「捏造だ!」とブチギレてしまった。そのうえ、小西議員の「捏造じゃなかったら、辞めんのか?」の挑発にわざわざ乗って「辞めたらあ!」と応じる始末だ。わざわざ自分から、野党やマスコミの不毛な追求に高いインセンティブを与えているのだ。支持者には申し訳ないのだが、ガバガバの罠にまんまと引っかかっていて「え? この人ポンコツなの?」と正直思ってしまった。

本件は完全に小西議員のラッキーパンチなのだが、いずれにせよこの問題の注目度は(中身のないわりに)急上昇。モリカケ最新章の幕開けとなってしまった。高市大臣もどうせ喧嘩するなら、せめて「その代わり、この文書の正確性を立証できなかったら、小西議員は責任取っておやめになるんですよね?」くらい言っておけばよかったのに。というか、小西議員も自信があるならなぜそれくらいのことを自分から言って迫らない? 自分が確信をもった「文書」を捏造呼ばわりされたことが許せないなら、令和の“腹切り問答”をやってみせるくらいの意地を示せ。


時間の無駄でしかない国会でのガバガバ追求

ともかく、そんなこんなで本日答弁が行われていたのだが、案の定というべきか、本当にしょうもなかった。マジで時間の無駄。

では、どんな質疑と答弁だったか。小西大臣の主な質問を要約しながら、みていこう。

小西議員の(2人の対決に関わる部分についての)質問は以下のとおり。
1)この文書のどこが『捏造』なのか(答:具体的な箇所を回答)
2)事実関係の確認した相手は松井秘書官なのか(答:そう)
3)文書に出てくる当事者に確認したら「捏造した」と答えたのか(答:確認して情報を精査している。当事者の意向もあるのでこの場では答えられない)
4)総務省は文書を「捏造」するような組織なのか?(答:そうではない)
5)総務省の官僚が「捏造」するということは、ありえるのか。(答:ないと思う)

(1)と(2)については今後の展開次第だが、(3)(4)(5)については率直に言って、立証に繋がりようもない「ザルすぎる追求」である。というか、まともな持ち札ないんだな、というのが主な印象。後日、参考人を呼ぶらしいんだけど、これすら「出たとこ勝負」なんだったらマジで小西議員こそ議員辞職すべきレベルだと思うほどだ。さすがに勝算あるんだよね…?


やるなら“捏造”の定義を共有しろ


小西議員も百も承知でやってるんだろうが、そもそも「捏造」という言葉は、本件においてそこまで厳密に定義されて語られた言葉ではない。だから、答弁する「人」「タイミング」によってその意味するところは、かなり振れ幅がある。

小西議員が(一方的に)言っている「捏造」の意味とは、いわゆる「でっち上げ」のことだろう。その定義にしたがうと、たしかに形式面から見れば、正式な行政文書であったという意味では「捏造」ではない。
(3)から(5)は実質面としての「捏造」…つまり、官僚がなんらかの意図をもって文書の“内容”をでっち上げているのか? であるが、この意味においても「捏造」とはいえないだろうし、考えにくいだろう。松本総務大臣らがこの意味での「捏造」やその可能性を否定するのは、そりゃ当たり前の話である。というか、仮に実際に官僚がその意味で「捏造」したのだとしても、認められるわけがない。

また、質問の中盤で小西議員は総務省の官僚に対して捏造かどうかをしつこく迫っているのだが、それに対する官僚の答弁を要約するとこうだ。

「一般論として意図的な捏造とは考えにくいけど、言った言わないの話なんか当事者ごとに認識違ってしかも昔のことなんだから、こっちの一存ですぐに判断できるわけないでしょ?」

こんな当たり前の答弁にもまだウダウダ言っているのだから、傍で聞いているほうもうんざりする。
そんなに自分の主張に確信を持っているなら、その明らかな根拠を示して立証すりゃいいだけではないだろうか。ただのメモ書きに近い内部文書の正確性に、なぜそこまで確信を持っているのか。今ひとつその確信の源泉がまったくわからないのだが、小西議員はそれを「かくあるべき論(一般論として行政文書は正確性について万全を期すべき)」以外で説明できるのだろうか。


そんな自分の定義の範囲での整合性だけをもって「ほら捏造じゃないんだから、やめろ」と高市大臣を批判したところで、ただの揚げ足取りで本質的じゃないでしょ、で終わりだ。

これまでの話をきちんと追っていればわかるのだが、高市大臣は(これまでも彼女が繰り返し訂正しているように)「捏造」をそのような意味では使っていない。
あくまで「(文書内の)自分に関する部分について不正確な記述」を指して『捏造』としている。この場合の『捏造』とは、厳密にいえば“(捏造と言ってもいいような)不正確な記載”というくらいの意味であって、ここには単なる「決定的な誤解・勘違い」も含まれる。そうしたことを考えると、たしかに捏造という表現は言い過ぎかもしれないが、かと言って感覚から大きく離れた発言かというとそうでもない。
あなたが身に覚えのない証拠をもとに追求を受けたときに「捏造だ!」と否定したとして、仮にその証拠が「捏造ではなくただの誤解にもとづくものだった」からといって、あなたが悪いわけでもなければ、言葉選びを追求されるわけでもないのと同じだ。不正確な証拠がうまれた経緯に認識違いがあったとしても「不正確な証拠に証拠能力はない」という本質部分にゆるぎはないからだ。

もし、どうしても小西議員が「捏造」の定義ではめ込みたかった(そこにしか勝算がなかった)のなら、もっと早い段階でお互いの捏造の定義をきちんと確かめあっておくべきだった。

高市大臣がその後の記者会見で早々に「捏造」発言の真意(あくまで事実無根の不正確な記述=捏造)を表明した時点で、完全にガードが固められてしまっている。もはやその方向性から論理破綻にはめ込むのは無理ゲーなのである。

小西議員はそれでもなんとか高市大臣言質を引き出そうと「(この行政文書が)捏造であるという挙証責任を負うんですね?」とか唐突な責任丸投げを始めるのだが、今回は「それはさすがにおかしくないですか?」と普通に返されてしまった。前回が異常なだけで、今回のは当たり前の返し(超想定内)なのだが、国会中継を見る限り小西議員はなぜか微妙に動揺しているように見えた。まさか、本気でそれではめ込めると思ってたの…?

いずれにせよ、仮に100歩譲って小西議員が文書の正確性を示せたのだとして、大臣を「売り言葉に買い言葉で議員辞職」なんかさせてそれが手柄なんだろうか。まぁ、手柄といえば手柄なんだろうが、それで政治の一体なにが、国民生活の一体なにがよくなるのかわからない。

この追求は一体なんなのか。一体なんのためにやっているのか? その根本哲学がないまま、ただ話だけがデカくなっている。この空虚さに耐えがたいものを感じている国民は、わたしだけではないだろう。

とりあえず、これ以上長々とこの問題を取り上げるつもりなら、小西議員のほうも追求が不発に終わった際には議員辞職をする、という覚悟くらいは表明したうえでやってもらいたいものだ。


いいなと思ったら応援しよう!