与えられた価値観、様式という名の檻

果たして本当に味が染み込むのかどうか、旨いかどうかはさて置き、膨大な時間と手間、贅沢な材料を費やすことに意味がある、と思われる。

世の中の人たちがこの様式の中に囚われて続けている限り、彼は"その様式の中で"権力と地位を手にしたことになる。

しかし、この様式から抜け出せられない限り、彼/彼女らに"真の意味での自由"は訪れないだろう。

また、彼はその権力と地位を手放したくないがために、この様式をより強固なものにするだろう。

そしていずれ、それは社会そのものとして認識され、普遍的真理となる。


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ブランド品とかもそうだが、所詮は虚構の産物。
多くの人が一斉に価値がないと判断した場合、本当に価値がなくなる、危うい想像上のモノ。

例として、2018年にDolce&Gabbana のアジア人差別的なCMに反発し、各局から「19日から21日までの48時間で30年間築き上げたきた信頼を失った」と非難を浴びながら、中国から市場を失った同ブランドは翌年の2019年には実際に8720万ユーロ(約102億3300万円)もの売上が減少したとも言われている。

しかし、その虚構でしかない想像上のモノに、なぜ人々は価値を見出すのか。

それはおそらく、自らの主観的判断でそのモノの価値を見出しているのではなく、"価値があるとされているから評価を与え、結果的に価値を与えてしまっている"からである。


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メガネをかけたら知的に見え、スーツを纏ったら立派に見えるのは、恐らくそれらの背景には「眼鏡=文人、スーツ=紳士」という様式の刷り込みがあるから。

英語が話せたらすごいと思え、MADE IN ITALY / FRANCE だと高価に思えるのは、無意識のうちに人種・地域に対する劣等感「オクシデンタリズム(逆差別)」を抱いているから。

同じ外国人でも、肌の色や目の色の違いによって、自分でも気付かない目には見えぬ微妙な態度や対応の違いが生まれるのは、無意識のうちにこの世界を国や地域、種族や文化などによってピラミット状に格付けしているから。

様式からの脱出は、我々に残された唯一の挑戦なのかも知れない。

そして思考を手放してはならない。

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