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【八〇〇字物語】死出の道

あと十日ほどで死ぬらしいので、旅に出ることにした。
借りていた部屋を解約しにいくと、有り難いことに大家は「そういう事情なら仕方がない」と即時解約を了承してくれた。いまある荷物は好きにしたらいいと言われたので、全部置いていくことにした。
愛犬の遺骨と遺品だけを入れたリュックを背負って部屋を出る。
最後の挨拶をして歩き出そうとしたところで、「十日は短いようで長い」としょぼくれた顔で大家が言った。礼を言って別れた。

行きたい場所もなかったが、これでもう見納めだと思ったら海を見たくなった。
せっかくなので愛犬とよく車で行った海岸を目指してみることにした。車でしか行ったことがないから、歩いてたどり着けるのかも判らない。けれど最期の十日間を愛犬とともに歩いて過ごすのも悪くないと思った。
歩くたび、リュックの中で骨壺がチンチンと鳴った。

街中。道行く人とすれ違う。
あの人には十一日後の世界があるが、自分にはない。あの人にも。あの人にも。だからといって悲しみも憎しみも苦しみもない。十一日後の世界がある人間の群れのなかを、ただひとり、空気のように流れていく。

公園のベンチで夜を明かしながら、ひたすらに海を目指して歩いた。
住み慣れた市街地を抜け、見知った川を越え、いつか見た田畑の畝を歩く。痛みも疲れも感じなかった。はたして自分は本当に死ぬのだろうかと訝しく思ったが、疲れや痛みは生きている者だけの特権なのかもしれないと考え直した。

六日目の朝、公園で目を覚ますとリュックがもぞもぞと動いて、亡くなったはずの愛犬が飛び出してきた。唖然とするわたしの腹の上で勢いよく尻尾を振り回している。ここ数年は療養していた姿ばかりを思い出していたけれど、そうだ、きみはこんなに元気だったよな、と思いきり抱き締めた。

遺品だったリードとハーネスを装着して立ち上がった。
まだまだ海は遠そうだけれど、きみとともに歩けるのなら、死出の道も悪くない。

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