『少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』感想と気になった点

1、はじめに

先日、仕事帰りに『少女☆歌劇レヴュースタァライト ロンドロンドロンド』を観てきました。「総集編らしいしな~、わざわざ観に行かなくてもいいかな~」くらいに構えていたのですが、来月友人とスタァライトについて話す会がある、などもありバタバタと観に行きました。結論から言えば、大正解だったわけですが。

TVシリーズの振り返りをすることもなく観に行ったため、いろんなことを拾えてはいないものの、種々気になったことはあったので、再度観に行く前に感想等をいったんここにまとめておこうと思います。

以下、ネタバレを含みます。
また、記憶違い等あると思いますがご容赦を。

2、簡単に感想

折に触れてレヴューを観返すなど、レヴューの曲・演出共に非常に好きだったので、映画館という環境で観ることができたのはなにより良かったです。「アタシ再生産」からレヴューに入るのももちろん好きなのですが、台詞からシームレスにレヴューに入っていくのが非常によく、感情を昂らせたままに、レヴューに次ぐレヴューと、興奮の渦に呑まれたままに最後まで駆け抜けていきました。
※TVシリーズ8話の「RE:CREATE」への入りなどが特に好きなので……

台詞の一部変更や場面の追加に「お!」となる場面も多少はあったのですが、TVシリーズを観返していなかったこともあり、十二分には気付けなかったのは惜しいことをしたな、という気持ちです。
※ロンドロンドロンドを観たあと改めてTVシリーズを観返してみると、映画館で「お!」となった場面がTVシリーズで既に存在する場面だったり……

追加された場面では、キリンのいやらしさはいっそう増していたように感じました。何より、大場なな相手に「声が小さくて聞こえませんが?」と嫌味たっぷりに言う場面のいやらしさと言ったら。

一方で「キリン……!お前ぇ!!」という感情がそのまま舞台を眺める自身に返ってくる構図には自覚的にならざるをえないなので、その絶妙な快楽と居心地の悪さに身悶えしていました。

上記のような感想を抱きつつ、「総集編で改めて観ると、やっぱりレヴュースタァライト好きな作品だなー」とぼんやりエンドロールを観て、帰り支度だー、と思っていたところでいいようにラストの演出で驚いてしまいました。

既に観ていた友人とも後日話しましたが、「ひぇ、違う映画に変わったのか…?」というような印象に震えつつ、既に発表されている次回作への期待が高まるままに終わったな、という感想です。

TVシリーズを整理していなかったことも影響はしますが、華恋とひかりの物語として1本のまとまりを出されたことで、なんとなく「少女☆歌劇レヴュースタァライト」への解像度が上がったような気持ちです。そうなると、もっと細かく気になってくるわけで、再度、再度と観たい気持ちが高まっています。

3、気になったこと

考察というほどに精緻ではないですが、ロンドロンドロンドを観て気になったこと、もしかしてこういうことなのではないか、と思ったことを以下書いていきます。

先の感想で「再度観たい」と書きましたが、映画として一定期間上映されという物語外の形式が意味を持つような印象を受けました。大場ななが「第99回聖翔祭」という運命の舞台をなんども繰り返したように、神楽ひかりがたった一人での「スタァライト」を繰り返したように、私たちという観客によって「少女☆歌劇レヴュースタァライト」が何度も繰り返される構図が見て取れます。

そして、上記に挙げた3つの繰り返される舞台が、副題でもある「ロンドロンドロンド」、すなわち、3つの「ロンド」ではないかと考えています。そして、総集編と題しているこの映画は、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』が3つ目の舞台であることを、巧妙に描き出す作品だったのではないかと思うのです。

これはTVシリーズから疑問だったのですが、華恋とひかりはなぜ第100回聖翔祭で「スタァライト」の主演だったのでしょうか。11話で既にクレールは天堂真矢、フローラは西條クロディーヌに決まっていたはずです。

であれば、最終話の第100回聖翔祭のスタァライトはなぜ、華恋とひかりを主演において上映されたのか。

そもそも、ひかりを救い出したあのレヴューの結果はいずこかに反映されたのか。

そして、そのレヴューの中でひかりの口から語られた「そんなことしたら、私の運命の舞台に囚われて、華恋のきらめきも奪われちゃう」とはなんだったのか。

そして、それを踏まえたうえで、新章スタァライトにおけるひかりの「私のすべて奪ってみせて」とはなんだったのか。

映画も踏まえた今、上記への回答は「第100回聖翔祭のスタァライト」、そして、そこに至るまでの華恋とひかりの物語が運命の舞台だったからではないか、と私は考えています。

運命の舞台の再生産(破壊と再生)、そして新章における勝利、そして叶えられた運命の舞台こそ『少女☆歌劇レヴュースタァライト』ではないか、と思うのです。

「運命の舞台は」「ずっと昔から始まっていた」と華恋とひかりは再確認します。『少女☆歌劇レヴュースタァライト』は華恋とひかりの「あの日」を度々リフレインし、(舞台上の)華恋とひかりにとっては「あの日」から続く物語です。その一連の物語こそが、「運命の舞台」として提示されているのではないか、と。

思えば、”劇場で”舞台を眺める構図は既にTVシリーズの中で描かれていました。とりわけ印象的なのは1話冒頭、「スタァライト」を眺める「あの日」の華恋とひかりが描かれています。そして、その舞台上での華恋とひかりのステップは、他でもない最終話、「新章スタァライト」の華恋とひかりのステップでした。
※この場面だけスクリーンに映されているかのように、画面上下が縁どられている

華恋とひかりが演じるスタァライトは既に、再度上演されうるものとして提示されていました。そして、ロンドロンドロンドが公開されている今、「あの日」の華恋とひかりが座っていた座席には、同じように視聴する我々が座っています。3つ目のロンドが――「9人の舞台少女たちが紡ぐ、新しい、”永遠の”物語」が繰り返し、繰り返し上演されるのを心待ちにしながら。

今回、「星罪のレヴュー」にてキリンから我々への語りかけが排除されました。そして、大幅に追加されたのがキリンと大場ななのやり取りです。

大場ななとキリンは総集編として上映されている『少女☆歌劇レヴュースタァライト』を眺める位置にいるでしょう。レヴューの歌詞を噛みしめ、物語へと紐づける大場なな、「大場ななさん、出番5分前」と(恐らく)上映されている映画内の時間軸で語りかけるキリン。改めて、TVシリーズが描いてきた『少女☆歌劇レヴュースタァライト』が上演されるもの、また、繰り返し再演される舞台、として意識的に描かれていると感じるのです。

一方、我々はキリンから語りかけられる位置を脱し、キリンと大場ななのやり取りすら眺める位置にいます。大場ななの再演とその途切れる場面、神楽ひかりによる贖罪の再演、そして、再生産によりスタァライトが書き換えられる様――TVアニメシリーズでキリンと共にそれらを眺めてきた席に我々はいません。その位置には、大場ななが、神楽ひかりがいました。

TVアニメシリーズで描かれた『少女☆歌劇レヴュースタァライト』は運命の舞台として、繰り返される舞台――ロンドになりました。ただし、そこで物語は終わらない、「スタァライト」は完結できないのです。新章スタァライトとして、物語の続きが描かれてしまったから。我々が舞台を求めてしまったから。

総集編である『少女☆歌劇レヴュースタァライト』を眺める大場なな、キリン、そして神楽ひかりの存在は、このロンドを飲み込んで、新たな舞台が、物語が生まれることをどうしようもなく示唆しているでしょう。

もちろん、これは続編の映画が制作されることを踏まえたうえでの理解です。

もう目を焼かれて塔から落ちた少女も、幽閉されていた少女もいません。
ならば……その新章の結末は?
※劇場版「少女☆歌劇レヴュースタァライト」公式HPより

映画終盤、エンドロールの後に描かれたショッキングな舞台少女の死。『少女☆歌劇レヴュースタァライト』が運命の舞台であったのなら、その舞台の先(=エンドロールの後)できらめきを奪われ、舞台少女の死を経た彼女たちが描かれることもまた、必然性があると感じます。

また、総集編として描かれた『少女☆歌劇レヴュースタァライト』――3つめのロンドがいつか終わることは、「再生讃美曲」でも示唆されています。

少女よ 少女よ
ロンドはいつしか終わる
だから眩しい Ah
※再生讃美曲

このロンドもいつしか終わるのでしょう。そして、それが新作の劇場版で描かれるのではないでしょうか。

しかし、ここまで眺めてきた通り、劇場版という一定期間何度も上演される媒体での公開は、同じくロンドを、繰り返される舞台に舞台少女たちを囚われたままにするのではないか、という恐ろしさを内包しているように思います。

「再生讃美曲」の中で「その温度で私を救うの」という一節が出てきますが、歌詞を見ないと「その――んどで私を救うの」というように、単語をはっきり聞き取れませんでした。この箇所を恐らく大場ななが歌っていることも踏まえると、恐らくは「そのロンドで私を救うの」というニュアンスを意図的に潜ませているのかもしれません。

であれば、上記の歌詞に続く(恐らく)華恋の「廻り廻る」は、ロンドが終わることも、次なるロンドが生まれうることも示唆しているように感じてしまいます。


舞台少女たちの眩しさにあてられ、心震える舞台を――次回作を待ち望む我々は、紛れもなくTVシリーズにおけるキリンそのものであり、本作におけるレヴュー開催の主犯に仕立て上げられたようです。

総集編として提示された今回のロンドロンドロンドでしたが、ただの総集編では決してなく、繰り返される「運命の舞台」という趣があまりに強かったように感じます。

少女たちのロンドはいつまで続くのでしょう?


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