背広研究 ドレープのはなし
前回に引き続き、ネックポイントの話です。
なぜ時代とともにネックポイントが起きた=前進したのでしょうか?
答えは簡単。
ユトリが増えたからです。
ここでようやくドレープの話につながります。
昭和ヒトケタ以前の背広のシステムでは、
パターンを起こすときに胸周りのユトリ量として2.5インチを加えました。
システムによりバラツキはありますが、それでも2インチ〜3インチの間です。
そして、このうち1インチが縫い代として引かれます。
(縫い代の話は改めてどこかでします)
これは半身での話ですから、縫い上がりでは左右合わせて2インチ〜4インチとなります。
さらにこの当時は胸周りの採寸を行うときにもピッタリと計測したので、
めちゃくちゃタイトな仕上がりでした。
ところが昭和に入った頃から、胸周りのユトリを増やしてみようという試みが始まりました。いわゆるドレープ型です。
このときのユトリが、ドレープ型と言ってもせいぜい4インチほど。
左右合わせて縫い代を抜いても仕上がりで6インチですから別にそこまでダボダボというわけではありません。
それまでがキツすぎただけです。
これがそのまま戦後も続いているのです。
さて、実は明治末期にもオーバーサイズのスタイルが流行りました。
しかしこの当時のスタイルはドレープ型とは異なります。
何がどう違うのか?
ここが重要なのが、
ドレープ型はオーバーサイズの服を着せるものではない
ということです。
つまり小さな人に大きなサイズの服を着せるわけではないのです。
ユトリが多いこととオーバーサイズの服を着ることは本質的に異なります。
増やしたユトリは、その人のサイズに合わせて、快適な位置に割り振る必要があります。
ここで再び磯島先生の言葉に戻ります。
「胸巾を大きく裁つ場合に打合の方へ広げるわけにいきませんから、
どうしても胸巾の後半が大きく裁たれることになります。
したがって前脇を圧迫しないように、
追い込んでアームホールをねた形に仕上げます。
起きた形の極端な例が戦後流行したドレイプ型です。
そのナゴリが今でも尾を引いています。」
胸巾というのは、真正面の左右の袖の間を測ったものですから、
「胸巾の後半」は、ネックポイントより後ろ側の肩の部分を指します。
打合は真正面のこと。つまりボタンが並んでいるところです。
前脇は袖ぐりの前の付け根のあたりです。
なお、ドレープ型は先に述べたとおり戦前から存在しましたが、
特に戦後に極端なものが流行ったのでそのことを示しています。
もうおわかりでしょう。
繰り返します。
ユトリが増えたからネックポイントが前進したのです。
昭和ヒトケタ以前のパターンでは、背中側から肩周りを含めてピッタリと体にくっつけ、袖ぐりもカタく仕上げていました。
それでも人間の動作のためには若干のユトリが必要です。
当時はそのユトリ分をすべて打合=真正面に持ってくるようにしていたのです。
だから前身頃のネックポイントより前の部分の分量が多く必要になり、
「寝た」状態になっていたわけです。
ところが、この状態では差し込めるユトリ分に限界があります。
なぜならユトリが前に前に流れてしまうので、
一定量を超えてしまうと、
単にシングルの背広がダブルの背広になるだけだからです。
(この状態を「打合が深い」といいます)
そうなると、ユトリが服の後半部分(袖から背中にかけて)で収まるようにしなければなりません。
相対的にネックポイントより後ろの部分の分量が多く必要になり、
「起きた」状態になっていったのです。
シーソーのようなものです。
たったこれだけの話だと思うのですが、
どうも世間では、昔の人は今の人と体型が違うからだとか、
意匠的な作用がどうこうとか、必要以上に複雑な議論がされているように思います。
そういう面もあるかもしれませんが、自分はそんな難しい話ではないと考えています。
ところで、古いパターンで実際に服を作ったひとのなかには、
どうしても体に合わない、と諦めてしまったかたもいらっしゃるのではないでしょうか。
実は”肩の入れかた”=肩周りの裁縫の仕方が、今と昔で違うんです。
ネックの処理、アームホールの仕上げ方などなど、
この部分については、いきなり話し始めても何が何やらだと思いますので、
もう少し前提をご説明したあとでご紹介しますね。
(冒頭の写真は1920年代のアメリカ製の背広、非ドレープ型です)