人生道中
人生道中
長い人生を、ゆっくり振り返る時期を迎えている。 プラス、マイナス色々あったが、 運の良い事に、私の人生を全体的に見ると、「良い人生であった」と、言える自分は幸せ者だ。
2歳になる前に、母が病死、12歳の時、二歳年上の兄が急死した。 人生の滑り出しは、 砂利道であったとも言えるが、落ち着いて、客観的に人生全体を俯瞰して見ると、「何と幸運な人生であった事よ」と、運の良さに、感謝する気持ちで一杯だ。
偶然にせよ、人との出会いが、人生を形成する。 例えば、仙台市立南小泉小学校時代の級友、節子さん。
割と近所に住んでいたので、 節子さんの家に、良く遊びに行った。 3歳年下の、やんちゃで可愛い弟さんがいた。 農作業に忙しいお父さん、 優しいお母さんのいる幸せな家庭だ。
当時、兄と二人、祖父母の家で生活をしていた私は、 両親が揃っている節子さんの家庭を、心の底で羨ましく思っていた。
ある日曜日の朝、節子さんの家に遊びに行くと、 「これから遊園地に行く所よ。 一緒に行きましょう」と、 誘ってくださった。 もちろん、私はのこのこと、節子さんの家族についていった。
私にとっては、生まれて初めての、大きな遊園地だった。 当時、お小遣いも貰っていなかった私は、 一文無し。 入園料も、昼食代も全て、節子さんのお母さんが、そっと出してくださった。
私の祖父母は、我々孫達を、それなりに可愛がってくださったが、 なにせ70代で、しかも金銭的に余裕がなかった。
社会保障制度など皆無の時代、年老いた祖父が、少ない蓄えと、近くの農家から、農地を少し借りて、我々を食べさせてくれていたので、 遊園地などは、夢のまた夢に過ぎなっかたのだ。
でも、 私は8歳の子供に過ぎなかった。 目を丸くして、遊園地の乗り物に、はしゃいでいた。
小学校2年の時、受け持ちの先生は若い女性で、放課後、 学校の近くに住んでいた先生の赤ちゃんが、母乳を飲むため、子守さんに抱かれて、教室に来た。我々生徒達は、幸せそうな赤ちゃんと、お母さん先生を囲んでいた。
中学時代の先生で、家庭科を教えていた優しい早坂先生の家まで、電話も掛けず、押しかけた事があった。 ラーメンをご馳走になり帰った。
母なし子は、母の面影を、此処彼処に、求めていたのだろう。
当時、男女別学であった宮城県。県立女子高に通い始めた。 初めてのバス通学は、新鮮であった。
当時、 父は家族連れで、私が長年住んでいた、 祖父母の家を改築して、生活していた。
小学時代と異なり、 祖父は亡くなり、兄もあの世に旅立った後の事だ。 父の家族は、二人の娘さんと、関西生まれの美しい奥さん。
複雑な家族関係から、一時的にでも逃れられるバス通学、女子高での生活は楽しかった。 高校2年生の時、新しく英語の先生が配置換えで、我が高校に転勤。 英語の面白さに目覚め、英語の勉強に力を入れた。
英語の先生であるT先生は、 時々教科書から離れて、英語の魅力を、我々女子生徒に分からせようとした。
ある午後の授業、「教科書は閉じて良い」と、先生。 テープレコーダーを回し始める先生。 イギリスの詩人、キーツの朗読が、教室中に広がった。 「ギリシャの壺」と題した詩で、朗読の専門家の素晴らしい音読。
意味は正直言って分からなかったが、 音声の素晴らしさに、つい耳を澄ましていた。 詩の朗読が終わると、先生はその詩のプリントを配り、一行づつ意味を説明してくださった。 その後、再度テープの録音を聴いた。
その授業で、英語を勉強する理由が、少し分かった気持ちになれた。 世界には、色々な文化があり、日本文化と違うが、違うなりに異国には、異国の奥深い文化があり、英語を学ぶ事で、 他国の文化、歴史、風習などを、知る手掛かりになる可能性がある。
その為に、英文法を学び、英語の単語を学んでいるのだ。 それ以来、以前にも増して、英語の勉強に一人で力を入れ始めた。
ーーーーーーーーーーーーー
私にとって、それはそれは大切な祖母の話をしたい。 物心ついた頃、私は宮城県仙台の南小泉にある、祖父母の家に住んでいた。 兄も一緒だった。 冷蔵庫も洗濯機もない時代、二人の手の掛かる孫の世話は、大変だっただろうと思う。
毎日、三食食べさせてくれた祖母。 夏の夕食後、縁側で夕涼み。よく祖母は、私の腕の太さを優しく調べ、「少し太ったね」と、呟いた。
成長盛りの私は、これ以上痩せられないほど、痩せていた。 でも、病気一つしない子供だった。
兄の後を追い、畑や田圃のあぜ道を走り回って遊んだ時もあったので、洋服は泥んこ。 祖母は、手で洗濯して、何時でも、洗い立ての服を着せてくれた。
成長期の私は、つんつるてんになった,
身体に合わないシャツやずぼんを、着ていた。 ズック靴も、 親指を縮めて履くほど小さかったが、靴とは足が痛くなる物と思っていた。 裸足や、 ゴム草履の方が、俄然好きだった。
夏の花火も、縁側に祖母、兄と一緒に座り、木陰から、見える遠くの花火を楽しんだ。 祖父母が、丹精を込めて庭で育てた、トウモロコシを茹で、時々、お腹が一杯になるまで食べた。
運良く、祖母の愛情を十二分に受け、小さかった私は幸せであった。 今でも、 祖父母の、
子供の頃大きく感じた茅葺きの家での、のんびりした生活が懐かしい。
「宿題をしたか」と、怒られる事も無かった。 通信簿も、ごく普通の成績であったが、文句の一言もなく、 ゆったりとした子供時代を過ごせた事を感謝している。
土間があり、水瓶があり、かまどのある生活。私の年代層でも、経験者は少ないと思う。 広い板の間があり、畳の間には掘り炬燵。
床の間のある一番奥の間で、 祖父が和紙綴じの本を正座して読んでいた。 子供心に、祖父の存在は何故か、安心感を与えてくれた。
祖母は濁酒を手作り、祖父の晩酌を世話していた。 祖母の人生は、 家族の為だけに、生きていたような人だ。 自己主張の無い、それでいて、文句も言わない、出来た人間であった。
高校卒業も迫り、大学受験が迫っていたが、 父は「女は大学など行く必要なし」と、私と意見が真っ向から衝突した。
所詮、経済力ゼロの私は、隣の県にある福島大学受験さえ、諦めざるをえなかった。 汽車賃無く、 受験料も払えない という、惨めな体たらく。
地元の東北大学だけは、渋々受けさせてくれたが、 見事に入試に失敗。行き場を無くしてしまった。
運良く、東京で開業医をしていた父の妹である叔母が東京から飛んで来て、私を東京に連れ出してくれた。
「一体、何を勉強したいの。」と、叔母。
「英語」と、蚊の鳴くような声で答える私。
叔母は、神田美土代町にある、YMCA 英語学校の願書を取り寄せ、入学手続きを済ませてくれた。 試験無しで、その英語学校に、入学出来たのだ。
事情があって、専門学校卒業後しばらくして、仙台に戻り、地元の新聞で、日通の宮城野原支店で総務部係長の隣に座る、事務職員職を見つけた。
仕事が終わると、 「鐘と共に去りぬ」という、有難くないニックネームを頂きながらも、バスで急いで、仙台駅近くにある、ユネスコ英語学校に急いだ。
クラスメートは、東北大学の学生であったり、 宮城学院女子大学生、会社員などで、東京で英語を学んできた分、少しは英語に自信を持てたが、 なにせ、他の方々は、大学で難しい学問を専攻している。 専門分野の無い自分は惨めであったが、 英語力で勝負と一人でいきんでいた。
冬になり、数人のクラスメートは、卒業後東京で就職と決まっていた。
再度、私も東京に出たくなり、働いて貯めたお金で、汽車賃を払い、家出同様に上京し、再度、叔母の家に、お世話になる事になってしまった。 運良く、短大の受験締め切り前に、願書を提出、まぐれ当たりで、渋谷にある青山女子短期大学生になった。
卒業後、 千葉県の房総半島にある、館山の中学に、英語教師として赴任、数年後、再度、東京に舞い戻った。
振り返ると、 私が若い頃は、ころころと生活の場を変えてばかりいた。どんな大人になりたいのか分からず、ぐらぐら迷っていた。
新聞の求人広告で仕事を見つけ、下宿先も見つけた。米国の企業で、バイリンガル秘書の仕事についた。
英語力もままならず、英文タイプも失敗が多く、スピードも遅かったが、米国人上司は、秘書を飾りくらいにしか考えていなかったのか、出張の度に、「本を読んでいて良い」 と、東南アジアに出張した。
アメリカ文化センターで、原書を借り、会社で読み、それでも、 当時としては、過分のお給料を頂き、休暇も年に20日、ボーナスは8カ月と言う優遇。
渋谷駅ハチ公前で、夫になる人とも遭遇、 順風満帆の人生だと感じ始めた。 日本で結婚一年後、 アメリカ大陸に引っ越す事に二人で決めた。
独身時代の渋谷生活は、最高であったが、結婚、妊娠と進む内、庭付きの家で、子育てをしたいと思うようになった。
ハワイ経由で、サンディエゴに落ち着いた。軍人さんと結婚していて、サンディエゴに長年住んでいた春子さんが、特に日本から来たばかりの私に優しかった。
帝王切開で入院中も、日本の雑誌、本などを持って、お見舞いに来てくださった。
大学を卒業、就職先も見つからず、何となく大学院に進んだ。
ふと大学音楽部事務職員の勧める鈴木真一先生の英訳書物を読み、涙がこぼれた。 「どの子も育つ、 育て方次第」と、先生。急に私は自分の娘の教育の大切さに目覚めた。
目的のはっきりしなかった大学院を、キッパリと断念、 日本的教育ママに変身した。 4歳はまるでスポンジ。
日本の従姉妹から、送ってもらった小学一年生用教科書の当用漢字、ひらがな、カタカナも、砂が水を吸い取るように、娘の頭に収まった。
私は、東亜研究という地域研究科に属していたが、同じ大学の音楽部で、娘にバイオリンを習わせ始めた。
今思えば、 アリスの警告のお陰で、 米国で経済力をつける重要さに目覚めた事が、人生後半の苦難から、ある程度、私を含め家族を救った
家族の誰かが重病になれば、米国社会では、医療破産が目の前にちらつく昨今、不定期とは言え、退職年限も無く、働き続けられた事は、本当に不幸中の幸いであった。
高校時代から、本の虫と言われるほど、本に齧りついていたが、その陰で、 「女性も独立した経済力を持つべきだ」と、心底思う事が出来、曲がりなりにも、英語力を磨き続けた事が、私を救ってくれた。
生粋のアメリカ人、イギリス人、カナダ人、オーストラリア人程、上手に英語を操れないが、不完全であると自覚する事で、英語の勉強を、続けたい気持ちを、持ち続けている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?