まさかの激震 熊本地震の記録(2016.6.4著)
6月に入った。一人この静かな空間でパソコンに向かっていると未だに、1ヶ月半前のあの出来事が夢だったような不思議な感覚におそわれる。夢?悪夢?でも実際は、熊本の全員が味わった恐怖であり、紛れもない現実である。
4月14日(木)午後9時26分、時計をそれ以前に巻き戻したいという被災者の声を聞く。私もそう思う。平穏だった日常に戻りたいと。黒く凛々しくそびえる熊本城を、そしてあの武者返しの石垣を今一度熊本に返してほしいと。
熊本が傷を負った。重傷である。激震によってあらゆる所が痛めつけられた。もちろん軽傷で済んだ所もあるのだが、熊本の誰もが皆心に傷を受けたのは確かだろう。たった何秒か何十秒かの激震によってこうも広範囲に凄まじく破壊されるものなのか。自然の脅威の前には人はこうも無力なのかと思い知らされた。 それにしてもまさかここ熊本に震度7の地震が起こるなど思ってもみないことであった。前震、本震、2回もだ。その後繰り返される余震に至っては、その回数やゆうに1500回を超え、うっかり達成おめでとうと言ってしまうような数字となった。
今もまだ続く余震、震度6級の地震がまた来るおそれもあると専門家は警鐘を鳴らす。 地図上に見る引っ掻きキズのような活断層の多さからすると、ここ何十年か知っている限りにおいて熊本で大きな地震が無かったことがかえって奇跡にすら思える。それ程熊本いや日本全体が地震列島なんだと今回改めて気づかされた。地面が揺れるその中で生活をする。 なんと恐ろしいことか。どうか鎮まってほしい、もう終わりにしてと願う。
1回目の地震 《M6.5 震度7》
〈4月14日(木)午後9時26分)
近所の長女夫婦が私たちの住むマンションに来て、4人で夕食を済ませくつろいでいた時であった。夫はテレビの近くでコーヒーを飲みながら椅子に座っていた。いきなりの激しい揺れに、立っていた私と長女は夫の傍に駆け寄り、3人固まって揺れが収まるまでその場から動けないでいた。娘婿は少し離れたソファーにいた。 高層階だからなのか、揺れはちょっとやそっとのものではなかった。建物が倒れないようにわざと揺れるような造りになっていると以前聞いた覚えがあった。中に居る者にとってはたまったものではない。今まで全く経験した事の無い凄まじい地震だった。揺れている間は思考停止状態となる。すぐ傍の食器棚からガチャンガチャンと食器が落ちる音がする。私はキャーともヒャーともつかない声を発していた。長く感じた揺れが収まると、辺り一面に物が散らばっていた。長女たちと一緒のときで良かったと思った。夫婦二人だけのときならもっと怖い思いをしたに違いない。一人暮らしの人はさぞ恐ろしかったことだろう。
テレビでは一斉に「熊本県益城町震源マグニチュード6.5、震度7」と地震を伝えている。恐怖冷めやらぬ中それぞれが動き出した。夫はカップで手を切ったようで血が垂れている。 どうしたとまずは傷の手当。痛くは無いと言うが右手中指の付け根が深く切れている。出血が収まるのを待って薬を塗り包帯を巻き応急処置をする。
長女たちはしばらくして自分たちのマンションへ、まずは様子を見てくると言って帰った。長女たちの住むマンションの部屋はここよりも少しだけ低い階にある。連絡が来て、部屋の中の物はほとんど落ちてなかったと知る。もともと私たちとは物の量が違うこともあるが・・・。とにかく今夜は長女たちの所で一緒に寝るように強く誘われる。夫は余震は大したことはないだろうと自分の家で寝ると主張する。心配した長女たちは強性的にも連れて行くと言って、12時頃迎えに来た。と同時、12時3分にまたもや震度6級の地震、もうどうこう言っている場合ではなくなり、慌ててバッグに思いつく物を詰め込み、緊急停止したままのエレベーターを横目に階段で降りて娘の所に避難した。
有難かったのは停電にならなかったこと。初めて長女たちのマンションに泊まることとなった。余震も続いてほとんど眠れず夜が明けた。ベランダに出て外の様子を見下ろすと、近くの小さな公園には人が何人も避難していた。
朝方長女は近くの外科に目の不自由な夫を連れて行ってくれた。夫は指を4針縫って帰って来た。その日は朝から南阿蘇に住む次女も、片道1時間かけて地震後の片付けの手伝いにやって来た。遠いから来なくていいと言うのに、割れた茶碗の写真を見て心配してのことだろう。3人の子どもたちがそれぞれ学校に行っている間の短い時間だけだからと言った。
その時点では南阿蘇はどうということもなく孫たちは学校に行き、次女は俵山トンネルを通って来たのだった。この日の夜に南阿蘇に大被害をもたらす2回目の巨大地震が来ることなど誰も知らなかった。次女は途中ホームセンターに寄り被災ゴミを入れるズタ袋やゴム手袋などを買ってきていた。益城方面の道はことごとく車両侵入禁止のバリケードが設置してあったと、今見てきたことを教えてくれた。
長女と夫が病院から戻ると、私と次女は割れ物だらけの私たちのマンションに移動した。次女は手早く手伝い、帰って行った。長女も後から来てくれて2人でリビン グとキッチンを一緒に片付けた。その夜もまた娘のマンションで寝ることにした。
2回目これが本震 《M7.3 震度7》
〈4月16日(金)午前1時25分)
長女たちのマンションのリビングに寝ていて地震で揺り起こされた。フロアに四つん這いの形で、ただただ左右に前後に振り回されるような激しい揺れの中、どうなるのだろう、この世の終わりかと一瞬思う。物が落ちる音、それに私はウワァーーウワァーーと押し殺したような声を4〜5回発した。かなり長く感じた。前回の地震よりも酷い揺れであった。長女たちの家にいて良かった。そして今回も4人一緒で良かった。私たちのマンションで寝ていたらもっと怖い目に遭っていただろうし、もしかしたら大ケガをしていたかもしれない。地盤も長女たちのマンションのある方がしっかりしていると後で判った。
次女たちは大丈夫だろうか?後に知る事となるのだが、この一瞬に阿蘇大橋が落ち、俵山トンネルが崩れ、阿蘇神社の楼門が倒れた。道路があらゆる所でズタズタになり、家という家が揺れ、壊れ、沢山の人々が被災したのだ。そして熊本のシンボルである熊本城までがこんな悲惨な姿になろうとは・・・。2度の震度7、 何度も繰り返す震度5や6の余震・・・まさか熊本が 『がんばれ熊本』と全国から励まされる被災地になろうとは、露ほどにも思っていなかった。
次女たちは無事だった。車の中に避難したと言った。ついこの前私は、一番上の孫T君の小学校の卒業式に行き、中学校の入学式にも行った。新入生代表で挨拶をするので見に来ないかとのことだったので、次女の姑の運転で南阿蘇まで出かけた。熊本市内から1時間ほどでこの大自然、いつ来てもいい所ねー、素晴らしいねー、などと会話した。次女たちが南阿蘇に惹かれて暮らしているのがなんとなく解る気がした。T君の中学校は3校が合併して新しく出来たばかりの学校だ。入学式のあの体育館が地震後避難所となり、おまけにノロウ イルス患者まで出たと何度もテレビで放映された。後に天皇陛下と皇后陛下がお見舞いに来られたのもその体育館だった。なんという成り行きであろう。いつ誰の身に何が起こるか判らない世の中。それが私たち熊本に現実となって起こってしまった。
次女たちが住む南阿蘇はほとんど孤立状態となった。国道57号線を結ぶ阿蘇大橋と、空港方面から抜ける俵山トンネルが使えなくなった。パソコンで見る画像では、道という道がズタズタで、元通りになるには何年も掛かりそうな崩れかたである。ただグリーンロードと呼ばれる昔のルートはどうにか通れるという。熊本市内までこれまでの倍の時間はかかるが、全くの孤立にならなくて良かった。
次女たちは家の横の畑にテントを張ってその中で何日かを過ごしたらしい。アウトドアが好きな家族で、キャンプ生活は慣れているしランプも寝袋も揃ってい るから大丈夫だという。しかし続く余震で南阿蘇のあちこちで山崩れがあったりして危ない状態である。酷く雨が降るとの予報があり、さらに危険があるかもしれないと感じた次女は、子供3人を連れて県外へ避難することを決断した。学校も休校が続いていたので、しばらくの間子どもたちの為にも地震の恐怖の無い所に行った方がいいと考えたようだ。消防団に入っている次女の夫は残ることとなった。
4月21日、次女たちはわが家に寄って孫たちを預けると、車屋で軽のタイヤを4つとも新しいものに交換して戻ってきた。 兵庫の友だち家族と大阪の従兄夫婦の所におじゃまさせてもらえることになったらしく、準備万端にして出発した。
何か夢中になってスマホをさわっていたので聞くと、南阿蘇の人たちへ向けて支援の情報を集めて発信するSNSページを立ち上げていると言う。そして県外に行くからこそ出来ることをするというような事を言った。真剣に自分に今出来ることをやろうとしていると感じた。現に関西方面にいた10日程の間、次女は人を介して数名の人に会って熊本の地震のことを話す機会を与えられ、新聞にも取り上げて貰っていた。阪神淡路大震災の復興の経験を学びたいということで、それに関わった人とも面会し、後日南阿蘇の行政にも繋げることができたと言っていた。
道路が寸断され観光客が激減して、今後どう復興させていくのか難しいだろうけれど、次女夫婦のように阿蘇の魅力にとらわれ、力強く生きている仲間が何人もいるみたいだ。
南阿蘇が大変な被害を受け、その中で生きている次女のことをつい沢山書いてしまったが、2度目の大地震後の私たちの家の話に戻ろう。
大きい揺れの後少し時間をおいて私たちはマンションを見に行った。マンションの玄関外の大きな柱の土台はガタガタ、エントランスのタイルも剥げ落ちていた。他にもあちこちで地震の爪痕を見ることになった。何日かして要注意の黄色の紙が貼られた。長女のマンションの方がここよりずっと古いのに、建って10年位のこのマンションの方が被害が大きかった。地盤が弱かったのだろう、この辺りの地面が波打っているのが見て取れる。幸い柱や梁には問題なく、倒れる心配はなさそうだ。
わが家の玄関に向かう。外から見た感じは大丈夫そうである。しかし入ってみて驚いた。 足の踏み場もないくらい全ての物が倒れ、メチャクチャの有様であった。靴を履いたまま上がる。よくもこんな大きい重いタンスが動くものだ。何十センチもずれて動いている。仏壇も何もかも散らばって落ちている。1回目で倒れなかった食器棚も倒れ、またもや食器類が割れて散乱している。ほとんどのグラスや陶器が割れてしまった。唖然として悲しいというより、あまりの散らかりっぷりにあっぱれと言いたくもなった。
長女から、無理して片付けたらだめだからねと何度も言われたが、早く片付けたかった。私はこれくらいで凹まないと自分を励ました。電気は付くがエレベーターが使えない。水が出ないのでトイレも流せない。洗濯が出来ない。お風呂にも入れない。当たり前にしていたことが出来なくなった。
わが家から東に5kmほど行った所に住む姉の家や、3kmほど北にある夫の姉の家で、お風呂に入ったり洗濯をさせてもらったりした。私の姉夫婦は自宅前の中学校のグランドでずっと車中泊をしていた。古い木造の家なので怖いと言っていた。
私たちのマンションのエレベーターは地震後何日かで使えるようになった。被災ゴミの袋が沢山になったが、娘婿が全部運び出してくれた。食器棚も割れたので処分した。わが家の被害はこのようなものであった。現在、発災から2カ月足らずでほとんど日常に戻っている。
被災した当初、私は花屋に行って沢山の色とりどりの花を買って帰った。こんな時こそ花に元気を貰いたかった。生花のひまわりやガーベラ、それにバラたちの輝く美しさに慰められた。多くの困難な人がいる。花どころではないと言われるかも知れない。でも自分がまず元気でなくてはと思った。
私たちは幸い避難所に身を寄せることなく日々を過ごすことができた。震源地付近の惨状を知ると気の毒でならない。家に戻れず避難生活を余儀なくされている人がいる。すべてを無くし職を失いローンだけ残った人もいる。ボランティアの人々や周りの人たちに支えられて、気持ちを踏ん張って生きておられる。どうか早く安らぎの日々が来ますようにと心でずっと祈っている。
熊本の施設も多くが被災した。いろんな催し物が未だに出来ないでいる。私の体操教室も夫のプールもまだ再開されていない。6月に入り鶴屋デパートがやっと全館オープンとなった。まだ大きなモールは休業したままである。映画館は唯一、新市街の電気館が1ヶ月も経たない内に再開された。そして今熊本出身の行定監督の『美しい人』が上演されている。私も見に行った。連日満員のようだ。それもそのはず、この映画は何かの力で撮らされたかのようだった。被災寸前の美しい熊本がそこには写っていた。特に熊本城とその石垣が眩しい程に美しかった。
数日前から久しぶりに熊本城がライトアップされている。わが家のマンションから見える本丸御殿も明るい。