これで良いのだ.2020
良い事があっても素直にラッキー!と喜べない。
うわ、何かうまくいかんことあるかもしれない、と自分の痕跡にミスを探したり慎重になってしまう癖がついている。
良い事があれば、それを補うかのように悪い事が訪れて人生は最終的にプラマイゼロになるという私のベーシックプラン。
なんともお得感の無いプランである。
こういう生き方をし、死んで行くとしか思えなかった。
家族に捨られたとか村を焼かれて生き残ったとか、信じていた親友に婚約者を寝取られたとか、そういう暗い過去がある訳ではない。
こんな私が結婚したり子を持ち母になるなど、本当に想像もしたくない程恐ろしい事だった。
そんな素晴らしい出来事がこの身に起きたら、どんな不幸が訪れるのか考えつかなかったから。
さらに結婚生活や子育てに必要不可欠に思える自己肯定感という物が、私の恐怖をより一層大きくした。
自分が自分で良かったと思った事なんか一度も無かったから、こんな卑屈な妻、母を持つ家族は可哀想だと思った。
つまる所自分に自信がないのだ。
マネキンが可愛く着こなしていたワンピースも、家に帰って見ると何だかダサく見える。
自分のものになった瞬間にそれは魅力を無くす。
私なんかがすんませんを基本姿勢として生きていた。
そうした姿勢は誰にも私を助けさせなかったし、自己責任と自己解決を背中に背負って生きていた。
誰かが自分を馬鹿にして笑っている気がしていた。
しかしとんでもなく性格が良い夫と出会い結婚した事によって事態は急変した。
付き合い始めてすぐ一緒に暮らす事になったのだが、夫は逐一褒めてくる男だった
夜ふかしした次の日朝起きただけで褒められたし、会社帰りにスーパーに寄り、簡単な料理を作るだけで、独裁者を倒し国を救ったかの如く褒められた。
さらに私を見守り助け、何かにつけて私を喜ばせようとした。
先回りして優しくされる事や、褒めてもらうことが私にとっては苦痛でしかたなかった。
駄目な奴だと馬鹿にされているとすら思った。
なんで褒めてもらったり優しくしてもらえてるのか、本当にわからなかったから。
馬鹿にしているのかと聞くと、大層驚いた顔をした。
その驚いた顔を見てなぜか思い出した中学時代の先生。
ヤンキーと仲が良くて、少し苦手だった先生にいわれた言葉。
自分の事を好きじゃないうちは誰も自分を好きになってくれない。
聞いた時には意味がわからなかった。
なるほど自分を好きじゃないとこういう事が起きるのかと10年以上の時間が経ってから納得してしまった。
しかし怒らせる事はあっても嫌われる事は無かった。
あなたは何か捻くれてるねと言われながら、私はゆるゆると過ごし、彼の優しさに世話され褒められる事が日常になった。
一緒に選んだカーテンはいつまでたってもダサく見えないし、買ったシャツも可愛いままだった。
私の選択は夫によって肯定され続けた。
本当に生きやすくなった。
息がしやすくなった。
自分自身を肯定する事はこんなにも素晴らしいのかと知った。
バカボンのパパのセリフ、これで良いのだに深く感動した。
そんなこんなでのびのび健やかに妊娠した。
とんでもない事をしでかしてしまったと怖くなった。
おめでたい事に間違いないはずなのに涙が止まらなかった。
こんな自分がこの子の親だなんて、ただただ申し訳なかった。
怖かったし逃げたかった。
そんな自分が恥ずかしくて情けなかった。
自信なんてどこを探しても無くなってしまっていた。
ゾンビのように床を這い回る悪阻を乗り越え、ブルーインパルス並みの情緒の乱高下をやり過ごし、寝返りも打てない臨月を迎え、その間も夫はせっせと私の世話をしモチベーションを上げ続けた。そしてようやく出産の時が来た。
初めて見た息子は、とんでもなくびっくりする程可愛かった。0.01にも満たない新生児にも劣る裸眼視力を持ってしても、シルエットだけでもうとにかく可愛かった。
分娩室を出るといつも朗らかであまり表情の変わらない夫が泣いていた。
出産が怖いと夜通し泣いた時も、口論がヒートアップきた時も、ほとんど表情を変えずに聖母の如く対応してくれたあの夫が。
涙を拭こうともしない夫に何とか笑って欲しくて、赤ちゃん見た?可愛かった?と話しかけると、私の手を弱々しく握り、ありがとうありがとうと何度も呟いた。涙が手にぽたぽた落ちるのを見て、この人の子供を産めて良かったと思った。
このシーンを思い出すだけで、10秒かからず泣けるので何かの機会に役立たせたいと思う。
産後の興奮が静まって来る頃、あんなに可愛い子とこれからずっと一緒なんだという喜びを吸い込んでたぷたぷしていた。
たくさんの大変な事と目が回るような忙しさがわたしを通り過ぎて、息子は1歳になった。
相変わらず可愛い。
夫も常に優しく労ってくれるし、良い父親として日々育児に奮闘している。
最近では驚く事にあんなに可愛い息子を産んで、育てている私は捨てたもんじゃないと思えるようになった。
そうなってくると夫も息子もちろん、私ですらが素晴らしい存在としか思えなくなって来た。
友人達に見た自信は、子を可愛いと思ったり、家族に褒められたり喜ばせたりする事を通して湧き上がる物なのだろうか
そういうものをまるっと引っくるめて愛と呼ぶのではないか。
そうだとしたら愛は本当に素晴らしいものだ。
息子が私を見つめる目がキラキラしている。
そんな風に見つめられると好きになるしかないじゃないか。
ためらいも遠慮も微塵もまとわず、私の膝に身を投げ出す息子の重さ。
子育てを辞書で引くと出てくるような表現だが、息子を通して色々な事を学んでいる。
素直で優しく嘘をつかない夫と、少々髪が薄くよく食べよく眠る可愛い息子が私の側に居てくれる事に変わりは無いのだから、まずは目の前にある日々を楽しもう。そしてまた自信を作っていけば良いのだ。
こう考えられる程に私の中に確固たる物が産まれている事に気付いた。大きく息を吸って吐いている。
この文章は息子と夫がすやすやと眠る家のリビングで書いている。
明日はどうなるかわからないけど、今この瞬間は私の家族は私を好きで私も彼らが大好きだ。
そう言い切れる事が本当に嬉しい、産まれて来て良かった。
これで良いのだと出来るだけ多く言えるような人生を送れますように。