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事の始まり

遺産相続についての調停、裁判ですから、事の始まりは母が亡くなった事です。母は長きに渡り(私を出産した時から)統合失調症を患っていましたが、身体は健康でした。それが、思いも寄らず感染症からわずか2週間で逝ってしまいました。

母と私の二人暮らしで、母は私の生活の中心であり、病んでいても私たちは親子として幸せに暮らしていました。葬儀が慌ただしく終わった後、母がいなくなった家で、ただ一人堪え難い喪失感の中で、眠れない食べれない状況でした。

そんな中、姉が早速、母の預金を調べ始めていました。8年前に父が亡くなり、母が相続したものなどあります。また、後から父のことは書きますが、度を越した倹約家で、お金はあるのに、家の中はひどい状態でした。床が抜けたままの所に板をのせて工事もしていない、カーテンは何十年も同じものが汚れてしかも破れたままでした。母は服も長年買ってもらっていなかったので、父亡き後は、「お父さん、ありがとう!」と家のリフォーム、床暖を入れたり、門扉を作り直したり、母のお洋服を買ったり、とこれまで我慢していたことが溢れ出すように、生活を変えました。姉も時おり、家に来ていましたし、リフォームやカーテンを変えたり、母の新しい服なども見ています。

母が亡くなって四九日までの七日七日のお坊さまが家に来てくださってのお参りの2回目でしょうか、だから母が亡くなって2週間後、お参りに家に来たかと思ったら、預金が減っていると言い始めました。えっ、今その話?お母さんまだ、亡くなったばっかりだよ。どんどんと姉の態度が硬化していき、四十九日の法要の前には、遺産分割の話をし出しています。私が悲しみくれている間に、サッサと実家を不動産査定に出して、通帳残高を調べ上げ、姉が言う遺産分割内容で承諾しろと言うのです。

四十九日の法要の準備は私が一人で、お店を予約し、引出物を用意し、親戚に挨拶状を出しています。父が亡くなった時も、法要の準備はいつも私一人でやっていて、姉は姪も連れて出席するものの、香典も持ってきたことがありません。家の内輪の人間として準備を手伝いすることもなく、外に出た人として香典を包む訳でもないのです。一体どういう神経なのかわかりませんが、そこを指摘すると逆上すると思うので、ずっと言わない出来ました。

しかし、母の四十九日は壮絶でした。四十九日の当日朝に、家に行くから遺産分割の話をすると携帯からメールが来ました。メールの文章の中に「何故急いでいるかと言うと、いい家が出ているから決めたい。この家が買えなかったら、あんたのせいだ」とありました。恐ろしい。母が亡くなって1ヶ月のうちに、買う家まで調べてい流、正気の沙汰ではないです。

四十九日は、母の弔いの為に親戚に集まってもらう法事です、先にお寺さんに行ってお迎えする支度もあります。そういうことがわかっていない人なので、どう返事をしてもダメだろうとそのままにしておきました。朝来たら、法事に間に合うよう動くよう話すしかありません。

四十九日当日、姉は来ませんでした。お寺さんに行き、集まってくださる親戚にお茶を出したりしていると、姉が来ました。親戚が集まってる中で携帯で誰かに電話しており「ええ、皆さんに力をお借りして」と話しています。法要が終わり、会食の席に移動しました。父の時と同じく「木曽路」にしました。食事がまだ半分も進まないうちに、姉にトイレに呼ばれ、遺産協議書を作ってきたから、今ここで印をつけ、と言います。今、見たばかりの遺産協議書をこんなところで判断出来ない、と言うと、「じゃあ、いいわ、親戚にみんな言ってやる」と席に戻りました。

席に着くやいないや、預金を調べたら、こんなに減っている、と分厚い資料を持ち出して、私を非難し始めました。親戚は箸も止まり、皆、押し黙っています。姉が「変な空気の人」というのは、みんな、なんとなく感じていたと思います。「そういうことは判断出来ない」「今、話すことではない」と言ってくれる親戚もいましたが、もう会食は台無しです、姉もおさまりがつかなくなっています。

私が、「すみません、ここで散会にさせてください」と言ってお開きにし、親戚が食事も途中で皆さん席を立ちます。姉はギャーギャーと叫び出し「他にもお客さんがみえるので迷惑になるからやめよう」と言っても騒ぎ立ててやめません。

姉は置いておいて、用意した引出物を皆さんに渡さねばと、出口に向かい、お渡ししていると姉が追ってきて騒いだ、ついには床に転げだし、はぁはぁっと息をしています、お店の女将さんが過呼吸だったらいけないから、と救急車を呼び、姉を抱えてくれて「大変だったねぇ」と声をかけてくれたら、「女将さんはわかってくれる」と途端に収まりました。もう意味不明です。過呼吸ってそれでおさまるものなの? 救急車は到着してしまいました。駐車場にとどまっていた親戚がみんな様子を見ています。「もう大丈夫ですから、すみませんでした。」と言って頭を下げ、お帰りにいただきました。その後は、もうどう帰ったか自分でも覚えていません。

翌日、親戚皆さんに電話をしてお詫びし、叔母さんには、四十九日の席で言う話じゃない、とも言われました。姉の正気じゃない沙汰を見て、専門家に相談してね、ほんと事件になっても行けないから、とも。

この翌年は1周忌になるのですが、準備をし案内状を出しましたが、母の親戚からは全員欠席の返事でした。もう、かかわりたくないということです。

姉には大事なものが見えていないのです。そして、この4ヶ月後に突然、遺産分割についての調停の連絡が裁判所から届きました。

#遺産相続争い # 病んでる #四十九日 #大人の発達障害  

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