【Dr.Izzy Report】純情性順序主義の別解を求めて
この記事は、ナツさん(@unfinisheddaisy)主催の文章企画「Dr.Izzy Report」の参加にあたって執筆したものです。まずは、楽しい企画を考えてくださったナツさんに多大なる感謝を。
↑詳細はこちらから
※はじめに
この記事は、本企画の「全員一斉投稿」「全12記事をどのような順番で読むかが人によってバラバラ」という性質に肖り、この記事を何番目に読むかで内容がまるごと変わる仕様になっています。
例えば、既に他の参加者様の記事を2本読んだという方は、ここは3番目に来た記事ですから、3番目に読む方専用の箇所だけをお読みください。一度に全て読むことは推奨しておりません。
下の目次より、該当の箇所に飛ぶことが出来ます。
全ての記事を通しで読むことの面白さや、それを何周もする楽しさを感じていただく一助になれば幸いです。
楽曲は「シュガーソングとビターステップ」。
それでは、
全12本のうち、この記事を──
1番目に読む方
Who is the doctor?
We call it "Dr.Izzy".
What is Dr.Izzy's specialty?
Anatomy.
…Does that mean he can choose where to expose?
Also where to hide.
Now
Umm…I can't understand what he is thinking!
The words he uses are too difficult!
But one thing is certain.
…What?
I think that he──
──no, "they" just love to──
──sing a song and beat a step.
彼らの言っていることは、依然よく分からない。一聴どころではないほど聴き続けて7年が経ったが、それは変わらなかった。
あの時、南南西を目指す彼らを、多くの人が見つけた。
いや、多くの人が見つけたのは、彼らではなく、彼らの曲だったのかもしれない。
そこに準えるように生きることも出来ただろう。でも、彼らはそれをしなかった。
彼らは、彼らであることを選んだ。
どうせ正論にならないのなら、
今日くらいは、稚拙が極まったとしても言葉にしよう。
報告書は、一気に出揃った。
"Dr.Izzy Report"
Start to read!!!
END1「Introduction Now! ー 多発性報告主義」
2番目に読む方
アルバムにおいてもライブにおいても、ユニゾンの曲順構成には一定の傾向がある。1曲目で意外性を突いてこちらを困惑させてから、2曲目で十八番を叩きつけて一気に盛り上げるやり方は、ユニゾンファンなら誰しも身体に覚えのあることだろう。
本企画2番目の報告書に「シュガーソングとビターステップ」を選んだあなたは、ユニゾンのこういう揺さぶり方が無意識レベルで身についている方である。なにせ「Dr.Izzy」の全12曲のうち高頻度でライブ演奏されるのはこの曲くらいだ、定番曲は2番目にいてほしいと願う方がここにたどり着くのは、自然の摂理と言っても過言ではない。過言かも。
ということで、とりわけライブが好きそうなあなたには、「シュガーソングとビターステップ」がこれまでのライブでいかにして使われてきたか、という記事を読んでいただきたい。
それではまず、「シュガーソングとビターステップ」がこれまでのライブにおいてセトリ上のどこに位置してきたかをまとめてみた。範囲は2022年までとし、全てワンマンツアー(FC限定ライブを除く)に絞ることとする。
ワンマンツアーにおけるシュガビタの初披露は、2015年から2016年にかけて開催された「プログラムcontinued」(だと思っているのですが間違っていたらご指摘ください、この頃ユニゾンのユの字も知らなかったもので……)。
この頃のシュガビタといえば、もう人気の絶頂もいいところだっただろう。驚天動地のごとくバズり散らかし、それをきっかけにユニゾンファンになった人も多い……そんなタイミングでのワンマン。
当然、シュガビタの使いどころには気を遣うだろう。
「Catcher In The Spy」などを経て「別に見つからなくていいです」のスタンスを確立した後のユニゾンにとって、「自分たちの曲が見つかった」という事実は、手放しに喜べばいいようなものではなく、冷静に対処すべき課題としての側面も持ち併せていたはずだ。
では、そんな「見つかった曲」を、ライブでどうやればいいのか? いや、それ以前に、ライブでやるのか? やらないのか?
ここで安易に逆張って「やらない」を選択しないところ、そして、あえてライブ終盤の一番盛り上がる場所に配置したところに、セトリおじさんこと田淵智也の慧眼と誇りが見える。
このような方針を取った理由として私が考えられるのは、将来的な本楽曲の運用をこの時から見据えていたから。
例えば、ここで「シュガーソングとビターステップ」を「封印」したとしたら。そして、ほとぼりが冷めたころにようやく解禁したとしたら。
解禁されたそのツアーでは、確かに湧き上がること間違いなしだろう。が、であると同時に、それ以降のライブでも頻繁に演奏することはしづらいはず。シュガビタに一度「希少性」という属性が付与された以上、それを頻繁にやられると、オーディエンス側としてはなんというか……小粋さが失われた、みたいな感じを覚えるかも、と思う。毎年夏にしか販売されない期間限定アイスが恒常販売になったら、「いや……えっと……夏に食べるからこそグッとくるみたいなところ、ありません……?」的な感情になるのと大体同じである。映画を映画館で見ることに興味がないタイプの方々にはあまり理解されないかもしれないが、TとPとOが合わさるからこその情緒深さというのは確実に存在する。
ユニゾンはいつも「よくやる曲」と「なかなかやらん曲」の演奏バランスが凄まじく、それがライブ特有の揺さぶられる感覚を覚えるのに貢献していると思うのだが、どの曲を頻繁にやり、どの曲をやらないで溜めておくか、そのコントロール権は田淵にある。「やらん曲」をある程度意図的に作ることで、いざやったときの驚きを生み出す。全ては彼の手のひらの上である。
そんな中で、田淵はこの曲を端から「やる曲」側に分類するつもりだったのかもしれない。曲調といい歌詞といい、何もかもがユニゾンの王道である本曲は、確かに「やる曲」向きである。
だからこそ、何年経っても演奏している曲としての運用を見据えて、希少性を生むような扱いはしたくなかったのではないだろうか。
……と、この理論でいくと、「プロコンツアーで演奏した意味」としてはざっくり理屈が通るが、「わざわざ終盤のめちゃくちゃいい位置で演奏した意味」の説明としては少し不十分である。
このツアーに実際に行った人、または「Dr.Izzy」の限定版ライブ音源CDを聴いた人なら分かると思うが、なんとこのライブのシュガビタ、専用セッションまでついた挙句、斎藤さんによる曲名コールまでおっぱじめてしまう。
あまりにもお誂え向きなこの待遇、やもすると「売れたから大事にしてるのかな」といらぬ邪推もされかねない(まあ物好きはそんなこと思わないだろうけども)。
しかし、ここまで豪華仕様にした歴史は、今になって思うととても重要だったように思う。
プロコン後のツアーを見ていくと、しばらく終盤の盛り上げ係として活躍したのち、「MODE MOOD MODE」ツアーでは2曲目の「フルカラープログラム」と合わせて序盤の起爆剤として用いられているほか、「kaleido proud fiesta」ではついに本編でやらずアンコール行きとなっている。何なら「Normal」では、B面ツアーやリバイバルツアーのように楽曲縛りがあるわけでもないのに演奏されない。(Normalのセトリに関してはコロナ禍の影響もあったと思うが、もしコロナがなかったらPatrick Vegeeツアーは同期音源無しのライブになっていたらしいので、どのみちシュガビタをやらないワンマンはいつか行われていた)
今やシュガビタの使われ方というのは変幻自在、どこにどんな風に置いても、何なら置かなくても、ユニゾンのライブは楽しくカッコよく決まる。
「シュガーソングとビターステップ」をどう使うかをユニゾン側が操り、客側も「ここでシュガビタか!」みたいに楽しむことが出来るのだ。
この一連のプロセスを振り返ると、「シュガーソングとビターステップ」は、既に「シュガーソングとビターステップ」から「UNISON SQUARE GARDENの『シュガーソングとビターステップ』」になれたのだなと感じる。
シュガビタが大いに流行り、「ユニゾン」よりも「シュガビタ」の名が轟いてきた頃に、あえてシュガビタを盛大に鳴らす。ワンマンツアーで繰り返し演奏し、鉄板の楽曲にする。「やる曲」であることを貫く。そうすることで、「シュガーソングとビターステップ」の認識を、「売れた曲」から「ユニゾンの定番曲」に取り戻させる。
シュガビタが純粋に「ユニゾンの曲」として機能することで、ワンマンライブという閉鎖的空間における秘密基地感の向上や、セトリにおける使い方の幅の拡張などの効果が得られるのだ。
また、武道館ライブで演奏された「シュガーソングとビターステップ」に関してはもともとやる予定がなかったらしい。これは、記念ライブは前からのファン、つまり端からシュガビタをユニゾンの曲と認識している層が多いはずなので、演奏しなくても別に「封印」にはならないと判断して演奏しない選択をしたのではないだろうか。まあ結果的にしたけども。
なお、フェスでほぼ100%シュガビタが演奏されることに関して、こっちはわりと割り切ってやっていそうである。彼らの主戦場はライブハウスとかだし。フェスは大勢が盛り上がること(と、そんな中にぽつぽついる物好きを突然驚かせること)を考えてセトリを決めていると見ていいだろう。
と、ここまでのことをプロコンツアー時点で計算していても田淵なら不思議ではないし、していなかったとしても感覚でつかんでいそうだから恐ろしい。
かくして、「シュガーソングとビターステップ」は、今もなお「ユニゾンの代表曲」としてファンを魅了するのである。
*
いかがだっただろうか。これまでも幾度となくシュガビタの使われ方に膝を打ってきた身として報告書を書いてみたが、楽しんでいただけたなら幸いである。
先述した通り、この記事は、全12本の企画記事のうち何番目に読むかで内容が変わる仕組みになっているので、残り10本を堪能した後のネクスト周回では、ぜひ違う順番で読んでみてほしい。Report、論文は、何回も読んで精査するものだし。あ違います粗を探せって意味じゃないです許してください学会追い出されちゃう
あと誤解無きよう先に言っておくと、今回あなたが読んだものはそこそこカロリーの高い内容だったが、別の順番で読むともの凄く浅い内容かもしれないので、絶対にこういう感じのが読めるわけではないことをご容赦願いたい。
それでは、ページをめくってきた手は、次の報告書に持ち替えて。
続いて解剖する楽曲の名は──ぜひ、あなた自身の手でお選びください!
END2「they regained it ー 帰属性高揚主義」
3番目に読む方
本企画の3番目にこの報告書を選んだあなたは、おそらくアルバムの曲順通りに読み進めている方である。やはりアルバムとは曲順も含めた美学、それを辿るようなリポートの読み方こそが至高、と。わかる。
アーティスト側が考えに考え抜いた順番、そこに肖って聴けばまず間違いない。奇を衒ったアプローチが楽しいのは、確立された常道の存在が前提にあるからである。正攻法には正攻法たる所以があることを忘れてはならないのだ。
王道を何よりも大事にするそんなあなたには、こちらも真っ向勝負で挑まなければならない。変な角度からのアプローチはせず、たた単純に、私なりの歌詞解釈を書き散らしていく所存である。
シュガビタの歌詞解釈なんざ今更感もあるし、多分Googleで「シュガーソングとビターステップ 歌詞 意味」とかで調べれば求めているものは大体得られるので、2023年に私がそれを投稿する意味って傍から見るとぶっちゃけないのだが、私がやりたいので……ご容赦。
「シュガーソングとビターステップ 歌詞 意味」で調べたことのある人にとっては「もう聞いたことあるよその解釈……」になること必至だが、なんというかその、見逃して!
*
※以下では表現の都合上、断定したような文体が目立ちますが、そのようなつもりはないことをご理解ください。
「超天変地異みたいな狂騒」、よく分からないが状況はカオスなことになっていそうだ。だが、長期的な混沌からはやがて秩序が見い出される。狂騒が日常になったとき、まるでそれが平和だと錯覚する。
「rambling」は「まとまりがない」とか「とりとめのない」みたいな意味。とりとめのないコースター。ただ冗漫(実際は狂騒)に揺れるだけの日常を過ごしながら、それでも見失えないものとは何だろう。
日常の中では、我々が知らないだけで、色んなところで色んなことが起きている。人間は、それを都合よく見たり見なかったりして日々を過ごしている。だからこそ、能動意志で以て「見失えない」と言い切れるようなものが欲しい。
「平等性原理主義」は、「誰もが等しく同じ原理(≒価値観)のもとにあるという考え方」。
本当は皆違う人間のはずなのに、平等性原理主義のはたらいている世界にひとたび順応してしまえば、心はまるでエトセトラになる。エトセトラは「等々」という意味。あらゆる事を「等々」でひとくくりにすれば、みんな同じ「等々」仲間。思考を停止して、自分がなくなっていく。
そんな風に、本当は自分が何が嫌いで何が好きなのか、それすら言葉に出来なくなったら、その自分に意志があると言えるだろうか? 実は、意志のない人形と何ら変わらないのではないか?
夜の街を歩く人々も、ぱっと見はみんな同じに見えても、本当は全員違う。嬉しそうにしてる人もいれば、寂しそうにしている人もいる。
人の集まりとは、本来単色ではなく、コントラストなのだ。
そんな人間の機微や生活の切れ端たちは、時折「歌」や「リズム」を生み出すきっかけになる。歌詞になったり、ギターの音色になったり……。そうやってコントラストは、五線譜を動く「音楽」になる。
ママレードのような苦みのあとはシュガーのような甘味、かと思えばピーナッツのような甘味が来て、次にビターな苦み……。日常は、甘いことが起きたと思ったら苦いことが起きたりして、目まぐるしい。
そんなことだから、自分の視界にコリオリ力が生じる。風が地球の自転のせいで斜めに曲がって偏西風や貿易風になるように、真っすぐ南を目指して進みたくても、甘くて苦い日常のせいで目が回って、少し南からずれた南南西に進んでしまう。でも、その事実すら愛してしまえばいい。パーティのように、楽しく南南西に進めばいい。一般的に切なく虚しいと思われるはずの事実を楽しむその様は、やがて世界中を驚かせるだろう。
そんな上々気分が誰かに伝わって、伝わった誰かがまた上々気分を伝えて──そうやって幸せが連鎖して、反射して、輝くといい。
蓋然性は「ある事柄が起こりうることがある程度確からしい状態」。蓋然性合理主義とは、「成功可能性の高いことしかやらないという合理的な考え方」といったところか。
それは確かに「正論」だけれど、例えばそれをするあまり、売れる音楽だけを作るようになってしまったら、その音楽は「道具」になってしまうのではないか?
そんな「道具」ばかりを注目、評価するよりも、道具ではない音楽をやっている自分たちの方を向いてほしい。背を向けないでほしい。けど、そんな嘆きは、世界にとってみれば全く「正論」ではない。世界は、蓋然性合理主義のもとで動いているから。
宵街は暗いから「みんな同じに見える」、けど「実はそれぞれ違う」。それに対し、祭囃子は明るい。「みんなの顔が違って見える」。ある人は昂っているし、ある人は泣き出してしまう。それぞれの違いがよく分かる。
けど、それって本当は、何かが同じなのだ。
では何が同じなのか?
それを言葉にするのは至難の業である。あまりにも稚拙な言葉でしか、その正体を説明できないから。
甘さも苦さも、どちらも人生で、どちらも最高だ。どちらも幸せだ。
そう思えることが出来たなら、それが死ねない理由になる。普通なら死にたくなるような状況でも、それすら愛せたなら、死ぬ理由が無くなる。
だが、そんな最高な人生のうちの一日も、惜しむ暇なく過ぎていく。昨日は終わって今日が来て、今日が終わって明日になる。時間の進む速さはいつだって一定だ。否応なしに、あわただしく次の日が来てしまう。
天気というのは、日を跨ぐたび変わっていく。そして、天気予報は時に当てにならない。明日は晴れになると予報が出ていたのに、実際は豪雨だったりもする。
では、実際に雨が篠突く様を見て、晴れの予報を変えないでいていいだろうか。そんなはずはない。雨が降ったなら、雨が降ったときちんと認めて、正しい情報に修正すべきだ。
ところで、人の脳内で起きる気分の変化も、天気のようなものである。晴れ晴れとした気分、どこか曇った気分、雨のような悲しい気分……。そんな自分の「脳内天気」の予測もまた、よく外れるものだ。
だからこそ、楽しい気分のはずだったのに悲しい気分になった、なんてときは、悲しくなっている自分をきちんと受け止めて、脳内天気を晴れから雨にアップデートした方がいい。言い聞かせるように晴れのふりをしていたら、ずぶ濡れて風邪を引いてしまう。
逆に、今はうんと悲しむべきだとか、苦しむべきだとか考えている最中で、急に楽しさが舞い込んでくることもある。その時は、やっぱり雨から晴れにアップデートすべきだ。雨のふりをしていたら、濡れた服を乾かそうとも思えないから。
ここまで話してきたのは、平等性原理主義や蓋然性合理主義が取り巻く世界での話だ。
ではいつか、もはや日常になってしまった狂騒が鳴りを潜め、平等性原理主義のない世界になったとしたら?
いつか、蓋然性合理主義という正論が廃れて、道具ではない音楽の在り方が主流になったとしたら?
関係ない。そんなことより、歌と踊りを感じている。音楽を鳴らし続けることが、「僕たち」を──例えば、「UNISON SQUARE GARDEN」を「UNISON SQUARE GARDEN」たらしめる証明になる!
音楽。証明は、それだけで十分である。
甘さや苦さを愛して、死ねない理由にするどころか、生きていきたいと思う理由にさえして。
南南西に歩き続けて振り返れば、北北東は遥か後ろに。歩いてきたその距離が誇らしい。
これからも、楽しく自分たちを貫いて、その姿を見せつけて、世界中を驚かせていこう。
だから、
甘い一興がやってきて去っては、苦い一難がやってきて去って、また甘い一興が。
そんな風にして、人生は、目まぐるしいままで続いていくのだ。
*
と、勢いで書き殴ってみたが、いかがだっただろうか。個人的に南南西に関しての解釈は他で見たことがない気がするのだが、それ以外はまあ、これを読んでいる人にとってはだいたい聞いたことあるような話だったとは思う。
にもかかわらずここまで読んでくださった方に、まずは大きな感謝を。
さて、この記事を3番目に読んだあなたが次に読むのは、やっぱりアルバムの4曲目であるマイn……いや、そうとは限らないか。
ともかく、「シュガーソングとビターステップ」の報告書は、これにて終了である。次の報告書に進もう。残り9本、なかなかのハードスケジュールだが、絶対に楽しいということは(ナツさんが)保障する。甘いジュースでも飲みながら頑張って!
END3「life goes on ー 転向性幸福主義」
4番目に読む方
この報告書を4番目に読もうと決めたあなたは、なかなかいい性格をしている。曲順通りに読むなら3番目に来るだろうし、そうでなくても1番目とか2番目、あるいは11、12番目あたりに読む人が多いと思われる中で、4て。その、常道からちょっと外れたアプローチをしてくるあたりは、確かにユニゾン好きならではかもしれない。え?
そんなひねくれ者のあなたには、こちらもひねくれで返すのが礼法というもの。ひねくれ者が素直に「シュガーソングとビターステップ」の歌詞解釈をする記事とかを読めると思ったら大間違いである。もはやアルバムのことは放棄し、2021年リリースの楽曲「Nihil Pip Viper」とシュガビタの関連性について書き殴るのが本内容だ。
アルバムリレー企画でそんなことしていいのかって? 締め付けてやるぜ(逆ギレ)
*
さて、最近9枚目のアルバムにも収録され、名前に(album mix)とかいう追加パーツまで貰った「Nihil Pip Viper」だが、その歌詞の中には、どこか「シュガーソングとビターステップ」を想起させるような語句が登場する。
一番分かりやすいのは、なんといってもこれだろう。
「蓋然性合理主義」とかいう、パソコンに詳しい幼稚園児が見たら「文字化けかな?」と思うようなこのフレーズを見て、シュガビタがピンと浮かばない人はまずいない。シュガビタといえばこの言葉と言っても過言ではないくらいだ。また、ライブの際に田淵が独特のポーズをとる箇所でもあり、名を「蓋然性合理主義ポーズ」と呼ばれているほどである。パソコンに詳しい幼稚園児って何?
そんな蓋然性合理主義(←打つのだるい)とは、そもそもいったいどういう意味なのか? それを考えるところから、二者の関係性の糸口を探ってみよう。
手始めに「蓋然性 意味」で検索ボックスにぶち込むと、こういった結果が得られた。
別に意味を知らなったわけじゃないが(むしろ過去に調べたことない人おらんやろ)、改めて説明を読むと、こう……難しい言葉!
だいたい「蓋然性」を説明するのに「蓋然的であること」ってダメだろ普通に。セルフ循環参照やめろ。
と言いたくなるところだが、実は「蓋然的」という言葉は「確実性の度合いがある状態」みたいな意味よりも、「ある程度確かであるさま」みたいな使われ方が一般的である。起こりうるか否かという検討ではなく、単に確率が高いという状態を示すのだ。厄介。
これらを考慮し、「合理主義」とくっつけると……「成功可能性の高いことしかやらないという合理的な考え方」みたいな感じだろうか。
これなら、シュガビタにてこれが「正論」と評されている理由もなるほど納得だ。
しかし、この記事で焦点を当てるべきはシュガーソングとビターステップではなくNihil Pip Viperである(正論)。ニヒルにおける蓋然性合理主義を考えよう。
蛇曰く(読み:じゃいわく しいわくのイントネーションで読もう)、それは「ガキの遊び」。
……結構強い言葉遣うね?
ここにひとつ、シュガビタ時代からの変化が表れている気がする。シュガビタでは、蓋然性合理主義は「正論」だった。自分としては反対だけど無くなることはどうせなさそうな、世界を取り巻いている正論。それが取っ払われることについては、どこか諦めているような感じがする。それも、ちょっと悲しめに。
対してニヒル。なんと「正論」と認めることさえせず、「ガキの遊び」と一蹴する。挙句の果てには「さっさとお家へ帰れ!」である。どうした。
とまあ、語気の強さだけで見ると狂暴化したように見えるが、実際は逆なんだろうと思う。ついさっき「一蹴する」という表現を使ったが、正確には「一笑に付す」くらいのニュアンスが近い気がするのだ。そもそもニヒルが明るい曲調ということも相まって、笑いながら余裕ある感じで対応しているところが想像できる。
シュガビタの頃は、きっと「蓋然性合理主義」は、とにかく真面目に向き合わなければならない現実だったのだろう。けど、自分たちのやりたい音楽を貫くという「僕たちを僕たちたらしめる証明」を確立してから幾重もの歳月が経ち、より大人になった今では、「HAHAHA、蓋然性合理主義? HAHAHA!」くらいのノリで向き合えるようになったのかもしれない。
そう考えると「Nihil Pip Viper」は「シュガーソングとビターステップ」のアンサーソングとは言わないまでも、そこからの年月と成長を感じさせる楽曲に仕上がっていると思える。
「くるくるくるくる」も「甘くて苦くて目が回りそうです」を連想させるし、「知らぬ存ぜぬ言ったもの勝ちかも」は「大嫌い 大好き ちゃんと喋らなきゃ 人形とさして変わらないし」に近しいものを感じる。「全部楽しい」と高らかに謳いあげる様だって、「甘さも苦さもある人生だから楽しいんだ」とでも言いたげなシュガビタのニュアンスを汲んでいるような気がする。
極めつけは「等身大のlife goes on」。「goes on」は無論シュガビタの歌詞だが、「等身大」と聞くと、また別の楽曲が思い浮かぶことだろう。1stアルバム収録「等身大の地球」である。
そしてどうやら「シュガーソングとビターステップ」は、「等身大の地球」をもとに作られた曲らしい。タイアップ先のアニメの監督様が「こういう感じの曲がいい」という要望をする際に出した楽曲なのだそうだ。
つまり、「等身大の地球」がなければ「シュガーソングとビターステップ」はなかったし、「シュガーソングとビターステップ」がなければ「Nihil Pip Viper」はなかったのだ。
とはいえ、同じ人間が書いている歌詞なので、価値観や言葉遣いの癖だったりが同じなのは当たり前で、よってこれらは大概こじつけだとは思う。が、まあ、ひとつの楽曲の見方、楽しみ方のご提案ということでここはひとつ。
*
……「Dr.Izzyってなんだっけ?」という記事をここまで読んでくださったことに、深い感謝と深い謝罪を申し上げます。本当にありがとうございます、「Dr.Izzy Report」なのにすみません……。アルバムのマスターピースである唯一のシングル曲の記事がこれですみません……。書きたくなっちゃったんです……。
そういえば、なんで2021年のタイミングでシュガビタ系譜曲を出したんでしょうね。パトべジツアーで披露するように新曲ストックから一個出してきたという感じらしいので、具体的にこのタイミングで出す!という意志があって作られた曲ではない気がしますが……。シュガビタのアンサーソング(的なもの)を作ることで、等身大とニヒルの中間の歴史としてシュガビタを組み込み、逆説的にシュガビタを「売れた曲」から「ユニゾンの曲」に落ち着かせる役割……とか考えましたが、絶対考えすぎです。
ということで、全編与太話みたいな記事を読み終えたあなたは、今度こそ「Dr.Izzy Report」の真髄に閑話休題です。残り記事は8本、まだまだワクワクが止まりませんね。
それではまた!
END4「I love you, viper ー 関連性発意主義」
5番目に読む方
この報告書を5番目に選んだあなたは、楽曲のカロリー配分が上手い人だ。アルバムで言うところの5曲目といえば「オトノバ中間試験」。次はミディアムテンポのナンバーであることを考えると、ここがブロックの〆と解釈することも出来るかもしれない。
それにしても、〆で高カロリーな「シュガーソングとビターステップ」を選択し、メリハリをつけて第2ブロックへ向かおうとするその精神、実にストイックである。多分ダイエットとか上手い。チートデーとかちゃんと守りそう。
なので(なので?)、5枚目のアルバムでありストイックロックの殿堂「Catcher In The Spy」と「シュガーソングとビターステップ」及び「Dr.Izzy」を比較検討していこうと思う。比較検討って報告書っぽくていいね。
*
結論から言うと、「シュガーソングとビターステップ」は「Catcher In The Spy」(以下CITS)無しでは生まれなかった曲だと思う。
というのも、シュガーソングとビターステップは、今のユニゾンのスタンスを完全に確立するためのラストピースとも言える歌詞をしているのだ。それは、植物でいうところの実。そして、植物の花に当たるのがCITSなのである。
ユニゾンのスタンスといえば、ライブでは煽りをしない、MCも必要最低限、客に楽しみ方を強制しない、エトセトラ……。「一体感とかいらない」という主張が感じられるそれらの行動は、自分のために音楽を楽しむ自分たちからの、自分のために音楽を楽しめというメッセージ。「メッセージ」という言葉がニュアンス的に外へ向きすぎているようなら、「価値観」と言い換えてもいい。流行らなくていい、世界に革命なんて起こせなくていいから、とにかく目の前にある音楽や、それを好いている人たちを大切にする。
彼らの取っているポーズは、おおむねそんな感じのものだ。
だが、ユニゾンは決して、結成当初からこのスタンスだったわけではない。昔のライブ映像やインタビュー、最近の本人らの証言などを見ると、かつての彼らはバチバチに煽ったり、J-POP界に革命を起こしたがっていたことが分かる。4枚目のアルバム「CIDER ROAD」が出来たとき、田淵が「J-POPの偉い人たちが全員土下座しに来る」と思っていたという話は有名だろう。
では、そんな4枚目で実際に土下座は拝めたのかというと、まるでそんなことはなかったらしい。おそらく、これが「じゃあもういいです」という方向に舵を切る要因として大きかったのではないだろうか。
すると5枚目、「どんなヒットソングでも救えない命がある」「流行らないのはもうわかってるよ」などといった、ある意味では開き直った、ある意味では我流を見つけ出した歌詞が連発。終盤の11曲目では、まずもって大衆には理解されないであろうライブスタンスを謳った楽曲が鳴り、極めつけに、それを好んで聞き終えることの出来た人だけがたどり着ける最終トラックの方に、大衆からの理解も得られそうな直球歌詞バラードを持ってくるひねくれ具合。
こうして、ユニゾンは舵を切ったのだ。
しかし、舵を切るだけでは、曲がるだけで進まない。推進力が必要だ。
それこそ、「我々は我々を貫く」という強い宣言や、「音楽を鳴らすことが僕らの証明だ」と言えるような、強い意志という推進力が。
これが「シュガーソングとビターステップ」なのだと思う。
「シュガーソングとビターステップ」は、CITSの凛と燃える雰囲気を完全に前向きな形に再解釈して打ち出した、スタンス確立の最後の1ピースなのである。
では──この強い曲を収録した次のアルバムは、どうなるべきか。
CITSは、「自分たちはこういうスタンスで行きます」と意識的に表明するようなアルバムだ。それまで持っていた革命の夢を覚悟で以て手放して、その手で次の夢を掴みにいくための、意図的な表明。言うなれば、「ユニゾンのスタンス」がテーマのコンセプトアルバム。
なら、次の──「Dr.Izzy」はどうか。意識的にスタイルを改革していこうとしたCITSに対し、このアルバムは、なんというか、完全にスタンスが身についたあとの余裕が出ている。意識しなくても、自然体で動けている感じ。
「Dr.Izzy」は、かくして「シュガーソングとビターステップ」を内包したアルバムとして、最高の形でリリースされた……のかもしれない。
*
ということで今回は、「『Catcher In The Spy』と『シュガーソングとビターステップ』及び『Dr.Izzy』の比較検討」という報告書を提出させていただいた。
ほぼほぼCITSの内容になってしまい、あれ、イジーの企画では……?という疑念も浮かんだことだろうと思うが、勘弁してほしい。たまにはこういうのもね。
あと7記事、全て読み終えるのには時間を要しますが、読み終わったときには「楽しかった」って言うと思います。だって楽しい企画だし。ナツさんの企画は神。
ちなみに、この記事は特殊な仕様なので、よろしければいつかもう一度来ていただけると嬉しいです。
それではまた。
END5「Choose spy! ー 変針性秘密主義」
6番目に読む方
6番目。アルバムで言うところの「マジョリティ・リポート」に位置するこの場所は、ちょっとした休憩ゾーン。肩の力を抜くには適している。
しかし何故なのか、本当に何故なのか、あなたは休憩ゾーンで「シュガーソングとビターステップ」というカロリー爆弾を選択した。だってママレードとシュガーとピーナッツとビターである。カロリーやばいのである。サンドウィッチマンもこれには大号泣である。
5つ記事を読んで、あなたの脳はあなたが思っている以上に疲れていることと思う。けど、それでももっと読みたい……! このお祭り企画を楽しみたい……!
そんなあなたの期待に応えて、今回はいっそのこと「シュガビタを聴きたい場所コンテスト」を開催しようと思う。本当に何一つ真面目に書かないので、ぜひ腰なんか据えず、シナプスゆるゆるで読んでいただければ幸いだ。さすれば疲労はたちまち回復し、まだ見ぬ6本の記事もスイスイ読めるようになります。嘘です疲れたら休んでください記事は逃げません
*
◎エントリーNO.1 バッティングセンター
シュガビタのMVといったらバッティングセンターみたいなところは正直ある。もはや僕が何か言うまでもなく、バッティングセンターに赴いた物好きたちの脳内では十中八九シュガビタが鳴っているに違いない。何なら、ドラムのキメのところでちょうど打てたら気持ちいい!みたいな運ゲー音ゲー要素まで足して、バッティングセンターでの一日を最大限に満喫していることだろう。
であれば、この神聖なるコンテストにバッティングセンターが参加するのは、当たり前のことと言わざるを得ない。ここに行けば、頭の中のウォークマンが勝手に起動してくれるのだから。
(僕はウォークマン触ったことないです 若いので)
おすすめ度 ★★★★★★
◎エントリーNO.2 寝室
こちらもMVからの選抜である。冒頭のやつ。
アラームに曲を設定するとその曲が嫌いになるからやめろという話をよく聞くが、実際本当に大好きなアーティストだったらそんなことないのではないだろうか。僕は一時期「over driver」を目覚ましにしていたが、嫌いになんてなったことがない。それはそれとして目覚めはまあまあ悪いっす
なので、朝を好きな曲で気持ちよく迎えられるという点で、寝起きのベッドで聴くシュガビタには興味が湧く。
だが、もしMVを完全に再現しようとすると、アラームの音で起きてはいけないし、寝坊して時刻を見た挙句、時計をぶん投げて会社へ急がなければならない。流石にそれは嫌です
おすすめ度 ★★★
◎エントリーNO.3 会社
MVからの出場枠ラストはコイツ。
筆者はまだ学生であるが故に会社というものの内情を知らず、偏見でしか判断できないので、実力のほどは未知数である。
この曲を知ってる人は沢山いるので、もし同僚なり先輩なり後輩なりに「何の曲聴いてるの?」と聞かれたときに後ろめたさなく答えることが出来ると思うのだが、そもそも会社で「何の曲聴いてるの?」なんて聴かれるものなのだろうか。いやまず会社で曲って聴いていいんだろうか。分からない。社会が怖い。社会が怖いポイントで減点します。
おすすめ度 ★★
◎エントリーNO.4 お祭会場
(もはや関係ないのに貼るMV)
この場所でシュガビタを聴く意味はただひとつ、「祭囃子のその後で 昂ったままの人 泣き出してしまう人」のシチュエーションを実際に目撃しながら曲を味わえる可能性があることだ。
しかしながら、確率論的に考えると、成功する可能性はかなり低い。とはいえ、1%を2%に上げるくらいのことは、こちらが能動的にはたらきかけることで実現可能かもしれない。1%の差は、ソシャゲにおいては天国と地獄くらい違う。テェンゴクトジィゴクヲカァゾエロォォォォォォォォ!!!!!!!!!!
コツとしては、なるべく視界に映る学生の数が多い位置に行くことである。学生は祭りの日に意中の相手に告白しがちなので、ある人は想いが実った喜びで飛び跳ねたり、ある人は儚い夏の思い出と共にラムネを呷ったりする。そんな光景が一度に観測できるのは、後にも先にもお祭りだけ! お買い得もいいところである。ジャパネットたかたもびっくりのお買い得さである。
が、中には、人前では涙を見せまいとする人種や、嬉しい気持ちを体で表現するのは照れ臭いとする人種も存在する。今は多様性の時代、「成就→昂る」「失意→泣く」のシークエンスがいかなる人にも通用するとは限らない。それに、もし昂ったり泣いたりしてるのを目撃できても、2番Bメロ以外が鳴ってるときだった場合なんかすごい悔しい。全てを完璧なタイミングで体感するのは、本当の本当に至難の業なのだ。
とはいえ、おそらく成功したときの脳汁の分泌量は凄い。多分ふなっしー3つ分くらい分泌するので、チャレンジの意義は十分にある。
おすすめ度 ★★(失敗した場合) ★★★★★★★★(成功した場合)
◎エントリーNO.5 ユニゾンのライブ
はい優勝
おすすめ度 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
◎勝者:ユニゾンのライブ◎
END6「I love you, live ー 自明性摂理主義」
7番目に読む方
これは、「シュガーソングとビターステップ」において、歌詞カードの最後に書かれているフレーズである。
「蓋然性合理主義」などと共に「シュガビタといえば?」な歌詞の代表として数えられるこの一節だが、そもそもこの言葉には、本元となることわざが存在する。言わずもがな、「一難去ってまた一難」だ。
災難がやってきてはまた次の災難がくる、というこのことわざを少しもじり、片方の「一難」を「一興」にすり替えることで、「災難の後は楽しいこと、楽しいことの後は災難、災難の次は……」という、人生における甘さと苦さの繰り返しを示す言葉に変化させている。
こんな風に、元からある言葉を少しいじることで、独自の価値観として再定義したり、あるいは単に語感の良さを整えたりするような作詞を、UNISON SQUARE GARDENのベーシスト、田淵智也はしばしばやる。
それはユニゾン内の楽曲に限らず、彼が外部のアーティストに提供する曲でも高頻度で見かける。恐らく、これは彼の詞を書くときの手癖で、「こういう歌詞好きなんだよ」と誇っているポイントなのだろう。
なので、不意に田淵の書いた詞にそういった表現が入っていても、特に不思議なことはない……のだが。
6枚目のアルバム「Dr.Izzy」だけは、どこか違う気がしてならない。
「Dr.Izzy」に収録されている曲の歌詞には、何かしらの常套句をもじったものがあまりにも多い。
他にもいろいろあるが、とりあえず紹介はこれくらいに。こんな感じで、6枚目のアルバムは妙にこういう表現が多い。
いや、アルバム曲は大抵同じ期間に出来上がる(アルバムツアー中に出来ると田淵はよく言っている)ということを考えると、ただ常套句もじりが特にマイブームだった時代に作った曲が並んでるだけなのだろう。なので、今回の報告書の内容は「Dr.Izzyはなぜこのような歌詞が多いのか」ではなくて、「Dr.Izzyにおいてこういった歌詞が多いことがもたらす効果は何か」である。
「Dr.Izzy」というアルバムは、「シュガーソングとビターステップ」が大きなヒットを叩き出した影響を多少なりとも受けているアルバムである。
このアルバムについて、田淵は「過大評価も過小評価もされたくなかった」と語っている。ユニゾンをユニゾン以上のものに見られるのも、それ以下のものに見られるのも否とした。
そんな作品なので、アルバムを通して聴いたときには、「本当に、好きなことやりたいだけなんだ」と肌で分かるような、心地の良い肩透かし感が脳裏を過ぎていく。
「ただユニゾンがやりたいだけ」の、ユニゾンのアルバム。
だからこそ、歌詞に「ユニゾンらしさ」が多量に出ていると、アルバム全体の雰囲気にマッチするのかもしれない。田淵の誇りある癖で書かれたであろう歌詞は、Dr.Izzyがもつ、外連味とナチュラル感が混ぜ合わさった独特の雰囲気と合致するのだ。
それだけではない。「常套句をもじる」という行為をより抽象化すれば、「前から世間に定着している概念を自分なりにアレンジする」ということ。
その営み自体が、世の中の流れに迎合せずに疑念を持ち、自分らしさを貫くユニゾンの在り方と重なるのである。
思えば、「シュガーソングとビターステップ」が謳っているのは、例えばそういうことではなかったか。
「自分を持つこと」を大切にしてきた彼らが、「これは自分たちです」という顔で出してきたアルバムに散らばる、数多くの変格常套句たち。それは、"一難去ってまた一興"と歌った楽曲がヒットし、その曲がユニゾンの手を離れすぎる前に、「僕らの歌だよ」と改めて自分側に手繰る、ひとつのきっかけになったのかもしれない。また次にもじり歌詞を書いた時に「シュガビタを意識してる」と思われないように。「前からこういうことやってますけど」としっかり言えるように。
流石にそこまですべて見据えているわけではない気がするけど、先人曰く、理屈と膏薬はどこへでも付く。とはいえ、膏薬も塗りすぎると流石に良くないと思うので、このあたりにしておこう。
以上、「シュガーソングとビターステップ」についての報告書かと言われるとかなり微妙なところがあるが、ここはひとつ、アプローチの仕方の一種として何とか許してくれると幸いだ。
さあ、リポートも後半戦。さっそく次を手に取って、あらゆる素敵な思考と言葉に会いに行こう。
END7「j-o-u-t-o-U-k-U ー 自然性加工主義」
8番目に読む方
8という数字は、末広がりの意味を持つ。「「八」の形が「上」(現在の方向)から「下」(末を意味する未来や将来の方向)へ広がり、これが永久的に発展、繁栄、繁盛するから」だそうだ。
そんな数字を選んだあなたは、縁起がいい。多分明日いいことがある。部屋の中で失くした100円玉が出てくる。やったね。
つまり何が言いたいかというと、末広がりのごとく永遠に再生回数を伸ばし続けている、UNISON SQUARE GARDEN「シュガーソングとビターステップ」のMVを、2023年に改めてしっかり見ていこうという話である。
MVとは、アーティストに役者、撮影スタッフに映像スタッフなどなど、あらゆる人が知恵と才能を一堂に集結させて作る、渾身の総合芸術である。じっくり見ないのはわりとちゃんと損。
とはいえ、ユニゾンも今やかなり多くのMVがあり、その中でも好きなやつばかり見てしまうので、シュガビタのMVを見る頻度が正直かなり低くなっているのも事実。ここで、しかと目に焼き付けておこうじゃないか。
あホントTwitterみたいな感じで感想羅列するだけなんで気楽に見てください
*
開幕タカオスズキのドラム もうこの音だけで何の曲が分かる日本人の方が多い(過言)んだからすごい
おはようございます
時計投げた衝撃で乾電池抜けない?
世界一有名なサムネ
何そのポップな電子レンジ ほしい
ベースラインかっけえ 今練習してるけどバカ難しい
斎藤さんがイケメンなのはいつものことだけど、なんかこのMVだけイケメンの種類違わない?いつもとは別種のイケメンだと思う イケメンだ
いってら
大変そう
中空を泳ぐタカオスズキ
単色の空間で重力も分からんくなるのこわ
遅刻連帯責任なんだ
この男性、なんか知ってる人に似てるんだけど誰なのかが分からない
あっこれユニゾンがいるのって女性の心の中なんだ!? 恋でドキドキしてるから暑くなってるのね(たぶん今更)
いや心臓にアンプあんのやばいだろ 拍動だけで近隣住民から苦情来る
ここの音ハメ好きって思ってたら「リプレイ回数が最も多い部分」らしい みんな考えることは一緒
あ~~~~ここで傾いてるのも女性が踊ったからなのね? すげえ
いや本当に今更過ぎる話なんだろうなこれ……しっかり見たことなかったのバレる……
タカオスズキたのしそう
えっ蓋然性合理主義ポーズやっとるやん!!!!!???????ライブだけじゃなかったんこれ!!!!!!!!!???????てかここ発祥だったんだ!?!?!?!?!?!
「こっちを向いてよ 背を向けないでよ」を歌う2Aは徹頭徹尾ユニゾンしか映さないの好き
祭囃子(歩道)
かわいそう
田淵さん!!!今悲しんでるとこ!!!!!
いや、悲しんでいるときだってしっかり人生を生きているという、その命の活動を表現するためにあえて田淵さんは暴れている……
「その格好でそこ行くことあんまない」みたいなシチュエーションっていいですよね
あー、飛んできたボールを打ち返せない=ネガティブな気持ちが跳ね返せずに溜まっていくってことか だからユニゾン側にボールが飛んでくるんだ ボールはモヤモヤの象徴?
モヤモヤボールにびくともしないロックバンド、強すぎる
カラオケで何歌ってんだろ やっぱシュガビタかな 喉通して本人とハモれるのめっちゃコスパ良くていいな
ストレス解消は大事
ベース投げるな
役者を映す箇所とバンドを映す箇所のバランス、上手~
ヘッドホンの登場でシュガビタの歌っている「音楽」に繋がるの気持ちい~~~~~
目が回りそうです(自分が回っているため)
マイクを手放さない斎藤さんってちょっと貴重だな ギターを手放さないのはよく見るけど
でもギター放してめっちゃ手を動かしながら歌うときの斎藤さんもカッコいいからな……。
タカオスズキ楽しそう
こうやって人生は続いていくんだなあ
えっ本当に電池抜けてて草(マジで知らんかった)
時計を戻さないまま終わるのもいいし、なんだかんだ次の日には戻してるんだろうな そうやってまた日常が続いていくんだろうな
*
本当にツイートの感覚でいろいろ書き散らしたが、やってよかった。
ユニゾンのいる空間が女性の心だと気づけたのはかなりでかい。自分の中で「いいMVだな」という感情がより高まった。
なにせ、三人がただ演奏してるだけのリニアブルーとかカオスみたいな映像がどちらかというと好きなもので、あまりドラマ性に焦点を当ててMVを見たことがなかったかもしれない。多分他にも、ドラマ性があるにもかかわらず見逃しているMVあるんだろうな。今度一気見しようかなと思いました。
あと、蓋然性合理主義ポーズの発端がこんな原典にいるとは、というのが一番の驚きポイントでした。ちゃんと見よう。マジで。
それでは、今回の報告書はこれくらいでおしまい。シュガビタというアルバムの中でも大事な大事な一曲のお話がこんなんでいいのか?(自問)
もっと真面目な感じのシュガビタ報告書が見たかったという方は、ぜひ次の周回にて、違う順番でこのページにやってきてください。
今回の周回であなたが読むべき記事は残り4つ。ついに終盤戦です。最後まで楽しみましょう!
僕も皆様の文章を読むことを非常に楽しみにしております。ほら、僕こういうゲテモノ記事だから……ちゃんとしてる記事、読みたいから……。
END8「main video ー 作劇性映像主義」
9番目に読む方
9番目にこの記事を読んだあなたは、最近9という数字を見すぎて無意識のうちに9に惹かれてしまった方である。
今年、UNISON SQUARE GARDENは9枚目のアルバム「Ninth Peel」を発売した。その宣伝施策などでも「9」は積極的に用いられ、我々物好きの脳にはすっかり「9」という数字が刻み込まれてしまった。いまやユニゾンの象徴ともいえる楽曲「シュガーソングとビターステップ」が、今もっともユニゾンを象徴する数「9」と脳内接続されるのは、もうどうしようもないことなのだ。
さて、現在彼らは「Ninth Peel」のアルバムツアーを開催し、そろそろ千秋楽を迎えつつある。
ツアー……ツアー……。
そうだ、シュガーソングとビターステップのシングルツアーのセトリを妄想しよう!!!!!
さながらゆっくり解説のような雑導入だったが、弁解させてほしい。実際、これはずっと個人的にやってみたいと思っていたことなのだ。
というのも、以前私が主催させていただいた妄想セットリスト企画において、この「Dr.Izzy Report」の主催者様であるナツさんに書いていただいたのが、「シュガビタのシングルツアー」というお題なのである。
(↑すごいので読もう タイトルでおや?と思うかもしれませんがリンクは間違ってません)
そんなご縁とご恩があるので、この機会に僕もやってみるか、という気分になった。
特大のセールスを記録したこの楽曲を、いかに誤解のないように主役に据えるか? なんとも難題である。ナツさんのように上手く調理できる気がしないが、いろいろ試行錯誤してみることに。
まず、シュガビタのシングルツアーが開催されたのは、2015年の5月から7月にかけてだと仮定した。武道館も控えた中で発表されたNEWシングルを引っ提げて、全国津々浦々を巡る。
その上で、もしこのツアー・このセトリがあったら、武道館公演やその先のプロコンツアーのセトリも何かしら変わっていただろうなという想定で作った。なので、本来の世界線では武道館・プロコンにて久々に演奏された曲も入っている。
それでは、以上を踏まえて……Live Report「シュガーソング シングルツアー」、始めます。
*
1曲目。なんと初っ端からA面ではなく、その脇にあるB面こと「シグナルABC」。しかも、セッションまでついてくる。力強く、明るく、前を向いて進むような雰囲気だが、1曲目に来るとなるほど意外性がある。曲自体が真っすぐなぶん、曲順マジックを用いて変わった味付けをしているような気がした。
そして早速登場、本ツアーの主役「シュガーソングとビターステップ」。
主役は終盤に登場しそうという客のイメージを徹底的に壊すスタイルだ。最初はプロコンツアーにおけるシュガビタの使われ方を転用して、シュガビタは後半の美味しいところに持ってこようかとも思ったが、やはりあれは周年を締めくくるツアーでやるからこそ映えるものがあるので、シングルツアーにおいてはあえて序盤で消化してくる。
また、シュガビタからユニゾンを好きになった人たちは、もしかするとこれ以降の楽曲はほとんど知らないかもしれない。けれど、むしろそれを狙っている。新規ファンからすれば、あとは「知らないけどなんかカッコいい曲」の乱打をお見舞いされるのみなのだ。田淵が時折言う「なんか分からんけどカッケー!でいいじゃん」というアレを、ここで体現するのである。
そんなよく分からんけどカッケー曲たち、先鋒は「流れ星を撃ち落せ」。気持ち音源よりも速めのBPMで、ゴツゴツしたまま駆け抜けていく。
からのノンストップで「場違いハミングバード」。この曲は大概ライブ終盤に置かれることが多いが、あえて前半に置く。こちらは音源よりBPMが速いとかそういう騒ぎではないくらい速い。
最後の一音を鳴らし、「UNISON SQUARE GARDENです!」と放つ斎藤。つかの間の給水時間のあと、すぐに2ブロック目が始まる。
「自由に楽しんでってください、よろしく!」
「ladies and gentlemen! boys and girls! get ready (都道府県名)!」
軽快なストリングスの音とともに軽快なアナウンスが語られ、「like coffeeのおまじない」が幕を開ける。
最後までピュアで可愛らしい曲調が貫かれ、次のポップな曲に移行──と思いきや、間髪入れずに始まるのは不穏なイントロ。「CAPACITY超える」である。
こちらは、like coffeeと接続されることで、「ねえマスターお願い」「おかわりちょうだい」という、単体で聴くとアルコールを注文しているとしか思えない言葉が、(喫茶店の)マスター、(コーヒーの)おかわり、といった解釈に生まれ変わる効能を備えている。
素直でポジティブな曲から、ちょっとヤケになっている曲、そして次は──こちらも曲間0秒でスタート、「プロトラクト・カウントダウン」。現実を見ながらも前を向いて走る強い感情が描かれる。
曲のラスト、斎藤は不穏な低音で「3,2,1…」と呟くと、次のコードをかき鳴らし始める。カウントダウンしたかと思えば、すぐにカウントアップだ。
「アン、ドゥ、トロワ……」
「コーヒーカップシンドローム」が、物語を再び不安定な状態に引き戻す。
余裕さの中に見え隠れする激情が、「まわるまわる」と歌い放つ。
ここまでの流れを見ると、ポジティブになったかと思えばネガティブになり、そしてポジティブになってはネガティブになり……のサイクルを繰り返していることが分かる。
つまり、「甘くて苦くて目が回りそうです」ということだ。シュガビタツアーは、ユニゾンのセトリの常套手口である「急に曲調を変えて揺さぶる」をいつにも増して多量に行うことで、シュガビタの世界観をライブ全体で表現しているのである。
ということで次は予想通りポジティブが来る。「デイライ協奏楽団」。かと思えば歪みマシマシのギターで「meet the world time」が奏でられると、目まぐるしい2ブロック目は終了する。
長めの暗転の末、再開を知らせる楽器はベースだった。
「いつかの少年」が久々に演奏される。
「間違ってないはず」と零して終わるこの曲の次は、主役シングルのB面のもうひとつ「東京シナリオ」。ドラマ性としては、間違っていないと信じて東京で暮らしている、といったところか。
連続のバラードゾーンが続き、そろそろテンポアップを期待されるころ、ちょうど飛び跳ねるようなリズムでイントロが鳴る。
「それが僕のやり方だからさ」と言わんばかりに自分たちのスタンスを謳いあげるその曲の名は「instant EGOIST」。
そして、それでも最後は「一人だけど 独りじゃない」と宣言する「何かが変わりそう」を奏でて、3ブロック目は区切られる。
が、今度は暗転無し、そのまま「オンドラムス、タカオスズキ!」の掛け声とともにドラムソロがスタート。そのフレーズ展開たるや凄まじく、リズム楽器だけでこんなにもポジとネガが目まぐるしく入れ替わる感じが表現できるものなのか、と唸らされる。
やがて甘いリズムと苦いリズムは溶け合い、混沌とした雰囲気を醸し出してくると、明らかに気性の荒いベースラインが暴れ回り、やがてソリッドで危険なギターサウンドがステージを支配する。
もはや収拾もつかないところまで狂気が横溢した……と思いきや、その混沌を、今度はイントロひとつで完璧に収斂させる。「セレナーデが止まらない」。ラストブロックの始まりだ。
鋭い音色と歌声が会場に響き渡り、ボルテージが最高潮まで達したころ、真の最高潮を実現するための必殺技が投下。お馴染みの斎藤によるタイトルコール!
「天国と地獄」
「天国と地獄を数えろ」と「甘くて苦くて目が回りそう」は、ニュアンスとしては近いところにいるフレーズな気がする。シュガビタツアーで本曲が演奏されることは、ある種必然だったのかもしれない。
さあ、後は畳みかけである。「シュガビタもいいけどこっちもね」と言わんばかりに代表曲「オリオンをなぞる」、凛と前を歩く無敵の「サンポサキマイライフ」、最後は希望に溢れる魔法の楽曲「シャンデリア・ワルツ」でもって、本編はついに幕を閉じた。
アンコール、壇上に静かに現れ、大人しげに楽器を持つと、照明は柔らかなオレンジを描き、「僕らのその先」が始まる。考えることを忘れて聞き入ってしまう。
「アンコールありがとうございますっ」と言って、やはり次はテンポアップ。「箱庭ロック・ショー」だ。いつもよりギターソロが長め。
「またね!」
アンコールラストは「桜のあと (all quartets lead to the?)」。オーディエンスは、体力を使い切るように爆裂的に盛り上がり、本公演はついに終了した。
*
ということで、私なりに妄想したシュガビタツアーのセトリはこんな感じになった。
とにかく「目まぐるしさ」をテーマに組んでみたが、いかがだっただろうか。正直この時代のセトリの特徴や癖をあまりつかめていないので、ひょっとして当時からのファンが見ると「2015年の彼らがそんなことするかね?」という疑問が浮かぶのかもしれない。それはその、妄想なんで。何でもありなんで。
いやはや、楽しかった。
また今年中に次の妄想セトリ企画をやろうという気持ちが強くなったので、その時が来たら文字書きの皆様、ぜひ(人様の企画で宣伝するな)
では、これにて私の報告書は終了! 次なる報告書は一体──?
END9「I don't know this live ー 自由性妄想主義」
10番目に読む方
「シュガーソングとビターステップ」は、UNISON SQUARE GARDENの10th シングルである。
この楽曲は、ご存じの通り、非常によく売れた。
なので、そんなシングルのジャケットを見たことがあるという人の数も、やはり多い。
もはや見慣れたジャケットだが、よく考えたらこれは何なのだろう?
人形が人形にキスをしているが、その姿はひどく壊れている。これは何を表現しているのだろう。
今回の報告書は、「『シュガーソングとビターステップ』のジャケットについての論考」である。
*
シュガビタのジャケットに関するうわさでよく聞くのが、3rdシングル「cody beats」との関連性についてである。
「cody beats」には「セロファンのテープで貼り直した 歪なボーイミーツガール」という歌詞があるのだが、これがシュガビタのジャケットの状況に丸ごと合致するのである。確かに、剥がれた破片をセロファンでくっつけており、その様は「歪」と呼ぶにふさわしい。
何なら、その前の「点と線とペンで切り離した」も違和感なくハマる。ペンを使って紙などを切り貼りし作ったボーイミーツガールの人形。
何故codyの要素をわざわざシュガビタに持ってきたのだろうか。多分、この2曲に確かな繋がりがあるというよりかは、セルフ本歌取りのようなことをしたかったのだと思う。「歪なボーイミーツガール」という一点が、シュガビタの言っていることを解釈するためのフレーズとして活用できるのかも?
では、本歌取りをしてまで「歪な人形」を用いた表現にする意図は何か? 端的に予想を言うと、この歪な人形は「人生の意味を言語化することの難しさ」を表しているのではないかと思った。
「シュガーソングとビターステップ」には、以下のような歌詞がある。
祭囃子の鳴る明るい場所では、人の顔がよく見える。昂っている人や泣き出してしまう人など、様々な人々がそれぞれ生きていることに気づいたりもする。
けど、昂るのも、泣き出すのも、一見違うように見えて「多分同じ」だ。だが、何が同じなのかというと、上手く言葉には出来ない。稚拙な表現しか出来そうにないから──おおむねこんな感じの意味だろうか。
恐らく、「昂っている人」と「泣き出す人」に共通する部分というのは、実に本質的なところなのだろう。人生の核、みたいなところの話をしている気がする。だが、言葉にすると稚拙が極まってしまう。人生の意味を、飲み込みやすい形で手に取ることは出来ない。たとえば、人形をペンで切り離すことで作っていくのが非常に難しいように。どれだけ丁寧にやろうとしても歪になってしまうように。
また、感覚を言語にする際、質を落とさないまま出力することは出来ない。言葉にした段階で、本来感情の中にあったはずの様々なニュアンスを取りこぼしてしまう。
人生の意味という本質的な存在を、取りこぼすことが当たり前の「言語化」なる営みで以て表現するのは、まずもって不可能なのである。
けれど、不可能だからといって、言語化を試みる気持ちを捨てる必要はない。むしろ、抽象的な事物を考えることはかえって健全でさえある。
分からないなりに言葉にして。時に剥がれ落ちたり、形が悪くなったりしてしまったら、セロファンで直して。でもまた落ちたりして。完璧な人形を作りだすことは不可能かもしれないけれど、人形を作ろうとしているその努力と心意気だけは確かなものであり、誇るべきものだ。
そう、我々は真の人形にはなれない。人形のように生きるのはもったいない。何故なら、我々は人間なのだから。
*
ユニゾンのジャケットはどれも直感でセンスが良いと感じるものが多く、やはり良いクリエイターの周りには良いクリエイターが集まっていくのだなと思う。シュガビタのジャケットも、直感的に秀逸だとは感じていた。
だが、こうして理屈をこじつけて言葉にすることで見えてくるものもあったような気がする。……当然、稚拙は極まったけれども。人生の意味の言語化なんて、もっと分かんないんだろうなあ。
そういえば最近、人生の意味がちょっとだけ分かったような気になったけどまだ置いておこう、なんて綴っている曲を聴いた気がする。
……さて、ビスケットと紅茶でも口にしたくなったところで、今回の論考は終了。さっそく、次の報告書を手に取ってお進みください。
それではまた。
END10「priority about 10th - 抽出性言語主義」
11番目に読む方
この記事を11番目に選んだあなたが、いったい最後の曲を何にしたのか非常に気になる。とりあえず、あなたの査読時間もついにクライマックスを迎える。最後の報告書を読む前に、ここらでちょっと休憩していこう。
時に、この世にはコラボカフェというものがある。アニメや漫画、アーティストや芸能人といった存在とコラボした料理を提供し、コンテンツムーブメントの促進に繋げる、なんかそういった感じのイベントだ。
UNISON SQUARE GARDENも実はこれをやっていたことがあって、名を「UNICAFE」と言う。僕がユニゾンを真剣に追うようになった頃にはもうとっくに開催期間を過ぎていたので詳しい内容は知らないのだが、どうやらコラボメニューの名前がおもろいらしい。
草 ラブソングは筑前煮ってなんだよ
ということで今回は、次なるユニカフェのオリジナルメニュー、特に「シュガーソングとビターステップ」に関するメニューの案を考えていこうと思う。この曲の歌詞、食べ物の名前たくさん入ってるから美味しいこと保障されてるのがいいよね。
*
◎menu 1~ママレードトースト&ピーナッツトーストセット~(税込1500円)
初手は王道から。ママレードやピーナッツクリームといえば、やはり食パンに塗るものである。でもせっかくなので食パンじゃなくてしょくぱんくんに塗るシステムを採用した。ママレードとピーナッツクリームは好きな量だけセルフで乗せる仕組みで、しょくぱんくんの目と口を覆わないように上手に塗っていく必要がある。気分はさながら、お客さんにシェービングクリームを塗る美容師。
勿論しょくぱんくんは2枚(2人?)あり、片方はママレード、片方はピーナッツクリームを塗られたがっている。判別方法は簡単で、歌っているほうがママレード、ステップを刻んでいるほうがピーナッツです。活きがいいうちにさっさと塗って食おう。
味:良
インスタ映え:良
気味:悪
◎menu 2~超天変地異みたいな牛丼~(税込1300円)
スイーツ系もいいけど、たまにはがっつりスタミナを喰らいたいという方におすすめなのがこちらのメニュー。なんでスタミナ喰らいたいのにカフェ来てんだ
超天変地異の名を冠するだけあって、やはりただの牛丼ではない。まず卵を二玉。次に大量のネギ。次にオクラ。次にイクラ。極めつけにはチャクラが入っている。これを食べるだけで、なんかいい感じになれる。平和な日常とは、たとえばそういうことだ(見間違い)
とはいえ、それだけ沢山の食材が入っていたらお高いのでは?と懸念する声も多いだろう。しかし税込1300円、入っている食材の割にはそこまで高くない。
ではなぜそこまでの低価格提供に成功しているかというと、サイズがめっちゃ小さいからです。なのでスタミナもあんまり取れません実際。
味:良
インスタ映え:普通
信仰:仏
◎menu 3~嬉しそう鳥取 寂しそう鳥取~(税込1500円)
食べ応え抜群の焼き鳥セット。鳥取の名産品であるらっきょうが付いてきて、食後には冷え冷えのカット梨まで提供される贅沢メニュー。やけに鳥取推しだが、開催場所は渋谷のタワレコである。
売り上げの一部は鳥取県に寄付されるそうで、美味しいものを食べて社会貢献も出来る、まさに一石二鳥のメニューだ。
味:良
インスタ映え:良
鳥取県民の笑顔:素敵
◎menu 4~祭囃子セット~(税込3000円)
今年はお祭りに行けなかった……という人にとってはマストイートなのがこちらのメニュー。りんご飴、わたあめ、チョコバナナ、ラムネというお祭り四天王のセットだ。
りんご飴は、実は100個に1個当たりが入っており、当たりを食べると気持ちが昂る。また、わたあめの当たりを食べた場合は泣き出してしまう。あとこれはどうでもいいだろうが、次来た時に使える割引券も貰えます。
そして食後、「ごちそうさま」を言うと、店員さんがやってきて、衝撃の事実をカミングアウトしてくれます。
「実はその4つ、同じ味なんですよ」
味:良
インスタ映え:良
使っている化学物質:不明
◎menu 5~someday(サンデー)~(税込1000円)
注文したその日に食べることが出来ないサンデー。日々を過ごしていたら、いつか突然店員さんが目の前に現れてお出ししてくれます。「いつか」の日にさえなれば、あなたがどこに居ようとも店員さんはやってきます。味は普通に美味いです。
味:良
インスタ映え:良
ジャンル:ホラー
◎menu 6~一難去ってまたらっきょう~(税込800円)
またらっきょうです
味:良
インスタ映え:良
産地:鳥取
*
何この記事??????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????
END11「I'm sorry ー 混沌性食育主義」
12番目に読む方
UNISON SQUARE GARDEN6枚目のアルバム「Dr.Izzy」。「ユニゾンを解剖する。」と銘打たれたこのアルバムには、解剖が困難を極めるほど、まるで掴みどころがない。
そもそも彼らは、聞き手に「解剖」をさせる気はあるのだろうか。
本アルバムが「解剖」「医者」といったモチーフを採用している理由のひとつに、私は「シュガーソングとビターステップ」の存在があると考える。
QED。証明終了。医学者の論文のような雰囲気がある言葉。ここから連想して、アルバムを「Dr.Izzy」と名付けたのではないだろうか。
……であれば、「解剖」をする医学者とは、つまり誰のことだ。
「僕たちを僕たちたらしめる証明」。「僕たち」。
医学者Dr.Izzyとはつまり、「UNISON SQUARE GARDEN」。
解剖するのは、聞き手ではない。彼らが彼ら自身を解剖するのだ。
そういえば、本アルバムのジャケットは牛の解剖図だったか。
解剖というのは、全体としての身体のうち、その一部をよく見るために抜き取る行為だ。
だから──たとえば、この牛の「FLANK」と呼ばれる場所だけを見ると、どうやら、何か箱に入った物体を輸送する施設になっている。
輸送施設「FLANK」は、確かにこの牛の機能のひとつである。そして、他の場所にはまた別の様々な機能・施設が存在している。
でももし、それにもかかわらず、FLANKの業績だけが称えられ、「この牛はFLANKが凄いんだ!」と礼賛されるようになったとしたら。
牛はこう思うだろう。僕を構成しているのは、そこだけじゃないのに、と。
さて、2015年、UNISON SQUARE GARDENは「シュガーソングとビターステップ」にて大きなセールスを記録した。どんどんユニゾンを知らない人のもとへ存在が知れ渡っていき、今ではカラオケランキングで常に上位に位置しているほどである。
そうやって「シュガーソングとビターステップ」ばかりが取り沙汰され、世間がユニゾンに「シュガーソングとビターステップのような曲」を求めだすのも時間の問題という時。
彼らは、あっけらかんと言い放つ、いや、鳴らし放つのだ。宇宙遊泳する変拍子を。明るく突き抜けたコードを。ソリッドなギターを。遊びに遊んだ歌詞を──
ユニゾンという全体のうち、「シュガーソングとビターステップ」という一部が好かれても、彼らは「別にそこだけが自分じゃない」と胸を張って言うのである。
「Dr.Izzy」が見せるのは、「自分たちはこういう音楽がしたいだけ」という意地。あるいは、その志の維持。ドクター・イジー。
「解剖」は、彼らが自ら行うことで、自身の構成要素をしっかりと把握し、また「全体」になるための手段になる。それは、いつまでも、彼らが長く楽しく音楽を続けるための手段でもあって。
であれば、それを勝手に好んでいる我々には、「解剖」は不可能なのだろうか。……不可能だろう。彼らが好きだからこそ、私たちは、彼らの底が知れないことを知っている。彼らがどこを晒してどこを隠しているのか、その内情をまるごと把握することなんて、出来っこないのだ。
でも、不可能だからといって、しちゃいけない理由にはならない。
聞き手は聞き手なりの感性で、自分のために、自分らしく音楽を楽しめばいい。その楽しみ方のひとつの手法が「解剖」なのだとしたら、成功することは永遠になくても、それを楽しんでいるという事実だけで、やる意義としては十分なのだ。
それでも言葉にしようと試みるのは、やっぱり、楽しいからだ。
◎結論
「Dr.Izzy」は、彼らを彼らたらしめる証明の1枚であり、何年経ってもその実態を掴めそうにない、無敵の名盤である。
Q.E.D.
END12 「Cheap Cheap Conclusion ー 全体性解剖主義」