今はもう宝箱 優雅に走る宝箱【Catcher In The Relay】
本記事はナツさん主催の文章企画「Catcher In The Relay」への参加にあたり執筆したものです。
企画トレイラーはこちらから↓
さて、私の担当曲は「何かが変わりそう」。
どんなアプローチの記事にしようか考えたとき、何よりぶち当たった壁は「ネタ被り」である。これが怖い。マジ怖い。今回の企画では同じ楽曲を複数の参加者が担当するので、被る可能性が大いにあるのである。そしてもし被った場合、自分が下位互換となってしまうことはもはや確定。皆様とんでもない記事を書かれるので……。
最初は宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』との照合・比較などを軸に話を進めていく予定だったが、私には見えました まったく同じことをめちゃくちゃ高水準にやってのける他の参加者様の姿がね
実際にいらっしゃったのかはこの記事を投稿した後で確認するとして、ともかくネタ被り恐怖症を発症した私は、別の切り口を求め「何かが変わりそう」が演奏されたライブのセトリを調べ漁る化け物に変身。
幸いそこでひとつ気になったものがあったので、それを発端として色々書いていこうと思う。以下本文です。被ってませんように!マジで!
「何かが変わりそう」は、MVがあるわけでもなければ、バンドの周年ライブで演奏されたこともない、一見すると一アルバムの何気ない一曲に思える。Catcher In The Spyツアーのセトリを見ても、そこまで特別な位置に置かれている印象はない。
そんな本曲が、恐らくは唯一、明らかにイレギュラーな使われ方をしたライブがある。
2014年12月17日。下北沢CLUB Queの20周年を記念した特別なライブ。
ネットで調べた限り、そのセトリはこうだったらしい。
インディーズ時代からQueのステージに立ってきたユニゾンにとって、これはいわば忘年会。ライブを観にいった当時の方々のレポをいくつか拝読したところ、どうやらMCもガンガンやるわ曲の入りを間違えるわのゆるゆるライブだったようだ。
インディーズ時代の思い出に耽るようなライブ、その本編ラスト。そこに「何かが変わりそう」が位置している。おかしい。
まあ、2014年の12月といえば、Catcher In The Spyが発売されてすぐの頃なので、そこから一曲やるのは頷ける。懐古ライブのラストに配置することで「そして、これが今の自分たちです!」という宣言になるのも、分かる。でもCITSの曲なら、他にも色々あっただろう。桜のあととか、天国と地獄とか。サイレンインザスパイや流れ星を撃ち落せだって、意外性はあれど不思議じゃない。何故ここに抜擢されたアルバム曲は、他でもなく「何かが変わりそう」だったのか? どうしても深読みをしてしまう。
仮説はこうである。
「何かが変わりそう」は、過去の自分との決別を描いた曲なのでは?
「何かが変わりそう」の語り手は、理想を追い求める自分=「君」を見上げる、その理想を追うことを諦めようとしている自分なのではないか?
Catcher In The Spyというアルバムは、子供から大人への成長を示唆する表現が散りばめられていると感じる。「サイレンインザスパイ」は無邪気な子供の声から始まるし、「君が大人になってしまう前に」はタイトル通り、大人になる前のお話。終盤「天国と地獄」ではついに『大人を舐めるなよ』と言ってのける。
そんな成長のグラデーションの中で、「何かが変わりそう」が担うのは、モラトリアムの終わりだろう。ここでひとつの転換点を迎えた上で、「harmonized finale」にてついに境界線を越え、大人になる。
地上から見上げる銀河鉄道は、どんなに綺麗だろうか。数多の星の光を一身に浴びて、その姿をはっきりと浮かび上がらせながら、明るい夜を走っていく。「星の光に照らされる」というのは、それだけでロマンの塊であり、憧れうる景色であり、目指したい夢になりうる。
語り手にとって好都合だったのは、鉄道の乗車券を持っていたことだ。それは俗に「才能」とか呼ばれるものだろう。星の光を目指す権利自体はしっかり持っていた。もしかしたら乗り続けていれば、いつか届いたのかもしれない。
けれど、降りることを選んだ。甘美で優雅な理想を降りて、地上に帰ってきた。
何故?
星じゃなくても、自分を照らしてくれる光は近くにあるのだと気づいたからではないか?
それは例えば、電球のような。
星と電球、単に質量や体積が大きいのはどちらか? 言うまでもない、圧倒的に前者だ。しかし、地上に住む者の視界にとっては、どちらの方が大きく映るだろう? 星はとても遠くにあって、地上からでは所詮小さな白点にしか見えない。電球はといえば、星よりはうんと近いところにあって、その形も、光も、はっきりと見える。
闇夜を駆ける梟を照らすには、存外電球の方が適していないか?
遠い遠い星の光なんかじゃ、梟は見えるようにならない。その姿を見せてくれやしない。でも電球なら。星より弱い光だけど、星より近くにあって、きちんとまばゆい。少なくとも見かけ上は、電球の方が輝いている。
梟は、星の光を浴びられなくたって、電球の光があればそれでいいのかもしれないと思い至ったのではないか?
けど、やっぱりどこか星を諦めたくない気持ちも残っている。未練はちゃんとある。
理想を追い続け鉄道に乗ったかつての自分は、この世界をどう思っているだろう。暗い、だろうか。自分を照らす光の無さに、舌打ちでもしているだろうか。
そんな風に推理は出来る、出来るけれど、所詮は推理だ。過去の自分はもはや他人である。彼が星に届かんとして起こした数々の事件たちは、もはや思い出となり、客体の中に追いやられた。
今や銀河鉄道は、過去を思い返したときにふと現れる、綺麗すぎる宝箱だ。だから、空に大切にしまっておく。
そもそも。
事件は推理されるために起こるものではない。誰が見ても判然とした動機のようでも、それは納得する人が多いだけのこじつけに過ぎず、本当は解釈の域を出やしない。理を推すと書いて推理だ。理屈ばかりを推し上げるあまり、そこにあったはずの理由のない涙を置き去りにする。置き去らないとしても、それはあくまでデータとして処理され、温度を失ってしまう。もっともらしい整合性の中で、「今」という一瞬間は極限まで希釈されていく。思うに推理とは、それ自体が傲慢な営みであり、前提として後の祭りなのだ。それならむしろ「事件」のほうがよほど刹那的で、そのくせ健全なのだろう。たとえいつか忘れてしまうものなのだとしても。
その上で、彼の中でひとつの事件が起きる。これまでの時間を「推理」という存外綺麗な宝箱(銀河鉄道)にしまって、ここからまた「事件」が始まっていく。
理想を諦めることは、彼にとって、決して不健全なことではなかった。次なる事件はとっくに起きていて、そういう連鎖で新しい今を紡ぐ。大事なのは今を誇ること。星空がどれだけ輝いていても、その下に立っている自分を守ること。そして、さっきまで「今」だったものを、ちゃんと捨てる覚悟を持つこと。
もしかすると、それが大人になるということなのかもしれない。
あとがき
なんか話がとっ散らかってしまった……。
今までのナツさんの企画では小癪なギミックに逃げることが多かったのですが、今回はこれまでの企画の集大成ということだったので、折角ならこの辺でまっすぐ曲と向き合ってみようと思った次第です、という言い訳をしておきます。今後も全然小癪なことやりたいときはやりますし……。
推理編に関しては「推理とは傲慢~」云々の箇所を抜粋させていただきました。最終日の一日前ということだったので、この辺で推理という行為自体に対するカウンターでもけしかければクライマックスっぽいかな、と……安直な動機。
あとはトリの主催が綺麗に締めてくれるじゃろの気持ちでぶん投げました。すみませんでした……。そして助かりました……。
それでは、変なことしてない分いつもより短いですが、読んでくださりありがとうございました!
「電球」とは何の比喩なのかについての私見は、野暮も野暮だし傲りも傲りだなと思ったので、言語化はしないことにします。