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【Patrick Mojii】そこに饗応がある

 咀嚼中に失礼いたします。「Patrick Mojii」はお楽しみいただけておりますでしょうか。
 只今召し上がっていただいたのは、「Hatch I need」、「マーメイドスキャンダラス」、「スロウカーヴは打てない(that made me crazy)」、「Catch up, latency」の4本になります。
ビニールハウスよりもライブハウスを好む3名の生産者様による野菜は、ここまで食べている貴方はきっと生でも美味しくいただけるのでしょうが、今回は多くの調理師様によって、余すことなく食べられるようになっております。かくいう私も、当イベントが動き出したその日から高揚していまして、非常に楽しんでいます。

なお、当イベントについてご存じでない方は、以下をご覧ください。主催であるナツ様(@unfinisheddaisy)による案内及びエントランスになります。


また、こちらが前日、コリ様(@Coli_ITS)が調理いたしました「Catch up, latency」でございます。


まだお召し上がりになっていない方は、どうぞそちらからご賞味ください。


それでは引き続き、調理師の皆様による鮮やかな料理をご堪能ください。





と、その前に。
突然ですが、こちらの野菜をお召し上がりください。そんな見た目ですが、一応、私の方で火は通しております。
はい、そうです。ボウルの上に投げやりに置かれている、それでございます。
なるほど。美味しそうですか。私もそう思います。我々は独特の感性を持っているようですね。
ですが万が一ということもございます。恐らく貴方ならば造作もなく食べることが可能かと思いますが、もし食べられないなら……


はい、そうです。「摂食ビジランテ」でございます。


食べられないなら、お残しください。

01.違和感という調和

「Patrick Vegee」最初の1ブロック(Hatch~latency)は、随分と聴きやすい構成をしているなと感じるものだ。事件の始まりを想起させる重厚なロックから、疾走感の強いスピードロック、他バンドへのリスペクトと遊び心を織り交ぜたポップナンバーを経て、「ユニゾンのど真ん中」を地で行く、熱く爽やかなシングル曲に着地する。なるほど、とても綺麗な流れである。段階的に高揚を募らせ、最後に最高にブチアがるという構成は、顧客の立場になって考えなければ決して生み出せない。精巧な計算と卓抜した演奏技術の賜物だ。

勿論、5曲目以降でも、その計算力と演奏力は衰えを知らず昂進していくわけだが、何かこう、おかしい

「摂食ビジランテ」は、重々しさと刺刺しさを包含した、俗に言う「治安の悪い曲」である。歌詞もどこかアイロニカルだ。そして曲の最後には、「この後に何かが来る」と言わんばかりの音で、こちらを突き放す。さて、何が来るか。

「夏影テールライト」である。

おかしい。私は大好きだが、冷静に考えるととてもおかしい。「摂食ビジランテ」の終わり方は、まさに嵐のような静けさというやつだった。その後には、何か劇的な大事件が起こるはず。具体的に言えばロックナンバーが来るはずなのだ。例えば「Phantom Joke」が6曲目であったなら、膝を打つほど流麗であった。
なのに、「夏影テールライト」である。夏の夜に覆われた「僕」と「君」を、感傷的で情緒的なレトリックに乗せて歌うミドルナンバーである。
普通ならば、こんな繋ぎ方をしようとは思わない。だって合わないから。不自然だから。
実際、私も初めて「Patrick Vegee」を聴いたとき、かなり不思議に思ったものだし、同じような経験をした方は、読んでくださっている皆様の中にもいることだろう。これは、「物好きなら自然に感じるように出来てる」とか、そういう話のものでもない気がするのだ。

これについて、私の解釈は「不自然であることこそがこのアルバムにおける自然である」としたい。「なんかグチャっとしてんだよな。」のキャッチコピーにもある通り、このアルバムは、端からカオスを許容している。その上で、そのカオスが不思議と心地よくなる。ひとつのボウルに十把一絡げに盛られた土まみれの野菜が、何故か美味しく見えるように。
また、「幻に消えたならジョークってことにしといて。」からの「Phantom Joke」など、普通繋がらない雰囲気の曲同士をセンテンスで繋ぐ手法は唸らざるを得ないが、逆に言えば、もし歌詞の繋がりが無かったなら、不自然が行き過ぎて困惑するのではないかと思うのだ。この手法は、明らかな違和感を言語によって接続して「不自然」を「意外性」に変換する、ある種のインターフェイスと言える。
故に、私たちが「摂食ビジランテ」以降の流れを素晴らしいと思うのは、ひとえに歌詞による結合と、ユニゾンが好きだからこそ感じる「この意外性は意図されたものだ」という信頼のおかげなのだろう。さしずめ「Patrick Vegee」のコンセプトのひとつは、全体としての緻密な綺麗さではなく、凸凹な曲同士を「美味しいごった煮」にすることなのだ。(色々あってよく分からないのに、聴き終わると得も言われぬ満足感が横溢するこのアルバムは、さながら彼らのライブのようですらある。)


であれば、だ。違和感を煮炊きするのが目論見なら、1ブロック目の、あの綺麗すぎる流れは何だったのだろうか。
違和感がないという違和感が、俄然肉薄する。



どうして序盤だけ、あんなにあからさまに舌ざわりが良い?



どうして序盤だけ、グチャっとしていない?


その理由の一端は、「摂食ビジランテ」に垣間見ることが出来る。

常套の句 わかります 良い子なんでお留守番しよう
はみだすのは ここぞの切り札

今ははみださずにお留守番して、常套句を言おう──そんな風に時を待っている様子と捉えられるこの歌詞。では、何からはみ出すのか?定石だろう。ユニゾンはいつだって、「世間がこう思ってるから」よりも、自分たちの感性、方向性を大事にする。
では、常套句とは何か?これは比喩だ。「ユニゾンの王道」の比喩だ。
それは何か?

ユニゾンといえば。ロックバンドだ。テンポが速い曲でも歌いこなす技術だ。さらにキャッチーでポップであり、それでいて気持ちのいい汗をかいたときのような、爽やかな熱気もある。

ロック、ハイテンポ、ポップ、爽やかな熱気。

Hatch I need、マーメイドスキャンダラス、スロウカーヴは打てない、Catch up, latency。

思えば「Patrick Vegee」の1ブロック目は、「ユニゾンといえば」と言わんばかりの曲調のもので構成されている。
そう、この1ブロック目は、「ユニゾンの自己紹介」としての役割を孕んでいるのだ。

確かにこの4曲を聴けば、それまでユニゾンを知らなかった人でも、なんとなくこういう感じのバンドなんだなというのが分かる気がする。それでいて曲の順番が綺麗なので、引っかかることなく聴ける。

「Patrick Vegee」の冒頭4曲は、いわば聴かせる音楽なのであり、だからグチャっとしていないのである。

また、あくまでも「ユニゾンから見たユニゾンの自己紹介」であり、「世間の思うユニゾンらしさ」への迎合ではないのも面白い。仮に大衆向けに曲を組むなら、それこそ「シュガーソングとビターステップ」のような楽曲が存在しているはずだが、1ブロック目にかのような曲調のものはない。あくまで自分たちの思う自分たちを発信するのが、いかにも彼ららしく、信用できる。

──とはいえ、疑義は依然として残る。綺麗であるのは自己紹介だから。では、自己紹介をする理由は?

そこには、ひょっとすると現代人への、彼らなりの優しさと諦めがあるかもしれない。

02.食べられないなら

かなり前置きが長くなったが、ここからが「摂食ビジランテ」そのものについての内容である。

序盤戦と中盤戦を繋ぐ「摂食ビジランテ」に課せられた役割とは。
まずは「聴き手に残すかどうかを問う」という役割について少し書いてみることにする。

例えば先のように、「Patrick Vegee」でユニゾンを初めて聴くという人がいるとする。サブスクで曲を漁っていたら偶々出てきただとか、友人から布教されただとか、経緯は色々あると思う。その人は、彼らがどんなバンドかもよく知らないまま、物は試しという気持ちで気軽に再生ボタンを押す。
前述した通り、最初の1ブロックは自己紹介だ。これを聴き終えたとき、その人はユニゾンの大枠を理解する。

そこで、その人の脳内では、ユニゾンの音楽が自分の好みか否かを判断する。

仮に好みなら?もっと聴きたいと思うだろう。心躍るこの体験を、更に続けてみたい。この音楽を、より深く知ってみたい。
仮に好みじゃないなら?

そこで、聴くのをやめるだろう。

あまり好きではないアルバムを「ここから先には好きな曲があるかも」と期待して聴き続けられるほど、一般人は音楽にどっぷりのめり込んでいるわけではないし、音楽を生き甲斐にしているわけでもない。ましてや時は大サブスク時代、スワイプひとつで閉じて、好きな曲へ帰ることさえ出来る。忙しい現代人にとって、好きではない音楽でも聴いてみるなんて所作は、畢竟、時間の無駄なのだ。(別に批判したいわけではなくて、私個人としてはそれはそれでいいよねと思っている。悪しからず)

故に、ユニゾンは促す。ひょっとすると、君にこの音楽は合わないかもしれない。音楽は楽しいものだ、もっと自分が楽しいと思う方に時間を使って、向き合った方がいい。だから──

食べられないなら、残しなよ。

それを食べることを、決して強要しない。馬が合った諸君はお待ちするが、馬を合わさせるようなことは絶対にしない。
残りの野菜は、残していいのだ。

「摂食ビジランテ」の一節にも、これと近しい意味に捉えられる部分が存在する。

信心を問う 淀みない受け答え 受け取られ方
間違えたら 即サヨナラ

ユニゾンから聴き手へもっと聴くかを問う=「信心を問う」。現代人の素早い嗜好判定=「淀みない受け答え 受け取られ方」。そして、聴き手が「聴く音楽を間違えた」と思ったら、その瞬間にワンフリックでサヨナラである。

(これは余談だが、こう考えると「Hatch I need」の「判断待って待って まだあらすじは終わってない」は、「でも1曲目で切るのはいくらなんでも早すぎないか、せめて4曲目まで聴いてくれ」という切な思いのような気がしてくる)

「摂食ビジランテ」は、かようにして、好きではない野菜を残すことをおすすめするのだ。
なお、「ビジランテ」とは「自警団」の意。摂食の自警団。嫌いなものを食べずに残すこと、好きなものを食べ進めること、どちらも自己の精神を守る行為だ。自分で好き嫌い・食べる食べないを判断するその様が、言葉通り摂食ビジランテなのかもしれない。


さて、ではここから先を聴くのは、ユニゾンを好きだと思った人のみ。物好きたちのみである。
ならば、自己紹介も終えたことだし。



これ、食べられるのか?

「Patrick Vegee」ティザーコメント



「摂食ビジランテ」には、もうひとつの顔がある。

03.真に、自警団は誰だ

「摂食ビジランテ」の象徴的なフレーズといえば、やはりこれだろう。

めんどくせえよ 忌々しい 白状です ちっとも食べられない

これまでの解釈を基にして考えると、忙しない現代人にとって好きじゃない曲を聴き続けるのは「めんどくせえ」し「忌々しい」ことで、ちょっと失礼かもしれないから「白状です」と前置きして「ちっとも食べられない」と聴くのを止める……といった感じになるだろう。

だが、はて、ちょっと待った。

信心を問う 淀みない受け答え 受け取られ方間違えたら 即サヨナラ

こっちのフレーズと比較すると、どうやら視点が違う。
「信心を問う~」では、ユニゾンの視点から聴き手について歌っているのに対し、「めんどくせえよ~」では、完全に聴き手の視点に立って歌っている、ということになる。ちょっと不思議だ。
勿論、世の中には曲中で視点の人物が変わる音楽は沢山ある。その概念自体は何ら不思議ではない。だが、こと「摂食ビジランテ」に関しては、これだとどことなく変な感じがする。

もう少し読み進めてみると、こんなフレーズも出てくる。

万人が煽る ユートピアに期待なんかしてないから 今日は残します

先の懐疑を踏まえると、こちらも途端不透明になる。「万人が煽るユートピアに期待しない」というのは明らかにユニゾンだ。でも、「今日は残します」は聴き手目線。一行の中で視点が変わるなんて、いくらなんでもおかしいだろう。

となると、ひょっとすると、この曲は視点入れ替えなど行っておらず、徹頭徹尾ひとつの視点で歌っているのではないか?


全ては、ユニゾンの視点から歌っているのではないか?


そういえば、「摂食ビジランテ」を境に、「Patrick Vegee」はグチャっとし出す。
その片鱗は、例えばこんなところにも見える。

小林くん、番号教えてよ
浜崎さん、リボンかわいい

意味が分からない。一切合切分からない。何故この曲調でこの歌詞が出てくる。先ほどまで「教育の死」だとか言っていたじゃないか。
私は、このフレーズに関して「本当に意味はない」と解釈したい。更に言えば「意味がないということに意味がある」。強いて「定型文のような会話への皮肉」と捉えることも出来るが、それにしたって言葉選びが曲調とは合わない。この二行だけ、どう考えても不自然なのだ。

けれど、その後すぐに「めんどくせえよ」と治安の悪い言葉に戻っていく。
これは、この先アルバム全体が表現する「グチャっとしてる」のチラ見せなのではないだろうか。ここで聴き手の脳内に疑問符を植え付け、初めて「グチャっとしてる」を僅かに感じさせる。何かがおかしいと、脳裏に一抹の違和感が過る。
そして、このとき既に聴き手には、ユニゾンを好きな人/好きになり得る人しか残っていない。この曲の先、不自然さはギアを上げて弥増していき、それが段々クセになる。自由に音をかき鳴らすユニゾンに能動的に付いていくようになる。

そう、この曲のもうひとつの役割は、「ここから先は好き勝手にやるという警告及び宣言」である。

めんどくせえよ 忌々しい 白状です ちっとも食べられない

ユニゾンは、いつだって自分たちのためにロックバンドを続ける。他ならない、自分自身のために。
だから、万人受けなんて考えるのは「めんどくせえ」し「忌々しい」。ちょっと失礼かもしれないから「白状です」と前置きして、万人の求める理想像なんて「ちっとも食べられない」=「ちっとも飲み込めない」「納得できない」と言い切る。

そうだ。聴き手が残すのは、野菜だ。あくまで「食べられないなら、残しなよ。」は、読もうとしなければ読まれない「歌詞」とは違い、帯コメントという、店頭で並んだときに多くの人の目に触れる言葉だ。それに関しては間違いなく、聴き手への問いかけとして機能する。

なら、ユニゾンは。読もうとした者にのみ読まれる言葉に乗せた、彼らが本当に残したいものは。

万人が煽る ユートピアに期待なんかしてないから 今日は残します




ここから先は好き勝手グチャっとします。



「今日は(万人を取り)残します」。



ユートピアに、期待なんかしてないのだから。








「摂食ビジランテ」をお召し上がりになった感想はいかがでしょうか。
おそらく貴方であれば2年前からずっとお楽しみいただけていることでしょうが、仮に私の調理が拙劣であった場合、素材の味を活かしきれず今回は上手く楽しめなかったということもあろうかと思います。その時は申し訳ございません。ご存じの通り、野菜そのものは輝かしいほどに一級品でございます。
また、私の調理はあくまで私なりのものであり、調理の仕方も、食べ方も、行う人の数だけ存在すると思っております。今回の味付けに縛られる必要はございません。


さて。

ここまでを知った者に残食を促し、ここからを知ろうとする者に警笛を鳴らす。ひとつの転換点となるこちらを完食した貴方は、次の料理へとお進みください。
次はななし様(@74Nanashi)の調理による「夏影テールライト」でございます。


本日はありがとうございました。お忘れ物のないようご注意を。

引き続き、「Patrick Mojii」をお楽しみください。


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