【渋谷】青線地帯と三業地(下)
ウカウカぼやぼやしているうちに上編から少し間が空いてしまいましたがつづきを・・・。上編では百軒店の青線などについて触れましたが、下編では円山町の花街について。
1887年(明治20年)に円山町の花街誕生
円山町会のHP(http://maruyamacho.net/about-maruyama/maruyama-history)に、成り立ちについて詳しく書いてあるのですが、三業地としての指定がされたのは1913年(大正2年)のようで、そこから1980年ぐらいまで花街として賑わっていたもよう。
円山町というと現在は「道玄坂を登ったところにある、ラブホテル街」というイメージがありますが、実は花街の名残である料亭なども残っていて、東京の不思議さを感じさせる光景が見ることができます。
▲ラブホテル街のど真ん中にある料亭・三長
こちらの料亭は昭和創業の料亭のようですが、花街の名残としてだけでなく、別の事件でも少し有名な場所。この東電OLが客を引いていたのが、この三長の塀の中にあるお地蔵さんの前だったようで・・・。詳しくはグロテスク/桐野夏生に書いてあります。
話を花街に戻しまして、三長の斜め前にはこんな廃墟もあります。
▲奥行きのある廃墟。なんの建物だったのでしょう。
▲元・三業地名物の「ボーボーに伸びた見越しの松」
元・三業地に行くと、高確率で見られる「ボーボー見越しの松」。ボーボー見越しの松コレクションとかやりたくなりますわ。
▲料理屋っぽい佇まいの家屋
覗き込んだら、料飲組合の鑑札がついてた。
花街として栄えていた時の芸者さん
つづいて芸者さんについて。ふたたび1968年の「プレイモア」からの引用になりますが、当時のこの辺りにいた芸者さんについてこんな記述があります。
芸は新橋の花街に出しても恥ずかしくないほど達者な妓もいるが、若い妓のなかには流行歌しかうたえないのもいるので、ステレオでダンスなんてことも起こる。
とのこと。芸者さんの質としてはまちまちだったようです。白山の花街にいた芸者さんたちも「モダン芸者」などと呼ばれていましたが、大正時代に三業の指定を受けた花街というのはこのような性質を抱えた芸者さんたちが多かったのかなと想像できます。
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あと10年ぐらいしたら、ほとんど無くなってしまいそうなそんな淡い花街の名残を留めた円山町なのでした。
-おわり-