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鯖がぐうと鳴いた 長編ver #1/6

 序章 月光の鯖が友を呼ぶ

     一

 江ノ島の右肩に白い月。
 そこへ突進するように慶太がハンドルを切った。片瀬東浜と西浜の隙間をぬって、江ノ島弁天橋のたもとにもぐりこむ。
 釣り宿が軒を連ねていた。看板には片瀬漁港と達筆な文字。右手には魚市場があって、定置網で水揚げされた魚が直販されている。そこには、私の知らない夏の江ノ島があった。
 漁港の朝は、前のめりに動き出していた。
 船宿にたむろする釣り客が、軒先で釣り竿を伸ばし、リールの感触を語り合っている。地平線の彼方、朝焼けの空を見上げては今日の釣果を噂している。そこに寄せ集まるどの顔も、夏の湘南を我が物顔に闊歩する、褐色の若者達とは、あきらかに人種が違う。
「ちょっと待っていてくださいね」
 エンジンをかけっぱなしで、慶太が運転席のドアを開けた。魚臭い、磯臭い匂いが助手席に流れ込む。私は大きなあくびをして、漁港の朝を思いっきり吸い込んだ。
 未明、慶太がアパートまで迎えに来てくれた。私の体調を慮ってくれたのだろう――近くにきたら携帯を鳴らしますから、マキさんは寝てればいいっすよ――慶太らしくもない、優しい気遣いを見せてくれた。
 それで早い時間に布団にもぐりこんだけれど、慶太と再会する興奮と、生活の不安が急に頭をもたげて、やけに頭が冴えて一睡もできなかった。
 フロントガラス越し、慶太を見つめる。
 アメリカンキャップに偏光サングラス、マリンベストを重ね着した姿は、どこを切り取っても釣人のそれだ。慶太が右手を軽くあげ、そのまま釣人の輪に自然と溶けていった。
 慶太は若い頃から色白の美丈夫だった。その面影は相変わらずで、腰のあたりに少し肉がついただろうか。とはいえ、それは年輪を重ねた男の貫禄といえる範囲で、嫌みのない程度に日焼けした肌は、あの頃に比べて、よほど健康そうに見える。
 私達が出会ったのは八〇年代末期のお笑いライブだ。
 私も慶太も芸人だった。
 彼らのコンビ名はサクスセンシィヴ。ファンは略してサクセンと呼んでいた。慶太がデビューしたのは、彼が高校卒業を控えた冬のこと――一〇代だった慶太は、繊細な棘が剥き出しで、性格も芸風も、いつか倒れるんじゃないかと、こちらが気をもむくらい斜に構えていた。
 私はずっと慶太が大嫌いだった。
 才能を鼻にかけるようなところもあったし、「君達、どっちがネタを書いてるの?」と、私が訊いたら、「それ聞いてどうすんですか」なんて、愛想がないにもほどがあった。

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