鯖がぐうと鳴いた 長編ver #2/6
第一章 生け簀の鯖は大海を知らず
一
一九八八年、冬。
骨から震えがくるような、寒い日の午後だった。
夕べは遅番で、揚げ物油が髪にへばりついている。この日は夜からお笑いライブがあって、せめて身奇麗にして舞台に立ちたかった。
洗面具を抱えて、凍てついた真鋳のノブをまわす。板敷きの廊下へ出る。冷気が素足に絡まって、腰へ抜けて歯と肩が震える。昼でも薄暗く、ぽつんと寂しげに裸電球がひとつ。
幡ヶ谷六号通り商店街を抜けて十五分ほど歩く。
築二十年になる風呂なしアパートは、この立地にしては別格の安さで、玄関、トイレ、炊事場が共用、四畳半一間の賃料は一万六千円だった。
炊事場の水栓をひねる。手を切るほどに冷たい水が跳ねる。木枠の磨りガラス越しに、乳白色の曇天が見えた。
給料日前で金がない。一瞬躊躇して、蛇口の隙間に頭を突っ込んだ。一気に目が覚める。真冬の水は痛い。後頭部を殴られるように痛い。そして、痛い割りにはシャンプーが泡立たない。
真冬も貧乏も笑い飛ばした。あの頃は、何もかもをネタにした。
どうにも泡立たないと思ったら、ママレモンだった。
なんてのはどうだろう。
くだらないことを考えながら、頭をごしごしと洗う。背後でドアが軋みをたてた。
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