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透明人間だった時期
親になってから、「手がかかる」と勝手に決めつけていた息子のことを心配した時期もありましたが、いざ自分の過去を振り返ってみると人のことを言えるような立場ではなかったよな、とあらためて思うのでした。
自分の親の方が、よっぽど扱いに困っていたでしょうし、大変だったのだろうと思います。
私は、中学2年が始まるタイミングで、父の仕事の都合により家族で渡米しました。
小4の時にこれまた父の仕事の都合で行っていたメキシコから帰国して、競争率の高い第二次ベビーブームの世代でもあったため、中学受験の戦争にいきなり放り込まれました。
それまでは日々野山を駆け回って遊び続ける生活をしていたのですが、日本に帰ってからはひたすら塾・塾・塾。
かつてのように大っぴらに遊ぶ経験もないまま、何とか中高一貫校に入学できました。男子校でしたが、女子の目を気にしない関係はかえって仲間意識を強くしていたような気がします。
受験時代のうっ憤を晴らさんとばかりに遊び始めた矢先の再びの転校。親には「ひとりで日本に残りたい」と伝えたのを覚えています。
最終的には「家族単位で暮らす」という親の意見に押し切られ、というか結局はひとりで残る覚悟はなかったのだと今は思っていますが、とにかく泣く泣く渡米しました。
1980年代後半のアメリカ南部の田舎はというと、当時の現地の学校はまだまだ外国人の受け入れには慣れていませんでした。
物珍しい動物を見るように、生徒たちに囲まれます。
日本語が分かる人などひとりもおらず、「お前の父ちゃんはサムライか?」と真顔で質問をされます。
よく海外の学校がモデルの映画などで、生徒たちが廊下に自分たちのロッカーを持っているシーンを観ると思います。
あれは実は、職員室などはなくて、教室そのものが先生の部屋となっているため、むしろ生徒たちの方が自分の教科書や荷物をロッカーに入れて、毎時間それぞれの授業の先生のいる教室へと移動する、というシステムだからなのです。
次の授業でどこの教室に行けばいいのかも分からないわ、行ったら行ったで何の授業を受けているのかも分からないわ、教科書はとにかくデカくて重いわと、色々と混乱する状況は続いていたのですが、周囲の人たちが何かと構ってくれた最初の公立校は結構気に入っていたのでした。
ところが、やはり公立校は治安が悪かったのと、言葉を教えられる環境が全くないという理由で、これまた親が私立の学校を探してきてくれて、そこに編入しました。
今度の学校は外国人を受け入れ慣れしています。慣れている分、他の生徒から好奇の目で見られたり構われたりすることも一切ありません。
そして、私自身もあの当時は「自分の居場所はここではない」と、来たくもないところに親の都合で連れてこられた被害者意識でいっぱいの状態でしたので、誰に対しても頑なに心を閉ざしていました。
学校に行っても、図書館の個別自習スペースでただひたすら本を読む日々。
誰とも話さずに一週間が過ぎるのをひたすら待つというその場所はただただ苦痛でしかなく、度々登校することを拒否していました。
親は何が原因なのか、そして、どうしていいのか分からなかったと思います。
別に誰にもいじめられているわけでもなく、むしろ周囲の人たちは、誰にも関心を示そうとしない私に対して、鏡のように等間隔の距離感を置いてくれていただけなわけですから。
「周囲の人たちにとって、私は透明人間同然の存在だった」という見方もできますが、今思えば、現実を受け入れようとしなかった私が、「ただ勝手に周囲の景色を透明にしていた」のでした。
今は何が悪かったのか、そうした場合にはどうすれば良かったのかがよく分かります。
ただ、あの時はああした反応しかできなかったのが自分の幼さであったのだなとも思っています。
4年半の間、大切な時間を無駄に過ごしたことを考えると、これから先はどんなことでも無駄にせずに咀嚼して自分の糧にしてやろうと心の底から思えます。
ところで、同じ時期に渡米した妹は別の現地校に入学したのですが、積極的に新たな環境を受け入れた結果、あれから35年後の今も幸せに米国で暮らしております。
今日も読んでくださいまして、ありがとうございます。
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