今までにいなかった存在
ナナメの関係。今回のカフェゼミはそんな話だった。
かつての今まで縦も横の関係でさえ気にしてこなかった。縦として、横としての存在なんて言葉としても知らなかったのに、いきなりナナメときましたか。
けどカフェゼミが進むにつれ、「ナナメ」の存在がどのようなものか分かってきた。
あーこれ今までいなかった存在だわ。
分かりやすいようにナナメの存在として、親でも友達でも先生でもない誰か、そしてその人に縦横の人には話せない想定外のことが話せる、そういう存在という説明があった。
サザエさんでいう、カツオとウキエさんの関係。
カツオは自分の中で押し込み、閉まっていたものを話せたのか。
ウキエさんがナナメの存在として機能したのか。
ナナメの関係。
けど、やっぱり振り返っても自分の中にはそんな人はいない。
カフェゼミの他の参加者の方と話しているときこんなことを言われた。
いないから欲しいと思った時とかあった?
でも、そもそもナナメの存在を知らないからなんとも思わなかった。
だから、ナナメの関係の存在意義やナナメの存在がもたらすものについてもいまいちピンとこないものが今でもある。
ただ、こう捉えることもできる。
自分は今までナナメの存在に語れないものを自分の中に押し殺してきた、と。
じゃあ、この押し殺してきたモヤモヤな「自分事」を他人に話せるだろうか。
今までいなかった分、自分を「語る」事の難しさやもどかしさがここには生じるし、やっぱり、ナナメの関係が絶対に上手くいくとはなんとも言えない気がした。
けどここで思うことはナナメの存在が、もし自分の周りに目の見えるところにいたらどうだろうか。
彼らがもたらすものは何だろうか。
ナナメの存在によって新たな世界に行けるのか。
高校時代の満足度は80%。大学での満足度は果たして。
ただ、高校という小さい世界での満足度と大学の満足度を同じ畑で考えるのは違う気がする。
そう考えると、ナナメの存在によってより大きな世界に飛び込めることは、非常に羨ましいし、選択肢として欲しかったな〜と感じてくる。
もう1つ気になった事、それは想定外。
カタリバの場づくりのキーワードとして、想定外を届けるというものがあった。
これを聞いた時すぐにこう感じた。
人って想定外を届けられたら実際にその想定外に対処するのが難しいのではないか。
自分は想定外が苦手だ。
これがこう来るから、こうやって変わっていって、これがこうなるから、そこが移動するみたいな分かりきったルールがある方が、受け手側は驚かないし、動揺もしないし、安心なんじゃないかなと思う。
けどこれって合目的的になってるやん!
そうか、何もわかってることを予定通りにやっても何も面白くないし、ここからは何も生まれないような気がしてきた。
想定内のことを想定通りの相手に届ける。
カタリバじゃなくても、学校でも出来ることなのかとふと思い出された。
カタリバにしかできない「場」のあり方、想定外を届ける。
別にみんなにうまくいかなくても、きっかけを与えられる「場」になればいい。
想定外がもたらすものは今まで自分のはるか「想定外」な気がした。
今後の自分のナナメの役割を考えさせられた。
誰かのナナメの関係になれるか、ナナメの存在となって大きな世界、開かれた世界で真剣に話し合うことはできるか。
ゼミに入って、半期。真面目な話をすることの楽しさ、自分の意見を発信し、それに対して意見をもらったり、そこから議論を重ねて行くわくわく感。
ゼミが「開かれた場所」、ある意味自分の中でのナナメの関係としての役割を担ってくれている。
けどやはり、自分が先導してナナメの関係の場を作りたい。
ナナメの存在として、みんなと真剣な議論をしたい。
そう強く感じれるきっかけとなった・
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