「俺の家」
家族。
父、母、姉、俺、弟、一匹。
自営業、その手伝いと家事、大学3年生、大学2年生、高校3年生、老犬。
僕の家族だ。
ふと「家族」について考えてみる。
それはもちろん多種多様であり、同じものなんてないだろう。
だから、小さい時とか今でもそうだけど、友達の家に行った時のワクワク感とその友達の「親」に会う時のビクビク感はある意味みんなが共感できると思う。
来られる側の友達も自分の「家族」が意図的に明るみに出ることに対して、子供心に羞恥心を感じる。
人間は小さい時から、自分の家族とは違う場所に足を踏み入れる時、そこには家庭独自の「匂い」とともに、未知の「家族像」を目にしている。
「移動する家族」。2回目の視聴であった今回、話の内容を知ってしまっている分、かなり落ち着いて、1歩置いて見れた気がする。
けど、映像を通してであれ、他人の家族の「内側」を見ることは、違和感を感じた。ある意味プライベートが曝け出されてる30分間の作品に対し、自分は何を感じただろうか。正直見ている間は「俺の家」について考えていた。
もちろん30分を通して感じるものはあり、考えさせられるものもあったが、そこに「正解」なんてないだろう。
感想を書けと言われたらそこに何も書くことは僕にはできない。
問題解決的な考えだが、この文章は課題であり、このまま終わらせることはできない。
じゃあ。
ちょっと冒頭に戻るが、「俺の家」のプライベートを少し曝け出してみる。もしよければ、長谷川家の内側を見て何か引っかかるものがあったら伝えて欲しい。けど、感想は要らない。
「自分の理想」は今までの蓄積されたものの中で洗練され形成される。残念ながら、「自分の理想」の家族と「俺の家」は違う。
「子供」という楔が家族を、「俺の家」を繋いでいると感じる時は多々ある。
もう一つ、「血」の繋がない弟の存在がある。
拾われてきた彼は人間より年をとるスピードが速い。
小学3年の時家に来た弟は、今では出したものも食べるし、自分の名前も分からなくなるし、オムツはしてるし、一日中寝てるし、もう「おわり」に近づいている。
毎日「おわり」に近い弟を見ていると、自分自身は悲しいというよりも、生物ってこうなるんだと驚かされる毎日だ。
ただ、「親」は違う。
最初は家に来ることすら反対していた父は、彼のおかげで犬に触れるようになった。今では毎日散歩している。
4人目の最も遅く来て、最も早く家を出るであろう「息子」に対し、時間を捧げ、愛を捧げている。
この前自分は20歳になった。
大人になった。
こうやって文章を書ける機会があり、少し余裕が出て来た歳になり、今僕は「俺の家」の現実に向き合い、家族を知ることができている。
「今まで」見ていた、感じていた家族は、「今」見ているものとは違っている気がしてきた。
自分の家で、未知の「家族像」を今目にしている。
大橋さんの作品を見てる時、出てきたある家族に、ああこんな家族だったらなとか、ついつい「理想」と「俺の家」を比較していた。
けどこうやって書いてきて思うのは家族の形に正解なんてないし、今まで語ってきたものはあくまで持論だ。
ぶっちゃけくだらないと言ってしまえばかなりくだらないのかもしれない。
見ている人にとっては必要のない情報かもしれない。
けど、この機会にみんな「自分の家」、「家族」について考えてみてはどうだろうか。
僕のように曝け出す必要はない。
ちょっとだけでいい。
そこで少しでも感じるものがあったら、それは今までの感じていた家族像とは違い、未知の「家族像」にぶつかってるんじゃないだろうか。