コーヒーなんて。自分なんて。
カフェゼミで話されたパリのカフェの話。パリなんて行ったことないし、今のところ行く予定もない。今日はそんな話だった。
未知の都市の未知のカフェ。
けど、思い返せば日本であってもそもそもカフェなんて行かない。カフェなんて粋ってる奴が行く場所だと思っていた。
いや、今も思っている自分もいる。コーヒーなんて飲みたいわけじゃない。そこに行ってる自分が好きなだけなんだ、と。
うまいコーヒー。そんなもの自分の家のインスタントで足りると思う。
サードプレイス。
この頃よく聞くようになった言葉。パリのカフェはサードプレイスとしての役割がある。
ぶっちゃけよくわからない。どうせ彼らも粋がっているんだ。行ったことのない土地の話すこともできない彼らになぜか中傷する自分がいた。
しかし、話が進むにつれ、自分と飯田さんの話に生じていた違和感が変わり始めた。
パリのカフェは日本のカフェとは違っていた。
彼らはカフェという場を楽しんでいた。家でも職場でもない。日本人がインスタ映えとか粋ってる場所として使うカフェとは違った。
彼らは囚われてない気がした。自分らしさを出し、自分が好きだからそこに行ってる気がした。
ふと、自分にも今そんな場所があることに気づいた。
自分の中でのサードプレイス。
僕の中での必要不可欠な場所。
海。
大学の中の活動ではあるけど、いろんなのことができいろんな人と話し、自分らしくいれる場所。
対話の場所と言うには、まだ程遠いけど、いろんなことに参画したり、そのヒントがここには広がっている気がする。
もう1つ、自分の中で気になったことがあった。
「合目的的」
こんなこと書いてる自分も合目的的なのかも。
日本の社会にはルールがある。
大卒でなければ、いい大学を出でいなければいい会社、いい社会人、いい未来を手にすることはできない。
こんなルールから外れることは許されないし、異端だという社会の価値観がある。
飯田さんのような人を見ると、なんでこの人はこんなにリスクを冒して、日本のルールを外れることができるのかと思う。
自分じゃ絶対にできないし、考えられない。
じゃあ差はなんなの。
ルール外れて、自分らしくあることと、日本という慣習の中のレールを走るその他との違いはなんなの。
金になるならないじゃなくて、自分の幸せや興味を追求するってなんなのか。
合目的的な生活は、安心だし、安定だし、孤立しない。
自分に何ができるのかわからない今、何から踏み出せばいいのかわからない今、とにかく突っ込むのがいいのかもしれない。
この頃自分の中で生まれる葛藤。
就職。給料。いい仕事。なのある会社。
やっぱり、お金は重要だし、生活を豊かにしてくれる。この大学生活、その前段階として様々なことを学ぶべきだ。
わからない。
カフェゼミではいろんな人と話した。
大人というステージに上がり、自分らしさを追求していた。そんな風に感じた。
自分の葛藤は古いのか、もうどうでもいいことなのか。話を聞いてれば解決するわけでもなく、この問題は未解決だ。
レールに敷かれた道を歩くこと。
今の葛藤はこれからもつきまとう。
けど、いらないものじゃない、大切にしたい。
対話の場である最初のカフェゼミは、自分との対話中心で完結しない気がした。