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「鬼滅の刃」無限列車編レビュー 夢幻と無限を否定する者たち

前説 

「飛ぶ鳥を落とす勢い」とはよく言ったもので、劇場版鬼滅の刃が公開されてからというもの、その快進撃はとどまることを知らず、興行成績を示す折れ線グラフは天を穿つような角度で進み続けております。

 いちジャンプ読者として、昨今の鬼滅ブームは喜びと同時に驚きも感じているところがあり、よくミーハー層を取り込めたなという感じ。というのも鬼滅の刃は、確かに子供にも人気が出そうなキャラクターがたくさん登場するけれど、容赦ない残酷描写やあまりに暗いキャラクターの過去を描き切るなど、作者のアクの強さが結構出ている作風だから、普段はアニメを見ない層から子供たち、ひいてはポケモンや妖怪ウォッチを見ていた様なちびっこまで虜にするポテンシャルをこのアニメが持っていたとは、正直意外であった。

 アニメも一応見てたけど、人気に火をつけたのは間違いなく第19話「ヒノカミ」だったと思われる。圧巻のバトル描写と美麗なヒノカミ神楽のエフェクトが大きく話題となり、ファンからは「神回」と称されたし、たぶんそれがネットでも大きく話題になって、興味を持つ人が増えたのではと肌で感じているところです。

 鬼滅の刃の制作をしているufotableは作画が良いと定評があるけれど、具体的に言うとCGを用いたエフェクト作りがあの会社の特筆なのではなかろうか。作画力の高いアニメスタジオは多くあるが、ドッカンと派手な攻撃を作らせたら、頭一つ抜けている印象。逆に演出や描写などは堅実にこなすイメージ。

https://twitter.com/hagakureni/status/1325703466639978496?s=20

 さて、私は「鬼滅の刃」をジャンプで読んで応援していたけれど、単行本を購入しているような熱心なファンではなかったことをここに告白します。
 そのため、無限列車編も隔週で読むジャンプのライブ感で読んでおりました。無限列車編は鬼滅の刃の中でトップクラスに好きな章だったけど

・猗窩座の出現が唐突である。
・炭治郎が死に涙するほどまだ煉獄と仲良くなっていない。

 というような欠点も持ち合わせていると感じていた。口には出さなかったけど。

 しかし、ついに劇場版を見て、週刊では読み取れていなかったものがめちゃくちゃ見えてきた。やはり映画は没入感が段違いだから考察がはかどるのだ。 

ということで以下感想

映画で観てやっと分かった無限列車のテーマ

 まず、この映画は竈門炭治郎と煉獄杏寿郎のW主人公。なぜなら、彼らだけがそれぞれ映画のテーマと正面から戦えたから。
 この映画のテーマは、最初から示されている「無限列車」そのもの。あの奇天烈な「無限」は、ただの意匠ではなく、映画の根底に横たわる(もしくは駆け抜ける)敵対思想として、二つの形で鬼殺隊の前に提示されるのです。
 つまりは「夢幻(夢限)」と「無限」。

「夢幻」
 ゆめまぼろし。言うまでもなく、魘夢の能力。
 かまぼこ隊三人は、現実から引き離され、自分に都合のいい夢を見せられ続ける。煉獄だけは、正しい過去の夢を見る。
 劇中の切符は「夢限」になっていた。「夢幻」でも「無限」でもなく、敢えてこの字を選択しているのは、何かしらの意図を感じずにはいられない…。
 調べたが完全な造語のようでした。字から推測するに「夢の終わり」か「終わらない夢」を表しているものと思われる。

 劇中でこの夢幻と戦うのは、竈門炭治郎ただ一人である。炭治郎だけが水鏡(古来より真実を映し出すとされる)を通して夢であると見破り、自決を通して夢の世界から脱出をするのです。煉獄さんも夢の世界にいながら、現実の世界で動くことができたが、あくまでも生存本能の反応だった。
 なぜなら、夢幻と戦うのは炭治郎の役目だから。
 炭治郎は戻らない過去と決別し、限りなく「ずっとここにいたいなぁ」と思わせる"夢限"の世界に別れを告げ、自分を殺して元に戻るのです。
 そして、魘夢と戦うときも、「家族に関する悪夢」をみせられ、彼は全身全霊をかけて否定するのです。

 夢幻を否定するのは、主人公である炭治郎だから、魘夢と戦い、彼が首を落とさなくてはならない。

「無限」
 果てがないさま。infinity。
 猗窩座が提示するもう一つのテーゼ。
 猗窩座の出現は唐突ではなかった。はじめから「夢幻」ではなく「無限」だと列車により提示されていた。
 ここでは、もう一人の主人公煉獄が戦うことになるのです。

 「鬼にならないか」という猗窩座を即座に否定し、切り伏せる煉獄だが、霞に剣を振るように、数秒後には何もかも元通りになる不老不死、無限を体現する鬼には徒労でしかなかった。
 いやあ、ここの描写はすさまじいものがあった。TV版ではあまり感じなかった、鬼と戦うことの理不尽さが、切っても切っても回復する鬼と、確実に傷ついていく煉獄の戦いでまざまざと伝わってきました。

 そして煉獄の「老いるからこそ、死ぬからこそ、たまらなく愛おしいのだ」という台詞は、これまでなかったわけではないが、この映画では意味合いが少し変わってきて、先ほど炭治郎が自分を殺して別れを告げた家族、過去を抱擁して「愛おしい」と意味づけるものになっている。

 で、煉獄が猗窩座を捕らえて、陽の光で灼こうとするとき(この夜明けの表現は目を見張るものがあったので、無惨戦がたのしみ)、無限と有限の対比が読み取れていい。
 夜明けは有限の産声である。半日で消えてしまう太陽の光は、毎日欠かさず昇るのです。夜のない世界で、誰が朝日の喜びを知るだろう。日々死に、日々生まれる日輪こそ、人の生を象徴し、無限であるはずの鬼を焼き殺すことができるのだ。

 それに対して、猗窩座の取ることができる行動は、暗い湿った森の日陰に逃げ込むことしかできない。無限を標榜する者の敗北の瞬間である。

 だから煉獄さんは勝ったんだ!だから炭治郎は泣くんだ!

 漫画を読んだとき、なんと浅い読みをしていたことか。反省である。


不満点

とはいえ100点の映画ではない。以下不満点。

・セリフ量
 鬼滅の刃の魅力はセンスあふれるセリフの数々だ。とはいえ原作は、いささか状況説明を全部言葉で言ってしまう癖があった。それをよしとするファンもいていいが、映画でそれを修正しないのは怠慢と思う私は。
 そもそもアニメは内面描写が不得手で、気持ちや考えを脳内台詞で片づけようとすれば、必ず冗長になる。TV版だったら、まだ許されたけれど、映画にするならば、状況説明や気持ちは画で語らないと。
 あまりにも多く、目についた。

・演出
 原作を忠実に再現しようとした弊害か、夢を見る3人の切り替えが下手。伊之助と善逸のパートはギャグなんだから、炭治郎や煉獄の邪魔を極力しないように配置すべきだった。特に炭治郎の良いシーンの後に気持ちが続かないところがあったので、大きなマイナス。

 アニメは映画的演出で非常に優れていたけど、映画は優れた映画演出のアニメのままではいけない。

・音楽
 ところどころ大仰すぎるきらいはあったけど、全体的にはよかった。煉獄さんの最期以外は。なんでコーラス入れたんだ?セリフの邪魔でしかなかったが。

総評88点

 + 優れた戦闘に音楽、見事なキャラクター作りができていて、人気も納得の出来栄え。
 + 特に朝日が昇る場面や、炭治郎が家族と別れる際に「竈門炭治郎のうた」をリプライズするシーンは秀逸。
 ? 戦闘作画はさすがだが、Fateを作ったufotableならばより上の世界が見えているのではないかと思わなくもない。
 - 映画的演出はTVアニメの延長線上から脱しておらず、場面とミスマッチな箇所も存在している。


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