余裕がある自分と、余裕がない自分は紙一重。
多分、人を助けられる側の人間だと思っていた。そういう余裕がある側の人間だと自分で自分を信じていた。
一夜にして、転落する事もある。
昨日までは、コロナで大学に通う事もできず、バイト先は閉店し、親が経営者で経営難に陥ってしまった大学生が、苦境に立たされ、この真夏の暑さだというのに、ついに40度が出たところもあるというのに電気代を考えると冷房入れるのも躊躇う、という言葉をTwitterで呟いているのをみて、本気で心配してその人に何か手を差し伸べるべきではないかと真剣に悩む、そういう余裕が私にはあった。
多分傲りが混ざっている。
そして、目の前の一人を助けたところで自己満足を得るに過ぎず、そんな人は世の中に、というか世界中にごまんと居る。ホントは少しでも余裕のある人たちをかき集めて、本気で一食に困っている人たちを救う手立てを真剣に考える一大ムーブメントでも起こさないといけないのではないか、みたいな事を考えていた。
一転して、翌朝。
私は父を5月にほぼ癌で亡くしたばかりなのだけど、母に突如脳梗塞の疑いが散見され、機転を利かせた妹が救急で病院に行かせ検査してもらい、脳梗塞だろうということで入院する事になった。
実家は関西で私は関東に住んでいる。
タイミング的にコロナ禍でもあり病院は一切面会できないということ。
2週間程入院し、その後経過を見るとのことらしいけれど、もう、手も足も出ない。
…父が、ちょっと医療の判断が違っていたらまだあと2〜3年は確実に生きていただろうな、という感じでの急逝だったので、自分を誤魔化し誤魔化し、今日まで過ごしてきている。
なのに。
まさかの、母まで、それも、思ってもみなかった、脳梗塞、とは。
これで私、頭が真っ白になる。
「余裕がある側」だったはずが、一気に叩き落とされている感覚。
医師から直接説明を受けてもいないから、情報も一握の砂感。脳梗塞の「ステージ」が検索してもよくわからず、これは軽症のうちに見つけられてラッキーな部類なのか、それとも、しっかり脳梗塞発症から数日経ってしまっているからかなりマズイ、なのかが判断できない。
わからない事だらけが頭を占拠してしまって、一気に余裕なんて皆無になってしまった。
…と、そこで思ったのが、余裕があると信じて手を差し伸べる行為。もし、今の私がそれをしていたら。差し伸べた側が、勝手な都合で途中で手を引っ込める。…最悪な結末しか見えてこない。
でも、差し伸べない事にしてしまう、ということは人を「見捨てる」という事に。
努力もしてみせず、人を振り払う
努力した結果、破綻して人を振り払う
選択肢、これしか無いのだろうか。
自分が選ぶべき道が見えてこない。
そして実際の私は、多分「それどころではない」のだ。
もう悲しくて悲しくて、混乱もしていて、自分の存在意義すら疑う言葉が脳裏に浮かぶ。
昨日までは、コロナ禍でも割と、かなりマシで幸せな方だなとか思っていたのに。
でも実際、コロナ禍の今の状況で。
身内の葬儀をするというのは、とてつもなく切ない事だという事を経験している。誰も呼べない、誰も来れない。人との交流をとても大事にしていた父なのに。そういう事を肌身に沁みて感じ、また、「こんな時期に病気なんてするもんじゃない」と母に思っている。
お見舞いにすら、行けない。それに、コロナが蔓延しているのに病院に入院だなんて。
母は元々糖尿を持っている。
ちょっと、半年、いや、ほぼ3ヶ月以内に立て続けにこれは、これはちょっと無いんじゃないか、と思う。
初孫で内孫である、私の息子。
4歳なりに、大好きなおじいちゃんが死んで居なくなってしまった事をよく理解している。
今日はおばあちゃんが2週間入院だって、と伝えると泣きかけて、「おばあちゃん、死んじゃうよねぇ」と言った。
入院したら、死んでしまった、おじいちゃんに重ねているんだと思う。
「死なない為に、入院したんだよ」とは言ったけれども、言ってる私が半信半疑だ。
混乱し過ぎて文章が全くまとまらない。
でも何処かに吐き出してしまわないと、なんだか頭がおかしくなりそうで。
孫からおばあちゃんを奪わないで欲しい。父ですら、だいぶ早かった。母はまだ、平均寿命まで10年以上ある。まだ、早い。
誰かに言いたくて。一人の友人にのみ言ったけれど。夫も知っているけれど、夫の前ではサラッと毅然にしていたいのだ。なんとなく。
病院でコロナを貰ってきませんように。
リハビリでそこそこ普通の生活に戻れますように。
そしてこんな時にすら、即受け入れてくれた病院、医療関係者の方々に感謝もしつつ。
また、もうちょっと自分の余裕を取り戻せますように。そうしたらやっぱり、私が誰かの助けになりますように。
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