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御嶽山‐伊勢ラインにいた青嶽龍神

クニ開きのこの日に、いざなわれて大舩神社に参拝した。そして、思わぬことにこの地で龍に出会った。
出発の朝のねぼけた頭に、「丹生川上神社下社の黒瑪瑙の霊玉は別のところに置くがよい」という言葉を受け取った。しかるべきところに。と。

大舩神社(おおふねじんじゃ)

2025年2月11日の大舩神社

主祭神 大船大神(おおふねおおかみ)
創建  860年 大山神社遷宮
所在地 岐阜県加茂郡八百津町八百津4424
備考  船を作るために大樹を伐ったが「この樹の中には、間違いなく神様がいらっしゃる。先ほど、この樹を切り倒す時に来たあの鳥も、この樹に寄り添う尋常ならざる白い鳥である。この樹を引き下ろすのは、中止にしよう」ということで、船になるはずだった樹は、そのまま山の頂に残り、いつしか、その神の御名を『大船権現』と言い伝えられるようになった。

樹齢1000年の大杉

こちらにも樹齢1000年と推定されるご神木があり、縄文時代の祭祀場も遺されている。

青嶽龍神

どうにもこうにも気になる龍神さま。お地蔵さんのように編笠をかぶり蓑もかぶせられる姿がかわいい。けれど、青嶽とは、なんだろう。

もう少し南にある熊野神社のところに八百津の案内図があり、五宝滝の文字を発見した。聞いたことがある秘境だ。案内図に誘われて、この機会にと五宝滝に向かった。

五宝滝(ごほうだき)

三の滝ツボから

大舩神社から北へ3㎞、五宝滝公園駐車場から800mほど歩く。一の滝、二の滝、三の滝のほか、宮本武蔵が修行したという二天の滝・円明の滝で、五宝の滝という。道々、夏であればバーベキューなどを楽しめるようなお店を過ぎ、立派な木彫りの九頭龍さまが現れてぎょっとする。そして稲荷神社を通り過ぎて、左に入っていく。夏だったらさぞ涼しいだろう。足元の雪に気を付けながら行く。

この瀧に青嶽龍神さまはいた。
声を発すると、音が龍神さまの体内で呼応した。
しばし、青嶽龍神の神気を黒龍の霊玉と共に浴びる。
「海根(あまね)」という文字が湧いてくる。
こんなに山の奥なのに本来は海の根にいた龍神さまのようだ。碧い色をしている。

帰りに青い鳥を見かけた。雪が羽根についたのか、輝いていた。

伊勢式年遷宮で木曽材を運んだ木曽川

第41代持統天皇の御代である690年、伊勢神宮第1回遷宮が行われた。伊勢神宮は木曽の山より切り出した材木も一部奉納された。このとき、八百津から木曽材を運んだのが木曽川だ。錦織中納言久通卿が開拓した「錦織湊」からは、木材を組んだ筏だけでなく、養蚕でとれた絹や、茶葉などが船に乗り木曽川を下り、川下からは帆を張った船が、風を受けて木曽川をさかのぼり、川下でとれる塩や米などを運び、名実ともに日本一の川湊として栄えたという。最盛期は1887年(明治20年)ごろで、1936年今渡ダムが着工するまで舟運は、久田見村(くたみむら)から裏木曽あたりの人々の暮らしを支えた。

木曽川をさかのぼるとこの恵那峡など渓谷がある

1185年檀浦の戦いで平氏が破れた年、八百津の奥に渡邊左衛門源八郎(わたなべさえもん みなもとのはちろう)が、渡辺党水軍の水運技術を生かすべくやってきて、星神社を勧請した。渡邊氏は嵯峨源氏の子孫である。綱(つな)という酒呑童子退治の英雄が渡辺氏の家祖になる。綱の母方の実家が摂津にあり、父の死により移住して渡辺党水軍の祖となった。渡し場に錨星(いかりぼし、カシオペア)大明神を祀る。船の民にとって星は道案内だ。

八百津の奥に移住した渡辺の源八郎は、カンミムスビの玄孫でありニニギ天孫降臨に同行した星神天香香背男命(あめのかがせおのみこと)を祀った。渡辺氏は軍人であったが、坐摩神社や露天神社の社家に分流もある。星神社神主に就いたのが渡邊氏分流で尾張大國霊神社の宮司家久多氏であり、久田見村の名の由来となった。今は池井戸という姓が多い村である。

木曽川の神官龍脈、久田見‐中ノ島‐常滑

一方、久田見村を管轄した尾張国のお話である。
第11代垂仁天皇が140歳になった紀元1世紀、尾張国造により中嶋郡が中嶋神戸として、伊勢神宮領として寄進された。1世紀ごろはまだまだ海が高く、現在の熱田神宮から西側、北は岐阜に至るまで遠浅の海であり、今も地名に残る長島、津島、枇杷島などの島が点在し、その真ん中、木曽川河口近くにあったのが中ノ島であった。

尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)

717年の古地図では伊勢湾に浮かぶ中ノ島は、寒冷化で海が低くなってかなり大きくなっており、尾張一宮のほか、国府が設けられたのを機に、はだか祭りで有名な尾張大國霊神社が国府宮として創建された。神官として伊勢より派遣されたのが久多氏であった。伊勢と尾張の間をつなぐ「くだ」となるようにと下賜され渡辺系譜久多氏の祖となった。くだとは機織りの際に横糸を巻き付ける器具のことである。

お宮建設の材木は木曽川を下って可児や八百津(細目)の湊から運ばれた。木は伊勢神宮などへも筏で運ばれていたのだ。尾張大國霊神社の宮司久多氏の御座所が中ノ島にあり、久多神社として今もあり天香香背男命を祀る。

久多氏と同族の渡邊氏が八百津の奥に星神社を勧請し、その神官となった久多氏の名をとって久田見道が拓かれた。この時点で「くだ」は伊勢ー尾張ー八百津を編みこんだ。

鎌倉幕府は北条執権に移り1221年承久の乱が起きた。その年、摂津渡邊氏の分流が愛知県中島郡に土着して中島氏を名乗る。尾張大國霊神社の久多氏とは元をたどれば同族である。しかし1339年、一族の争いにより久多氏は当地を去った。

活路を求めて滋賀蒲生へと移動したものが武士となりやがて京に出てゆく。一方八百津の神官久多氏に身を寄せた流れが、木曽川の材木舟運を通じて久田見と知多半島を繋ぐ「くだ」になる。久田見の久多一族はその後と絶える。地域に姓が残るのは、姓を継ぐ家の当主がいるからだ。女系一族は養子を求めなければ歴史の上では断絶する。

久多神社の名にちなむ姓が常滑市で多い姓の第4位にある。古老の伝えでは京から常滑へやってきたという。八百津と伊勢湾を繋ぐ材木舟運を生業としていた者が神官久多の血筋の女を娶ってできた娘と、滋賀蒲生郡久田村出身の京で生まれた末っ子が結婚して養子となり材木舟運業を習い覚えて、久多の系譜を継ぐ当主となり、材木商や舟運業者として常滑に根付いたと考えられる。

その常滑市のすぐ南に野間はある。
知多郡美浜町野間に細目という名が残る。八百津(細目村)の舟主たちがひと固まりで移動したかもしれない。フグの産地故か冨具神社がある。


その奥に戦国時代に使われた細目城跡がある。城主の名は細見を名乗った。八百津の山の中と伊勢湾に面する野間とは、細目という村の名と木曽川舟運を通じてつながっていた。木曽川には、裏木曽と知多半島西浦を重層的に繋ぐ強い龍脈が存在していた。

建国のこの日、野間にいた黒龍が八百津に動いた。西浦の人の声が八百津にいる青嶽龍神さまの体内で共鳴し目を覚ましたのか、「迎えに来てくれてありがとう。」ときた。「くだ」は折り返された。
青い鳥や、九頭龍に思いがけず出会い見送られて帰路に就いた。

丹生川上神社下社の霊玉

丹生川上神社下社の黒瑪瑙

三人姉妹の丹生川上神社の霊玉の、二つは天川命神社に奉納し、一つだけ手元に残っていたが、今回大舩神社で水浴し青嶽龍神との出会いがあった。黒瑪瑙は青嶽龍神の龍穴に降り注ぐ雪禊をし、目会いを果たした。

伊勢と西浦と八百津に「くだ」を通し、行ったり来たりすることで、この龍脈は活性化する。黒瑪瑙の霊玉を置くべき本来の場所がハッキリした。
伊勢ー御嶽山ラインをもう一度なぞらなくては。次なる参拝路は伊勢と御嶽山だと見えてきた。

ただ、この龍脈がこの時代の日本にどう働くのか、それはまだわからない。

伊勢ー御嶽山龍脈をたどる

裏木曽の向こうには木曾の御嶽山がそびえる。
そして、南南西方向の伊勢神宮との間を、木曽川と伊勢湾を経てつながる。

丹生川上神社三社巡りから始まった3つ霊玉の神社浴旅は、黒龍を巡ったり、琵琶湖を一周したりしながら、はからずも伊勢ー御嶽山へのルートをとることとなった。

そのルートを開発した人々の1300年前ぐらいからの動きがわかってきたが、今回はそれどころではない、もっと古い昔の龍脈について観じなければばならないと感じる。

そしてたどり着いた答えは、「中部に六芒星の結界が張られている」ということだった。でも、何のために?


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