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善と偽善の境界線

善行とは 
よいおこない。

偽善とは 
本心からではなく、上辺をつくろって
する善行。

時々自分自身
『僕は偽善者なのかな?』と思うことがある。

家での振る舞い。
職場での振る舞い。
義実家での振る舞い。
実家に帰った時でさえ部屋の片付けを
し始める始末だ。

僕が働くことによって
周りの誰かの負担が少し減ればいいな』
という気持ちは昔より減った。

子どもが生まれて、自分の家族ができると
周りの他人より家族のために時間や労力を使いたいと思うようになったからだ。
それでもやはり誰かの負担を和らげることができたらなとは思う。

中学生のころは
世界中のみんなが幸せになれればいいな!
俺がそういう世界にしよう!
とか意気込んでいたような気がする。

しかし、世界はそんなに甘くはない。
善行をする人がいれば、悪事を働く人もいる。

自分がどれだけいいことをしても
倍の速さで悪が強くなるのなら
太刀打ちできない。

大人になるに連れて
そういう現実が身に染みた。

チャリティー募金を募ってお金を集め、
職員の誰かが着服していた。
そんなニュースを聞かされると
これがリアルだよなー』と変に感心する。

そうこうしていると
ボランティアのようにしている僕のこの行動も
『ただ人に褒められたいから、認められたいからしてるだけなんじゃないのか?』
と思うことがある。

僕の基準では
見返りを求めだしたら
それはもう『偽善かな』と思う。

僕の場合は
誰かの仕事を手伝う時も
義実家で料理を作る時も
家族の部屋を片付ける時も
見返りを求めるつもりはない。

そこに感謝の言葉があれば、
それはもちろん嬉しいけれど。
その感謝の気持ちが欲しいからしている
というわけではない。

職場の同僚や部下には疲れた時は
誰かに頼って休むことの大切さを伝えたい。

義理の両親にはできるだけ普段食べないような美味しいものを食べてもらいたい。

家族にはできるだけ清潔な空気の中で
生活してもらいたい。

そういう気持ちから勝手に体が動いているのだ。

そもそも、『善』とか『偽善』とか
知ったことではない。
人によって『善』、『偽善』、『悪』の
捉え方が異なるのだから
それをイチイチ気にしだしたら
何も行動できない。

僕は僕の正義を貫くとしよう。

例え『偽善者』と思われても
その行動が少しでも誰かのためになっているのであればそれでいい。

しかし僕は募金はしないと誓った。
裕福なやつにさらに小銭をあげる意味を感じないからだ。
いいことをした風で、
届く先が裕福なやつだったとしたら、
それこそただの『偽善行為』だろう。

救いたいものは自分の手で救う。
届けたいものは自分の手で届ける。
そのために日々なんか努力しよう!


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