ミラージュ・サブスタンス #7

  -1

「スサノの技能は、〈圧〉を操ることです」
 ホメロを師に据えた訓練初日、休憩時間中、彼女は言った。
「圧……」
「大まかに、空気圧や水圧、物体の密度等のことです。差を作って圧を生んだり消したりすることで、発生するエネルギーをある程度自由にコントロールすることができるのです」
 坂道を球が転がるのは高低の差があるから。風が吹くのは気圧の差があるから、電気が流れるのは電荷の差があるから。あらゆる動力の源は圧に通じている――。
「ってことはつまり、無尽蔵にエネルギーを生み出せるってことですか」
「一見すると、そうでしょうね」
 ホメロはあっけらかんと言うが、それは恐ろしいほどに巨大な力だ。少し考えるだけで、群青の町どころか揺籃の国を滅ぼす方法はいくらでも思いつく。建物を悠々吹き飛ばす突風を巻き起こしたり、全土を飲み干す津波を起こしたり、そうでなくとも道行く人を片っ端から水風船のように破裂させることだってできる。
 ところが、この師匠ときたらその力を、鍵を挿してドアを開けたり、ペンでものを書いたり、箱の蓋を開けたり、匙でものを食べたりするのに使っている。両手が不自由とはいえ、その使い方はあまりにも可愛いらしいというか、微笑ましいというか。
 ロエルがそう思えたのも束の間、次のホメロの台詞でその考えを改めることになる。
「私はこの力で群青の町で消費されるエネルギーの三〇〇パーセントを生産しています」
「……はい?」
 到底、すぐに呑み込めるような話ではなかった。
 蜃体のうち、燃料の役割を果たすのは『貯蓄体』と呼ばれるもので、扱う蜃体師が最も多い。
 基本、一つの町ごとに一つ、貯蓄体を貯蓄するための大きな施設=函があり、群青のそれは〈心臓クール〉と呼ばれている。それぞれの貯蓄体に入るエネルギーは有限だが、チャージは無限に可能。つまり、この施設が巨大なエネルギー源として君臨しているわけだ。
 貯蓄体同士はもつれ合わせることでエネルギーを充填し合うので、管や線を用いることなく函のエネルギーを町中に供給することができる。
 よって、貯蓄体を扱う蜃体師の職種は大まかに言って二つ、函の貯蓄体にチャージを行う者と、函の貯蓄体のエネルギーを町中の貯蓄体に充填させる者。普通の町ならば、チャージ職とエネルギー職の比率は七対三程度になる。つまり、百人の貯蓄体専門蜃体師がいたら、七十人が函担当、三十人が町中担当ということだ。
 しかし、群青の町では全貯蓄体専門蜃体師の七割(或いはそれ以上)の人数が必要な箇所を、ホメロたった一人で担当している、というのだ。
「蜃体の内部に幾重もの差を生じさせることによって、一瓶の貯蓄体あたり三千二百倍のエネルギー貯蓄を実現しました」
 ホメロはさらりと言うが、ロエルは内心慄えていた。群青の町の人口は二五万人程度と言われているが、その全員の生活をほぼ一人で支えているというのか。――というか、まだまだ増えても支えられる。支え足りない。
 ここ十年来、恐るべきスピードでこの町が発展しているのは、彼女が降臨したからに他ならない。
「これも、校長が私を見出し、先帝が私を信頼して下さったお陰です。あなたが、デグマの力を上手に扱えるようになれば――この国は、更に多くの人々を養えるようになります。だから、頑張りましょうね」
「はい……それにはまず、こいつの力を発現させなければ、ですが」
 その時のロエルは、実に素直に頷いたものだった。
 きっとホメロは、群青の町の周縁部を歩いたことがない。だからこそ、無邪気に町の拡充が即ちより多くの人の生活=幸福に繋がると思っている。しかし、実際に膨んでいるのは金持ちの腹と貧民の数だけだ。結果的に、苦しんでいる人々を増やしているだけとも言える。
『人の世はそう簡単に通してくれやしないぜ』
 デグマが耳元で囁く。
『言ってみりゃ、誰もが欲しがる潤い=利益だって《差》によって生まれんだ。歪ヒズミだよ。この軋轢がこのお嬢さんをいつまで許しておくかねえ……』
 ロエルは何も答えず、考えなかった。ただ漠然とした緊張を覚えていた。 

  2

『来たぜ。上からだ』
「上?」
 言われるがままに上を向いた、まさにその時、一人の少女が落ちてきた。
 軽やかな着地音。このあたりの建物はさして高くないとはいえ、随分軽やかな身のこなしだ。さっき身につけていた襤褸の外套は、思った通りどこかに棄てて来たようだ。
 追手は完全に撒けたと油断しているのだろう、少女はロエルに気づくことなく、上機嫌で半地下の店の入り口に歩いて行く。行きのルートから辿られていたなんて、思いもよらないだろう。
「おい、財布返せ」
 だから、ロエルが声をかけた瞬間、少女は尻尾を踏まれた猫のように、文字通り飛び上がった。
「え、嘘、そんな! 尾けられてた!?」
「たまたま見つけただけだ。世間は狭いからな」
 適当なことを言いながら、ロエルはうろたえる少女の懐から自分の財布を取り返す。すると、弾き出されるように他の財布も幾つかばらばらと落っこちた。
 二人は、地面に散らばった財布を見下ろしてから、顔を見合わせる。
「いくらなんでも、欲が突っ張りすぎじゃないか?」
「あ、いやね、今日は皆様、揃いも揃って財布の紐がゆるゆるだからさ、危ないから持って帰って、キツく縛って返してあげようかなあ、なんて」
「……まぁ、俺の分だけ返してもらえれば、どうでも良いよ」
 そんな言い分が通用するのは寓話の中だけだろうが、自分のものさえ戻ればロエルの気にするところではない。むしろ、余計な心配をして損をした気分になった。いつの間にか肩に乗ってきていたデグマが、音を立てずに笑う。
「はー、びっくりした……店の前で捕まるとか初めてだし……」
 少女は落とした財布を拾いながら、ぶつぶつと託っていたが、やおら顔を上げると目を瞠って、恐る恐るという風に口を開いた。
「あ……も、もしかして、あなた、蜃体師だったりする?」
 相手の態度はともかく、ロエルはどう返すべきか悩んだ。
 実は王法上、蜃体師になるための訓練を行っている者は存在しないことになっている。皆、蜃体学校の中に閉じ込められているからだ。だから、ロエルも法の上では存在しない者だが、しかし蜃体師用の標付けがついているから、一応、そう名乗っても良いのかも知れない、が、だが、未だデグマの力も発現できていない以上、なんとも――
「……わからない」
 結局、それ以上に誠実な回答が見つからなかった。煮え切らない返事に、少女は目を丸くする。
「この世に、自分が蜃体師かわからないなんてことがあるの……?」
「あるんだよ。それより、どうして俺を蜃体師だと思った?」
 ロエルの質問返しに、少女は不満そうに下唇をちょっと突き出した。
「連中なら私を尾ける魔法を持ってておかしくないな、って思って。蜃体師は、私の天敵なんだ」
 魔法の正体であるデグマが得意そうに鼻をすする。ロエルは気にしないよう、少女との話に集中する。
「何で蜃体師が天敵?」
「蜃体が見えるから」
「……どういうことだ」
「ま、わかんないってことは、あなた蜃体師じゃないでしょ? それならいいよ」
 皮肉っぽく少女は言うと、財布を残さず懐に放り込んでから歩き出した。そのまま階段を下りて、根城にしているらしい店のドアを開く。
 だが、そのまま入ってしまわずに、階段の下から背伸びして顔を覗かせると、
「どうしたの? 入んなよ」
 不思議そうに訊いてきた。意外に過ぎて、反応が少し遅れてしまった。
「え? 入って良いのか」
 訊ねた瞬間、ロエルの腹が絞られたような音を出した。少女はくすくすと笑って、
「さっきから、そんなにお腹の虫騒がせておいてよく言うよ。それにあなた、悪い人かも知れないけど、良くない人じゃあなさそうだし」
「悪い人と良くない人ってどう違うんだ」
「王法を侵したか、王法で加護されていないかでしょ」
 少女はぺろりと舌を出して見せた。

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