ミラージュ・サブスタンス #10

  4~7 et 9(Digest)

 小さな磁石の函の隅でデグマが丸くなっている。
 ロエルはそれを黙って見つめている。
 日が暮れる。ホメロがやってきて、いつもの報告を聞き、いつものようにこう言う。
「そうですか……」 

「相対性理論と量子力学、これが今、掌天の国の物理学界隈で熱い分野」
「へえ」
「相対性理論っていうのは、例えば一時間あたり十の速さで走る車の上から、進行方向に五の速さで球を投げるとしよう。車の上から見たら、球は五の速さで飛んでいく。でも、車に乗ってない人から見たら、車の速さ十、足す、球の速さ五、で十五の速さで球が飛んでるように見える」
「そうなるな」
「じゃあ、十で走る車の上から、進行方向に灯りを点した時、車に乗ってない人から見て、この光は光速足す車の速さ十、になるはずだよね。でも、そうならない。光の速さはいつでも一定なんだ」
「すると?」
「どんな座標系――要するに、動いてる車からでも流れてる川からでも止まってる地面からでも、光はいつでも一定の速さを持つとなると、時間とか空間への考え方ががらりと変わってしまう。細かいところはよくわかんないから省くけど、時間の流る速さが変わったり、空間が伸び縮みしたり、エネルギーが質量を持ったり、とにかく、古典的な常識でから考えるとハチャメチャな現象が起こることが証明されてしまったんだって」
「それは知らなんだ……科学ってとんでもないな」

 振り子の球に乗って、デグマが揺られている。
 ロエルはそれを黙って見つめている。
 日が暮れる。ホメロがやってきて、いつもの報告を聞き、いつものようにこう言う。
「……そうですか……」

「量子力学っていうのは、物質の最小単位である原子よりも、更に小さな量子を研究する学問。光を構成する光子とか、電子とかそういうやつ。あまりにも小さすぎるから、位置と運動量を同時に観測できないんだって」
「どういうことだ」
「例えば、電子の粒に紫外線を当ててやると、その反射で電子の位置はわかるけど、電子があまりにも小さすぎるものだから、紫外線の勢いで電子がどっか飛んでいっちゃう。だから、位置はわかるけれども、それまでどういう運動をしていたのかはわからない。で、逆に電子を飛ばさないような緩い光を当ててやると、今度は運動の仕方はわかるけど、光が電子に当たらないから具体的な位置が分からない」
「もどかしいな」
「つまり、観測という行為自体が対象に影響を与えてしまう、ってこと。で、最近の研究だとここから敷衍して、観測されていない時、光子や電子は未観測時では波状に確率的に存在している、観測して初めて粒子として位置や運動量が決定するっていう性質のものと考えるようになったみたい」
「つまり……後出しジャンケンみたいに、観測されたのを見てから電子や光子が自分の位置とか運動を決めるってことか?」
「たぶん……。まあ、決める、っていうか、決まる、っていうか……ともかくそういうもんなんだよ」

 空の瓶の栓の上にデグマが乗っかっている。
 ロエルはそれを黙って見つめている。
 日が暮れる。ホメロがやってきて、いつもの報告を聞き、いつものようにこう言う。
「――そうですか……」

「揺籃の国法は建国の〈父帝〉が制定したものだが、それは掌天の国の法知識に大いに拠っている。というかほぼ丸写しだ。独自に編まれた法律は、蜃体の取扱い事項しかないと言っていいだが、コピー元から地方自治法だとかの項目が消されている辺り、王権を強めようとする意図がよく見える」
「徹底して隣国の異教国を挑発してるんだ……異教国は聖典がほぼ法律のようなものだから」
「いかんせん、神様が主役の物語が法律じゃあ無限に解釈が出てきてしまう。現状の異教国法はほぼ代官長のわがままで成り立っている。その点、掌天の国は聖典に注釈を付して、土着の風習をも取り込んだ独自の法体系を作り上げた。これがかの国の学問の起源と言われているな」
「だから私もさ、学問イコール法学だと思ってたから、両親に反発して学者になろうって決めた時、法文の暗誦から始めたなあ。暗誦ならペンも紙も使わないから、こっそりできたし」
「つくづく思うけど、君、勉強大好きだろ」
「だから嫌いだってば」

 顕微鏡のステージの上でデグマが寝そべっている。
 ロエルはそれを黙って見つめている。
 日が暮れる。ホメロがやってきて、いつものを報告を聞き、真剣な面持ちで言った。
「ロエル、お話があります」

「世界で一番始めに作られた本は、とある国の王女が書いたもので詩だった。祭りの時の祝詞だね。王様はつまり神官で、儀式の時に王の隣でそれを読み上げるわけ。つまりは、音声と文字が一致しているという、表音文字の最古の例でもある。ところが、最近、これが王女一人で書き上げたものではなく、色々な人の口ずさむ祝詞を聞き分けて書き記したものじゃないか、って研究結果が上がってきてる。この王女のオリジナルではないってこと。だからといって、この最初の本の価値が貶められるっていうことは決してない。……これは、掌天の国でも揺籃の国でも一緒だと思うけど、何か、作品は一人の作者の特権的な産物と思われがちだよね。著作権とか、作者の権利を守るような考え方が出てきたからだと思うけど、でも、必ずしもそれが全てということではないと思うんだよね……誰が最初に考えた、誰が最初に生み出した、っていうのは二の次のお話で、純粋に作品そのものがどうかっていうことを私達が――」
「トラーネ」
「うん、なぁに?」
「あの住所ってどこだっけ。何かあったら頼れってやつ」
「え……どうしたの突然」
「試験だってよ。師匠を群青の町から脱出させないといけなくなった」「……え? えええええ?」


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