ミラージュ・サブスタンス #4

「ロエル、僕、塑性体の取扱者になろうと思うんだ」
 中庭に流れる小川で洗濯物をしている時、一緒に作業していたミュロが言った。彼は二年前、ロエルに促されるまで蜃体学校の門前でうじうじしていた少年である。フルネームは、〈澎湃の〉ミュロ――澎湃とは、水と水の激しくぶつかり合う様のことで、強大さ、苛烈さを意味する単語だ。つまり、それだけの地位と名誉を持つ名門出身であるということ、そしてミュロはそこからの敗走者であるということだ。
 ちなみに、ロエルのフルネームは〈茫洋の〉ロエル。海の広々としていて限りない様子を形容する単語。揺籃の国東部地域には、こういう漠然とした苗字の家がいくらでもある。
「塑性体の取扱者って……あの蜃体って役に立たないんじゃなかったっけ?」
 ロエルはそう訊ねて、水流で冷たくなった指先を息で温める。ミュロはあっさり「うん」と頷いて、
「でも、僕、塑性体の扱い得意だし、今後絶対に需要が高騰するって先生に言ってたから……」
「需要高騰か……でも塑性体って確か、ただ物質としてあるだけだろ。貯蓄体とか伸長体と違って、特異な性質があるわけでもない。蜃体の彫刻でも作ろうっていうのか?」
「さぁ……僕も詳しく教えてもらってないからなんとも……」
 ミュロは自信無さそうに言った。二年前のふっくらした丸顔は今や精悍な顔つきになり、身長も大きく伸びてロエルを抜いたというのに、気弱なところは二年経っても変わらない。
「ロエルはどうだった……今日の授業」
 ロエルをやたらと気にかけるところも。
「相変わらずだよ。得意の節穴芸でクラスを笑かしてやったさ」
「……そうなんだ。ごめん」
「なんで謝る」
 ミュロはすぐに答えず、びしょ濡れの服を思い切り引き絞った。川面に水が散る。下流からは、授業もサボって四六時中、賭博に耽る者達の声が聞こえてくる。彼らのような者でも、蜃体を見られない者はいない。取扱いの難しさに躓いたのだ。
「僕は……君が笑い草にされてるのに、黙っていることしかできなくて」
「別に構わない。無理はしないほうがいい」
「でも、ここ一年くらいずっとそうなんだ。俺の蜃体見えなくなっちゃったんだぁ、とか言って、冗談の種にしてる」
「俺だってしてるさ」
「周りが笑えても、君自身は笑えないだろ! そうでなくたって、辛い環境なんだよ。狭い部屋、臭い食事、娯楽は賭博くらい、残りは全部訓練訓練訓練……で、やっとこさ卒業できたとしても、世間からは底辺労働者として、こき使われる日々――なのに、同僚から蔑まれるなんてさ、僕だったら首を吊っちゃうよ」
 ミュロは喋りながら、何度も服を絞った。相当、やきもきしているらしい。気持ちは嬉しかったが、それでも気持ちだけだ。ロエルは、自分を気にしすぎるあまり卒業資格を得てもなお、ミュロがここに留まると言い始めないかを心配していた。
「ま、俺のことはどうでも良いけどさ……何で、世の蜃体師はあんなに地位が低いんだろうな」
 ロエルもミュロに倣って、服を絞りながら言った。
「何でって……それは、全員がこんな学校の出身だからだよ」
「世間のゴミのような人が集まると言っても、蜃体師を志してやってくる人も少なからずいる。そもそも、揺籃の国は蜃体抜きでは存続できないのに、それを唯一扱える職業の地位が最も低いのは、おかしいと思わないか?」
「確かに……蜃体師がいなきゃ、車も動かないし物資も届かないし本も刷れない、町が動かない」
「蜃体の技術を体系化した父帝は、建国者として皆が尊敬しているというのにな。誰も不思議に思わないことが不思議だ」
 ロエルがそう思うようになったのは、未だに蜃体を見ることができない落第生だからだ。蜃体の扱いは、ロエルにとっては雲の上にも感じる高度な技術であるのに、世間はぞんざいな態度を取る。
「敢えて蜃体師に低劣のレッテルを張る誰かがいるのかも、理由は知らないが――」
「茫洋のロエル」
 ふいに声をかけられて、ロエルは振り向いた。何故か、一緒に振り返ったミュロの方が、驚いた表情を浮かべている。呼ばれたのはロエルの方なのに。
 声の主は、初等部の講師だった。
「校長がお呼びだ。十分後、校長室に行くように」
「あ、はい」
 それだけ告げて、講師は去っていった。ロエルはミュロと顔を見合わせる。ミュロは何故か狼狽えた表情をして、
「い、今の話、聞かれたからだよ!」
 と、震える声をあげた。蜃体師の不当に低い地位のことか。
「聞かれたから何だよ」
「ククク、勘の良さが命取りだったな、バン! ってやつだよ!」
「講談本の読み過ぎだ……。じゃ、行ってくるよ、もしかしたら特例の退学処分かも知れない」
 ロエルはそう言って、立ち上がった。洗濯物はミュロに任せて、校長室へと向かう。口では軽妙に振舞っていたが、内心では膨れる不安に押し潰されそうになっていた。
 もし、本当に退学の話だったら。ロエルは再び、彷徨の日々へと戻ることになる。戦争で故郷を失ってから、幾つもの町を訪れ、住み着いては毒虫のように扱われ、追い出されてきた。その果てに、ようやく流れ着いたこの学校からも、追い出されるというのか。
 笑えない。ほんの偶然で助かったこの命を、犠牲を背負ったこの命を、再び鼠のような生活に晒すなど。
 いくら低級だと見做されていても、蜃体師はこの学校に居る者の悲願だ。ロエルのような者にとっては、特に。
――その命を無駄にしないで、生きて……そして、変えるのよ。
 記憶の中の灰の匂いが蟠る。人生は配られたカードで闘うしかない、が、ロエルの手元に残されたのは、蜃体師というカードだけ。

 校長室は、原型となった城砦でいうところの司令室にあたる部屋である。整然と切りそろえられた階段を上っていくと、徐々に息が詰まっていく。疲労と緊張と不安が募り、心臓がいつもよりも忙しなく鼓動する。
 廊下を少し行くと、重厚な装飾の施された扉が見えてきた。その前に立つと、否応なしに背筋が伸びる。百年前の軍人もこの扉の前に立った時、こうして姿勢を改めていたのだろう。
 ロエルは腹を決めると、扉をコツコツと叩いた。
「茫洋のロエルです」
 すると、内側から強風に当てられたように扉がゆっくりと開く。まるで魔法のようだが、恐らく張力体を上手く活用しているのだろう。見えないロエルにとっては、どう仕組まれているのか知る由もないが。
「失礼します」
 ロエルはかしこまって入室した。鮮やかな絨毯、室内を煌々と照らす蜃体灯、本棚には丁寧に装丁された本がずらりと並び、隅には応接用の椅子と机が重厚感を湛えてある。この学校にこれだけ贅沢な空間があることに、ロエルは違和感すら抱いた。
 蜃体学校校長のオーマッドは、厳めしい顔付で部屋奥のデスクに着いていた。先帝ヴァラント王代随一の蜃体師と言われたこの老人は、じろりとロエルを見やって、口を開いた。
「茫洋のロエル」
「はい」
 ロエルはなるべく余裕を見せようと、毅然と返事をした。内心は恐怖に縮む思いだったが、上っ面すら繕えないようでは、そのうち崩れ落ちてしまうだろう。
 オーマッドは垂れた瞼の奥からロエルを見据えて、
「入学から二年、未だ蜃体視認に至らず、初等部で基礎的な講義を受講……これは当校始まって以来の、大変な不振だ」
「……申し訳ありません」
「しかし、決して怠惰というわけではない。黴臭い書物庫で知識を集め、講義も毎日欠かさず出席し、落伍することもない。典型的な優等生だ。だから、お前については早々に気づけなかった、我々の方に非があるといって言い」
「気づけなかった……?」
「そうだ」
 オーマッドは、二つのインクの瓶と薄紙、ペンを机上に出し、それぞれのインクを使って二つの円を描いた。
 それらを横に並べて、ロエルに訊ねる。
「この二つの円の違いがわかるか」
 ロエルは質問の意図が読めず、硬直した。嫌な汗が背中を伝い落ちる。
 二つの円はほぼ同じ大きさで、ぱっと見たところの違いはなかった。もちろん、完全に同一な円を描くなど不可能だから、線のブレなどの細かな違いはあるが、わざわざそんなことを指摘させる意味が分からない。一言でこれ、と言える違いがあるはずだ。
 だが、見比べれば見比べるほど、円の形に違いはない。ロエルの胸中を焦燥が揺れ始めた。
「考えこむ必要はない。違いがわかるか、わからないか、それだけ答えればいい」
 オーマッドは、読めない表情のまま言う。もはや、ロエルは正直に告げる他なかった。
「……違いはありません」
「違いはない。やはりそうか」
 オーマッドはしげしげと呟くと、二つのインクの瓶を手元に寄せた。
「蜃体は目に見えぬ物体。では何故、父帝ヴァラント王はそれを発見できたのか……お前はどうこの学校で教わった?」
「はぁ……遠征中に偶然、と」
「教科書的には正解だが、真相はこうだ。父帝は視覚異常者だったのだ。だから、訓練無しに蜃体を見ることができた」
 視覚異常。ロエルは、そんな症状を父帝が持っていたことはもとより、そもそもそういう現象が存在することも知らなかった。
「父帝は文字通り、人とは違う世界を見ていたから、蜃体の放つ感覚を裏返したような気配を視ることができた。そして、父帝によって見られたからこそ、蜃体は国を支えるための活用法を見出されていった……そういう偶然だ。ところで」
 オーマッドは、二つのインク瓶を指でつまんで持ち上げた。
「私はこの二つのインクを使って二つの円を描いた。この二つの円の違いは、色の違いだ。全然違うのだが、わからないかね」
「え……」
 ロエルは絶句して、二つの円を改めて見比べてみたが――違いは全く分からなかった。どちらもインクで書かれた、ただの円だった。
 インクで書かれた……ただの円……、そして、色? いくら凝視したところで、ロエルにはわからなかった。インクはインクで、円は円で、色の入ってくるような隙間がどこにあるというのか……。
 すっと、老いた指が円の片方を指す。
「こっちが青で」
 そして、片方の円を指し、
「こっちが茶色だ」
 ロエルはインク瓶のラベルを見た。そこにある表記はそれぞれ、〈青〉と〈茶〉――。
 知っている。青色と茶色という色があることは知っている。しかし、今までにその色を見たことが果たしてあっただろうか。
「俺は、色を、認識できない――?」
「お前も視覚異常だ。色の判断ができないのだ。父帝と、同じく。恐らく先天的なものだろう。お前が蜃体を見られないのは、これが理由なのだ……」
 オーマッドの声が遠のいていく。ロエルは、校長室の絨毯が沈んで、果てしなく落ちていくような錯覚に陥った。
 様々な記憶が、掻き乱されて水中を漂う澱のように、意識へと流れ込んでくる。
 その大半が空っぽの瓶の中を見続けた時の記憶だった。無色透明の世界の中、瓶の中身はいつまでも透き通ったまま、向こう側にある講師の歪んだ顔面が映し出され、遠くからは同級生達の冷笑が聞こえてくる――いつか、報われると思って努力していたが、このまま永遠に報われないまま死んでいくしかないのか?
 かろうじて戦争から生き延びたこの命を、故郷の家族や友達の命も乗ったこの生命を、空の瓶を見続けるままで終わらせるのか?
「そんな、馬鹿な……」
 知らず、涙がこぼれていた。ぼたぼたと、大粒の涙が何色か知らぬ絨毯に落ちて、無色の点を穿っていく。
 あまりにも虚しく、あまりにも悔しかった。震えた歯がガチガチと鳴る。この二年間、押し殺してきた羞恥と悔恨が、堰を切ったように溢れ出してきて、止まらない。
「悔しいか」
 オーマッドに声をかけてもらわなかったら、このまま舌を噛み切ってしまいそうだった。
 ロエルは、激しく頷いた。何度も何度も、繰り返し頷いた。
「悔しいに決まってる! いつか見返してやろうと、必死こいてできることをやってきたのに、たかだか色がわからないとかいう理由で蜃体も見れず、クズみたいな立場を強いられてる! これで情けなくないなんて言えたら、そいつは人間じゃない! そんなの死んだ方がマシだろ!」
 ずっと曖昧な諧謔で誤魔化してきていた本音が、初めて言葉となって出てきた。
 それは自分が思っていたよりも、醜悪な咆哮だった。
「俺は生きてるのに! 生きてしまっているのに! ただ一人生き残ってしまったのに、恥ずかしいとしか言えないまま、いたずらに生きていかなくちゃいけないのかよ!」
 焼け爛れた故郷の風景がフラッシュバックする。丈の長いローブを着た宣教師、生きるのよ、と彼女は言った。こんなことが二度と起こらないように――そのための、ささやかな力ですら、自分には得ることができないというのか。
「……泣くな。聡明なお前が、どうしてこんなことで取り乱す」
「え……?」
 ロエルは思わず呼吸をするのも忘れて、オーマッドの顔を見た。深く刻まれた皺一つ一つで、呆れた表情をたっぷりと演出している。
 手元の装置を不思議な手つきで操作した後、オーマッドはロエルを見て、
「明日の朝一番に、車を送るように手配した。それで〈群青の町〉に向かえ」
「群青の町……って、あの〈群青の町〉ですか?」
 ロエルは信じられない思いで反問した。群青の町といえば、揺籃の国の誇る都市の一つだ。東部の田舎出身のロエルにとっては、まさしく憧れの町。
「揺籃の国に、群青の町は一つしか無いだろう。お前はそこで会うべき者に会え。ここでは、いつまで経ってもお前の真価は発揮できないからな」
「俺の真価……」
「言っただろうに。お前は、父帝ヴァラントと同じ病を持つのだと」
 父帝ヴァラントの病が、蜃体を発見し、揺籃の国を建国するのに導いたとするならば、同じ病理を持つロエルが導かれる先は――?
 身体の中を、風が通り過ぎた。沸々とこみ上げるは、久しく忘れていた希望というものか。
「……はははは、取り乱した自分が馬鹿みたいですね」
 ロエルは、笑いながら言った。もう涙も嗚咽も止まっていた。やるべきことは、まだ始まってすらいない。
「そうだろう」
 オーマッドもにやりと口角を上げて、共犯者のような笑みを浮かべた。

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