ミラージュ・サブスタンス #16

  4

 深夜。庁舎から一ブロック隔てた路地に、二台の車両が停まっている。ロエルは付近の角に立って、庁舎の威容を見つめていた。万が一のためと、受け取った銃が懐でずっしりと重たく存在感を示す。そのお陰か、気分は地に足が着くようで、不思議と落ち着いていた。
「お前ら、初めての顔だな。新入りか」
 運転席から降りてきた男が訊ねてくる。スキンヘッドで大きな丸っこい目をした男だ。お前ら、というのは、ミュロと同行していたからである。
「ああ。前に助けられた恩があってね」
「ふん、律儀に恩を返しにくるとは。大半の奴はバックレるか無心を続ける」
「俺もその大半に加わるはずだったが、ワケありでな」
 ロエルの韜晦するような口ぶりに、スキンヘッドの男は皮肉っぽく笑う。
「返しに来る奴の大半もワケありだ。俺も含めてな。無条件でこんな慈善事業をするわけがないだろ」
「してる奴だっているかも知れないだろ」
 少なくとも、ロエルは身近に一人知っていた。知らない連中からは平気でものを盗む癖に身内に対しては激甘で、あらゆる学問に通暁している癖にそれを生活に役立てる気のない、おかしな少女。
 すると、スキンヘッドの男は不思議そうな顔をして、
「だとしたら、そいつは理不尽って奴だぜ。頼まれてもいないのに善意を押し付けることは、頼まれてもいないのに頬を殴りつけるのとさして変わりねえ」
 肺腑の底が、じんと熱くなった。ロエルは思わず顔を背ける。
「……本当にそう思うのか」
「逆にお前は、そう思わないでこれまでやってこれたのか」
「わからん。昔のことは忘れた」
 その時、右耳の奥で何かが回りだすような感覚がした。じきにその運動が秩序だった音に変わり、アルガの声を届けるに至る。
『諸君、本隊が位置についた。逐次、任務を全うするように』
 これがアルガの開発した蜃体通信機だ。仕組みは単純で、アルガの元にある親機に子機である伸張体を紐付けして、耳に突っ込むだけ。基本受信専用だが、蜃体を見られる蜃体師ならば返答も可能。繊細な構造のため数回伝達したら使用不能になる点を除けば、非常に有用な道具である。
 アルガの号令を聞いたエルデの面々が、いそいそと初期位置につく。ロエルもスキンヘッドの男の後について、自分の持ち場へと向かった。
 トラーネは書類の奪取を担当する本隊、ミュロは見張りに配属されている。ロエルは本隊のアシストを行う援助班、班員はロエルを含めて五人。作戦会議は例のオンボロのバーで全て済ませてある。
 争議中ということもあって、治安維持の名目で深夜も警吏の見回りがあるが、庁舎の周りには一人しかいなかった。三ブロック先の町で最も大きい広場の片隅で、蜃体師達に集ってもらい、フードを被ったり小声で話したりして極上の怪しさを醸し出したところ、警吏達はチーズに寄せられるハエのようにみるみると持ち場を離れていったのだ。今頃は仲良くにらめっこしている頃合いか。
「急ごう、連中もバカじゃない、そのうち戻ってくる」
 班員の一人が居残りの哀れな警吏を襲って昏倒させると、その間に別の班員が庁舎の非常口の鍵をこじ開けて侵入する。いずれも日常の何気ない所作のように、あっさりと片してしまった。本隊は今頃、職員用出入口から潜り込んでいるはずである。
 庁内は暗闇に包まれていた。ロエルの足は少し竦んだが、圧迫感を感じなかったのである程度平気だった。閉暗所になると駄目らしい。
 そこから班員は更に分散して、各々の役分を果たしに向かう。庁内を見回る警備員を無力化するチームと、セキュリティの解除に向かうチームである。ロエルはスキンヘッドの男と共に、後者に属する。
 蜃体セキュリティシステムは、貯蓄体の性質を利用した熱源探知で、反応した蜃体が水分を一瞬で蒸発させ、生まれた気圧差で押し出された空気が汽笛を甲高く鳴らし、曲者の存在を知らせるものだ。これが重要書類の保管室に巡らされているため、解除する必要がある。
『嫌なことがあったら、夜中でも大きな声で喚くことを許されているお坊っちゃんだ』
 どこにいるのかわからないデグマが燥ぎ立てる。導入時は絶大な効果があって、夜な夜な警笛が鳴り響き、近隣住民からは苦情が殺到したとか。今回の作戦の立案にあたって、必要だった見取り図はその時の盗人が遺したものだ。今はどこの牢獄で冷えているのか。
 階段を下って、廊下を右手へ進むと目的のセキュリティ管理室があった。灯りが点っていて、くぐもった男の声が聞こえてくる。先導するスキンヘッドの男が室内の様子を窺って、二本指を立てた。ロエルは外面は努めて平静に、内心では固唾を呑んで頷く。
 二人で管理室の扉を左右から取り囲むと、ロエルは微妙な緩急をつけて二回ノックをした。相方の男は目だけでぎょろりとこちらを見やる。「便所ノックだ」と小声で言うと、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
 そして、中から扉が開くと同時、相方の男は猛烈な勢いでノブを握る手をひっ捕らえ、貝の中身でも引っ張り出すように廊下へ投げ出した。軽やかに警吏の制服がひっくり返る。ロエルはその間隙を縫うようにして、室内へ踏み込んだ。
「な、何――」
 愕然としつつも、支給の拳銃へと手を伸ばす警吏を見て、ロエルは腕を伸ばして喉元を思い切り抑えつけた。そして、そのまま自らの方へ引き寄せると、首筋に肘の一撃を叩きつける。運良く、良くない場所にあたったようで、警吏は意識を失って床に倒れ伏した。
 一連の流れを見ていたらしい相方の男は口笛を鳴らした。
「凄いな、どこの流儀だ」
「伝道流だ。宣教に命をかけた連中の技は違う」
 村にやってくる宣教師に戯れで教わったものだが、不意打ちで、且つ、一対一以外の戦い方を知らないことは黙っておく。強いと思わせておくことに越したことはない。
 管理室のほとんどは、蜃体セキュリティの基盤で占められていた。物理キーでオン・オフを自由に制御できる。散々探し回った結果、ロエルがのした警吏のポケットから鍵が見つかったので、それを穴に挿し込んでオフ方向へとひねった。
 カチっとした手応えの他は、何も変化はなかった。勘違いされがちだが、蜃体は元々音を立てない。騒々しいのはいつも、エネルギーを変換して利用するための機関のほうだ。
「よし、じゃあお前はここで見張りをしていろ。奪取完了の合図が入ったらオンに戻してから脱出。何を盗られたかわからないようにするためだ。いいな」
「了解……」
 相方の男は指示の再確認をすると、次の持ち場へと去っていった。部屋の内にはロエルとのびた二人の警吏が残される。手持ち無沙汰だったので、彼らの手足を縛っておいた。それから、格闘に巻き込まれて乱れた椅子を直して静かに腰を下ろす。自分が犯罪に与しているとは思えないほど静かだった。
 今頃、ホメロはどうしているだろうか。人目を忍んで町に入るならばこの夜は最適だろう。そうしたら、町長を始めとする親派は明日にでも蜃体師の制圧を開始するに違いない。
「この作戦の成否に、蜃体師達の命運が委ねられている……か」
『だが、果たしてアルガ達の目論見通りにいくだろうか、って?』
 デグマがロエルの独り言に応える。
「民衆の共感を煽るのは容易いと思う。事実、軍事予算に重きを置いて税を課す現帝体制の評判はすこぶる悪い。蜃体師の立場と自分のそれが酷似していると感じたら、応援したくなるのかも知れない。あわよくば、町民によって蜃体師が護られることも」
『仮にそれで要求が通らなく争議が失敗しても、金持ちの雇用者連中はともかく、一般人の蜃体師へのイメージは改善される。それだけでも、アルガ達にとっては大勝利というわけだ』
 そのための物語を、と。しかし、ロエルはそこに一抹の不安を覚えずにはいられない。トラーネもきっとそうだろう。
 隣国であり侵略者である異教国の聖典は、神の子による物語の形式を取る。故に無限の解釈が存在し、予想もしない地点で共振、氾濫し、結果教義の暴走という形で、他国に戦を仕掛ける野蛮な国家となった。
 もちろん、非派の方策が異教国の聖典と同等であるというわけではない。故に、ロエルにはこの扇動が最終的にどこへ着地するのか見当もつかなかった。だがそれは、アルガも同じことなのではないか……。
 その時、耳の奥に雑多な感覚が生じた。アルガからの通信だった。
『諸君、物品は確保された。各々、後片付けをして帰還せよ』
 すかさずロエルは立ち上がって、基盤の制御面の前まで移動した。挿しっぱなしにした鍵をオンへと回せば、ロエルの役目は全て終了となる。
 鍵に手をかけ、ひねる。カチッという手応えが伝わってきた。
『――茫洋のロエル』
 突然、声がした。思わず鍵から手を引っ込める。頭の中がひりつくような声音だった。アルガのそれではない。咄嗟に誰何しようとして、こちらの声は届かないことを思い出した。
『これはお前にだけ通じている。こちらはエルデだ。地下=エルデの名を戴く長。もしかしたら会っているかも知れないが、俺は人を覚えるのが苦手でな。お前の顔に覚えはないし、親しみも恨みも感じない』
 聞きながら、ロエルはセキュリティ管理室から出て、廊下を逆戻りに進んだ。
 確かに、メンテナンスは行えないが、器材さえあれば普通の人間にも通信機で情報を伝えることはできる。が、何故エルデのリーダーが、無名であるはずのロエルに語りかけて来るというのか。
『手短にいこう。依頼者は、お前がこれから起こる事態を自分のミスによるものと勘違いしないように、意図を伝えるよう俺に頼んだ。読み上げる』
 不測の困惑から、激烈な不安へ。
 ロエルは足を止めて、振り返った。管理室の灯りが暗がりの中に差し込んでいる。
 その背中を後押しするように、エルデは告げた。
『お前は俺がハメた』
 走った。悪い予感が実感に変わる。
『俺達は何でも知ってる、ホメロのお仲間さんよ。先日はよくも邪魔してくれたな、お陰様で関わりたくもない争議に関わるハメになった』
 エルデの声が滔々と響く。管理室の中へ戻ると、基盤の前に駆け寄った。
 作動オン・停止オフの表記を目視し、手を伸ばした、その瞬間。
『これは、それに対するささやかな意趣返しだ』
 頭上で巨大な生物の咆哮のような、低く重たい大音が轟いた。慌ててオフにキーを回したが、もはや何の意味もない。揮発した水分の勢いは留まることを知らず、巨人の豪放な喉を振幅させる。
『せいぜい、俺たちが安全なところへ逃げている間に良い囮となってくれよ――匿名の蜃体師より。通信は以上だ、健闘を祈る……』
 恐るべきほど素っ気ない調子で、エルデの通信は切れた。伸張体の使用限界が近かったのだろう。
「誰かが、故意に保管室のセキュリティを鳴らしたか……」
 その誰かが誰であるかを問い詰めることは、もはや何の意味もなさない。
 ロエルは再び廊下を疾駆し、脚力の限りを尽くして階段を駆け上がる。夢中で来た道順の逆を辿り、入ってきた非常口を見つけるとノブを回しながら全体重をかける。
 が、扉はまるで壁のようにびくともしなかった。
「クソ、開かない! 外から塞がれてる!」
 仲間はもうとっくに退散済みだった。地下の奥まった部屋の配置だったから、ロエルだけ取り残される形となったのだ。
 ロエルは悪態をつくと、脳内で庁内の見取り図を展開しながら、再び暗がりの廊下を走り出す。逆側の方面から複数人の駆けつける、慌ただしい音が聞こえた。職員用の出口はもう、抑えられているようだ。
 はめ殺しの窓を割ろうとして、与えられた銃を取り出したが、派手な破裂音がしただけだった。いつの間にか、空砲入りのものにすり替えられていたらしい。相手はその道の賊、すり替えなど造作もないことだ。
 今の発砲で完全に居場所が追手の警吏にバレた。自棄になって銃床で窓を殴ったが、罅が入るだけで割れそうにない。ロエルは歯噛みしながら銃を捨て、階上を目指す。
 敗北感が無性に押し寄せた。当たり前の話だ、蜃体師達も一枚岩ではない。ホメロの誘拐が成功して、自分がリスクを負わなくとも、旨い汁にありつけると期待していた者もいたのだ。
 何が意趣返しだ馬鹿野郎、とロエルは毒づく。ホメロやトラーネとの関わりが深かったせいで忘れていた、この世には馬鹿ばかりだ。どうしようもない自分も含めて。
 ――馬鹿でいるままの方がもっと嫌だから、仕方なく。
 バツの悪い顔のトラーネの台詞が蘇る。ごもっともだ、トラーネ。だけど、俺達はどこまで勉強しようと思索しようとも、馬鹿のままなんだ。困っている者を助ける、という純粋な理念は、必ずしも善意のモノじゃない。悪意だって同じように困るし、助けを必要とするのだ。
 善悪は比喩でしかない。誰の本で見た、誰の言葉だったか。トラーネなら知っているか。
 無我夢中で走り続け、気がつくと本隊の目標地点であった保管室に着いていた。中では気絶した警備員の男が転がっている。彼の体温に蜃体が反応したのだ。警笛との距離が近く、あまりのけたたましさに耳を聾するようだった。
 窓の外を見ると、数ブロック先に仲間達が歩いているのが見えた。まるで、深夜の散歩にちょっくら来てみた、という風情。警笛に気を取られる警吏達の目に、その姿は映るまい。
 彼ら彼女らの中には、相方だったスキンヘッドの男もいた。
 ――返しに来る奴の大半もワケありだ。俺も含めてな。
 今回の窃盗に、どれだけの〈ワケ〉が絡まっていたのだろうか。どれだけの利害関係が解消されたのだろうか。その複雑さなもつれ合いを一体、誰が把握しているのだろうか。
 わからない。しかし、そこから吐き出された汚物は、全てロエルに浴びせられた。
 ほどなくして、警吏達が押し寄せてきた。彼らは人間を見る目をしていなかった。
 惨憺たる悔恨に臍を噛むしかない無抵抗のロエルを、警吏達は大声でどやしながら、無闇矢鱈に殴りつけ、地面に引き倒し、手にした警棒で散々に打擲した。一瞬で自分がどこにいるのかわからなくなった。ただ、声を抑えられぬほどの痛みが苦しさに成り代わり、身体をじっとりと蝕んだ。口の中が生暖かい液体で一杯になった。やがて、身体の感覚が遠のき始め、視界が眩んだ。
 意識を失う一瞬前に、このまま二度と目が覚めなければいいと思った。覚めてしまったら、全てのことを受け止めなくてはいけなくなる。全て、全てを――全ての己が、こんなにもちっぽけでしかなかったことを。

 そして何よりも、その後も生きなければならないことが、ほんの少し億劫だった。

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