統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol22
30 石垣島での療養
病院では調子が良くなった私だったが、寺に帰ってからはまた調子が崩れた。本堂には参れるのだが、人に会うのが怖かった。
「お寺の奥さんは、精神疾患らしい」
そう噂されているような気がして、人に会うのが怖かったのだ。
家事も、寺の仕事も、何から手を付けてはいけばいいのかわからない。野菜を前にしても、どう料理すればいいのかわからない。私は煙草を吸っては、鏡で自分の歯を見るという強迫行為を繰り返した。やめようと思っても、やめられないのだ。
「やめてよ、お母さん!」
亮純が言った。
「おかあさん、やめて!」
大智もいらだった声で言った。
その頃大智は、中学受験を控えていた。私がそんな状態では、落ち着いて勉強ができない。隆道は、孝也に相談した。そして私は、石垣島にいる江美子のところで、しばらく療養することになった。江美子は好きな仕事を辞めて、私を迎えに来てくれた。平成2004年の12月の事だった。
石垣島と聞けば、マリンブルーの海と青い空のリゾート地を思い浮かべると思う。でも、冬の石垣島の空は、灰色にどんより曇り、見ているだけで、なんだか気分が滅入った。
江美子はそれまで、会社の寮で暮らしていて、仕事を辞めたために、住む家がなかった。伯父の成人が、住み込みの仕事を見つけてきてくれた。牧場での仕事だった。牧場のそばの小さく粗末な小屋で、江美子と私は寝泊まりした。子牛にミルクをやったり、牛に餌をやったりした。無料で寝泊まりさせてもらえる代わりに、給料は出なかった。私は時々、成人の仕事の手伝いもした。
孝也は、
「薬を飲ませるな」
と、江美子に言っていたが、江美子は私を八重山病院の精神科に連れて行った。隆道は、江美子に、私の療養費として、50万円を預けていた。そのお金で、病院に行ったり、生活を賄ったりしていた。
八重山病院の医師から告げられた病名は、鬱でも神経衰弱でもなくて、「統合失調症」だった。江美子も私もショックだった。統合失調症は、以前は精神分裂病と言われていた病気だ。悲惨な響きがある。その病気に私が罹患していることがショックだった。
八重山病院から処方された薬は、液体の薬だった。とてもきつかったのだろう。強い副作用が出た。眼球上天と失禁だ。失禁する私を江美子は、
「何やってんの!」と、叱りつけた。
八重山病院に行かない日に、江美子は私をパチンコ屋に連れて行った。江美子の趣味は、パチンコだった。私は、パチンコで確変を出した。その感覚が忘れられなくて、次の日も、また次の日も、私たちは、パチンコに行った。ほぼ毎日、江美子と私は、パチンコをした。当たり前だが、そんなことをしていてやっていけるはずがない。隆道がくれたお金は、どんどん減っていった。残金が10万円を切った時、私は、無性に不安になった。
空を飛ぶ飛行機を見ては、私は、
「家に帰りたい」
と、泣いた。子供たちに会いたかった。
江美子は、隆道に電話をかけて、私が帰りたいと泣いていると話した。
「帰ってきてもいいよ」
と、隆道は言ってくれた。広島の家を出てから、1か月が経っていた