無常 うつろいゆくもの
次男との時間
火曜日はとても楽しい日になりました。次男と嵐山の天龍寺にお参りして、昼食を食べて、少し歩いてから天山の湯という日帰り温泉に行ってきたのです。
修行僧である次男が昼間に自由時間があるのはとてもレアなことです。なので火曜日に次男と過ごした時間は、とても楽しく貴重なものでした。
天龍寺は後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が夢窓国師を開山として創建されたお寺です。夢窓国師が作庭された曹源池というお庭がとてもきれいでした。お寺ってなんだか心が落ち着きますね。天龍寺にも海外からの観光客の方がとてもたくさん来ていました。日本の文化に触れて下さって、その良さを感じてくださるのは、私たち日本人にとっては誇らしいことではないでしょうか?
天龍寺を拝観した後は、近くのおうどん屋さんでお昼ご飯を食べました。次男がご馳走してくれました。色々と話しながら食べました。おいしかったし、楽しかったです。
それから、日帰り温泉の天山の湯に行きました。嵐山からは結構歩いたのですが、ここ、すごく良かったです。露天風呂やサウナなどお風呂の種類もいっぱいありました。休憩室もあって、お風呂上りにリラックスすることもできました。すごくリラックス&リフレッシュできました。京都に住んでいる方や、京都に来られる方、ぜひ行ってみてください。おすすめです。
天山の湯からは、嵐電と阪急で河原町に出て、河原町で解散しました。
「一緒にお茶したい」という私に、「朝からおかんと過ごして、もうおかんに飽きたから解散な」と次男(笑)。一緒にお茶できなかったのは残念ですが、楽しい時間を次男と過ごすことができて、本当に良かったです。
長男、次男と連絡も取れなかった日々を乘り越えて
博多に住む長男とは、お互いに仕事もしていることもあって、なかなか会うことができません。でも京都のお寺で修行している次男は、時々私の家に来てくれたり、お茶したりといい時間を過ごせています。
次男が、鎌倉の円覚寺の管長さんの横田南嶺老師のYoutubeのことを教えてくれたりして、私にいい刺激をくれています。
この間会った時には次男が、
「おかん、俺さあ、なんかこの頃修業が面白くなってきた」
と言うので、なんかすごく嬉しかったです。選んだ道を究めていくために頑張っていってほしいです。
そんな長男や次男と、いい関係が築けている私ですが、離婚してすぐの頃は、彼らと連絡を取ることができない時期がありました。もちろん会うこともできませんでした。思春期だった長男と次男。父親に気を遣ったのだと思います。それだけじゃなく複雑な思いがあったのかもしれません。
その頃の私は、今よりずっと病状が悪くかったので、息子たちに会えないことの辛さと、離婚して一人になってしまったことの淋しさに押しつぶされそうでした。そして将来に絶望して、オーバードラッグによる自殺未遂をしてしまいました。言葉では表現できない絶望感と孤独感を感じていました。
そんな辛かった日々があったから、今、次男とこんな風に会うことができて、楽しい時間を過ごせることを本当にありがたいと思えます。長男とはお正月に話して以来話してませんが、話ができるようになっただけでもありがたいと思うのです。
結婚していた頃は、息子たちと話したり、ご飯を食べたりすることは「当たり前」のことでした。そのことに特に感謝もしていませんでした。そんな当たり前の時間を失って、私はそのありがたさに初めて気づきました。気づくことができて、本当によかったと思っています。
辛さ、淋しさ、絶望感を乗り越えることができた私。そして、いつも私に「喜び」と「幸せ」を運んできてくれる次男。修行が終われば、元夫のお寺に次男は帰っていく予定です。なかなか会えなくなってしまいます。淋しくなります。その分、次男と一緒に過ごす時間「いま」という時間を大切にしたいと思うのです。
諸行無常。すべてはうつろいます。悲しい時も永遠には続きません。楽しい時も永遠には続きません。もし、私のブログを読んで下さっている方の中に、かつての私のように、「死のう」と思うほど淋しさや、悲しさや、孤独感や、絶望感を感じている方がおられたら、この「諸行無常」ということを思って、踏みとどまってほしいのです。生きてほしいのです。ずっとその状態は続かないのですから。光が差す日はきっとくるのですから。
「諦めないで!」
そのことが一番伝えたくて、私はこうしてブログを書いています。そして、本を出版したいと思って頑張っています。
心が無常なら人も当然、無常
次男と別れてから、久しぶりに草薙龍瞬さんの「反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な『考え方』」を開きました。今日私が感じていることにリンクすることが書かれていました。
・仏教では、人も心も”無常” うつろいゆくものととらえる。
・心理学の一節には、心は一日に「7万個」もの想念を思い浮かべる。
・「約1.2秒で一個の思い」。それくらい目まぐるしく想念は回転し続けている。
・自分自身の心はコロコロと変わり続けている。だから相手だって同じようにコロコロ変わる。
・人は、互いにコロコロと変わり続ける心で、いつも新しく向き合っている。
・こうした理解に立つと、相手は常に「新しい人」になる。「過去にあんなことをされた、こんなことを言われた相手」というのは、こちらの「執着」。
・本当は、相手に「まったく新しい人として向き合う」ことだって選べる。
なるほどなあ~と思いました。悲しいこと、辛いことが永遠に続くように思うから、絶望してしまうのでしょうね。反対に楽しいことやうまくいっていることが永遠に続くように思うから慢心してしまう事もあるのかもしれません。
心がうつろうのだから、人もうつろう。目の前の相手は、心がうつろった「新しい人」。「新しい人」として見れば、過去に自分が言われたりされたりした理不尽なことに執着することもなくなるのかぁ・・・この心境になるには私はまだまだ修行が必要みたいです。
「反応しない練習」を読み返してみよう!
次男と楽しく素敵な時間を過ごせて、本当に良かったです。そして、その素敵な時間のおかげで、「無常」について思いを巡らせることが出来て良かったです。
これからも、学び、感じ、考える、そう「変化していく私」でありたいです。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
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